「稲村の火」の実際のお話とは? | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

南海トラフ地震・津波よ、来るな!

南海トラフ地震と津波災害の予測がされている高知県から自分の身を守る、家族の身を守る、周囲の人を守る防災を考えていきます。
そして国際交流が多様化する中、文明と文明の出会い部分に注目して、日本人がどうすれば良いのか、について考えていきます。

歴史を紐解くと実に面白いですね。ご紹介した「稲村の火」のモデルは和歌山県湯浅町の浜口梧陵さんのことですが、百科事典ウィキペディアで検索すると次のような事実が分かりました。


「稲村の火」の舞台裏

安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が広村に襲来した時に、浜口梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができたそうです。


結果として村人の9割以上を救ったと云います(死者30人)。津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残したのです。これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られているのですね。


この災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の堤防・広村堤防を約4年かけて修造したのでした。


この大土木工事は、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐ意味を持つとともに、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業であったのです。


広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたものであり、のちに小泉八雲は彼を「生ける神(A Living God)」と賞賛しています。


当時彼は巨大な堤防の建設の際に「住民百世の安堵を図る」との言葉を残しています。堤防完成から88年後の1946年(昭和21年)、広村を昭和南海地震の津波が襲ったが、この堤防のために被害を減らすことができたといいます。


浜口梧陵さんってすごいですね。感動しました。和歌山県湯浅町にある広村堤防の場所を示す地図をご案内します。





湯浅町は醤油発祥の地として有名で、浜口梧陵は代々醤油の商いをする商人の家に生まれたそうです。(完)