メンタルトレーナー 田中ウルヴェ京さんが語る“デキる社員”の条件~現状に甘んじて挑戦しなくなると実力は落ちる。挑戦する気概が必要


各分野で活躍されている10人の方にご登場いただき、キャリア遍歴や仕事観、失敗談や苦労話までくまなくお聞きすることで、“デキるビジネスパーソン”にはどんな思考、行動様式が求められるのかに迫る本シリーズ。第8回のゲスト、田中ウルヴェ京さんは、88年のソウルオリンピックにおいてシンクロナイズドスイミング競技で銅メダルを獲得した元アスリートであり、現在はメンタルトレーナー、コーピングコーチ、経営者として働く――という華々しいキャリアを歩んできました。第1回となる今回は、アスリート時代の経験を振り返っていただきました。

小さいころから“ええかっこしい”で、常に「格好いい人間になりたい」という思いがある

―シンクロナイズドスイミングを始めたきっかけ、オリンピック代表を目指した経緯を教えてください。

6歳の時から水泳教室に通っていたのですが、そこできれいなお姉さんたちを見てシンクロにあこがれたんです。10歳でシンクロを始め、本格的に週6日練習するようになったのが12歳のころ。15歳で日本代表チームに入りました。私は、子どものころからずっと「歴史に名を残す人物になりたい」と思っていたんです。死後、人の記憶から自分が消えてしまうことが怖かったので、「歴史に名前を残せば死ぬ時も怖くないな」と考えたんですね。ですから、日本代表チームに入ったことで「シンクロでトップになればこの世界で名前が残る」ということが大きなモチベーションになっていました。



田中ウルヴェ京さん(メンタルトレーナー/コーピングコーチ)


私は小さいころから“ええかっこしい”で(笑)、常に「格好いい人間になりたい」という思いがあります。私はカトリック系の聖心女子学院高等科に通っていたのですが、高校時代は自分の頭の中に「格好いい=文武両道」というイメージがあったので、「大学4年時に開催されるソウルオリンピックに出て、ソロとデュエットでメダルを取る」という目標を持つ一方、プールサイドに教科書を持ち込んで勉強も頑張っていましたね。当時、聖心女子大学への学内推薦を受けるには上位半分くらいの成績を取っている必要があって、それを目指していたんです。




オリンピックを目指すか、学業に専念するかで両親と対立

―学業とシンクロを両立するのは並大抵のことではないと思います。


オリンピック代表になるには、国内で2番以内に入っている必要がありました。シンクロがオリンピックの正式種目になったのは1984年のロサンゼルスオリンピックからですが、92年のバルセロナオリンピックまではソロとデュエットの2種目が実施されていて、現在のようにチームが実施されるようになったのは1996年のアトランタオリンピック以降のことです。私が代表を目指したのは1988年のソウルオリンピックですから、当時はソロとデュエットのみ。出場できるのは1位と2位の選手だけです。確かに、“狭き門”だったと思います。


高校3年生の時には、校長のシスターに進路について相談したところ、「オリンピックを目指すのはすばらしいが、学業とどっちつかずになってはいけない。シンクロ一筋で頑張ってはどうか」と言われました。学校としては、「学業に専念できない学生を大学に推薦することはできない」という判断があったようです。当時はスポーツで頑張っている人を特別枠で推薦するというケースがほとんどありませんでしたし、これは当たり前の判断だったと思います。


シスターから「成績はクリアしているので、学業に専念するのであれば推薦できる」と聞いた両親は、私に「オリンピックに行ける保障はないし、推薦を蹴ってまで続ける意味がない。シンクロはもう辞めてほしい」と言いました。それまで両親の意見に背いたことがなかったのでずいぶん悩みましたが、最終的にはシンクロを続ける決断をしました。「学業は20代を過ぎてもできるけれど、シンクロに限界まで挑戦するには年齢的な限界がある。オリンピックには絶対に出るから、4年間は思う存分やりたい」と言ったんです。その後、日本大学に進んでオリンピックを目指してシンクロを続けました。その時は、あれだけ反対した母でしたが、黙って支えてくれました。





現状に甘んじて挑戦しなくなると実力は落ちる。挑戦する気概が必要

―ソウルオリンピックでデュエット代表の座を射止めて出場されるまで、どのような思いでトレーニングを続けていらっしゃいましたか?

1986年に、ソロの日本チャンピオンになりました。ところが、「88年までソロのチャンピオンでいつづけられたら、ソロもデュエットも代表になれる」と思ったら、87年にぼろ負けしてしまいました。これは当然のことで、「このままでいよう」と考えて挑戦しなくなってしまうと、実力が落ちるものなんですね。私は、1位を取っただけで頂点を極めたわけでもないのに、表面的な地位に甘んじて「この実力を維持しよう」と思ってしまったんです。しかし、一度ぼろ負けしたおかげで、思い切って限界まで挑戦する決心ができるようになりました。


ただ、心理的な「自分を追い込みたい」という感覚に、身体が追い付かなかったのか、中耳炎をこじらせて、鼓膜に穴があくクセがつき、三半規管をダメにしてしまったんです。痛みがひどくても、ドーピング検査があるために強い薬は使えません。耳鼻科の先生からは「これ以上シンクロを続けると耳が聞こえなくなるかもしれないから、辞めなさい」とも言われました。「オリンピックが人生のすべてじゃないよ」、と。それでも、シンクロを辞めようとは思いませんでした。ある意味では、私は視野が狭い人間だったんです。井の中の蛙で、自分のことしか考えていませんでした。人生の成功は人に勝って有名になることだ、だから何が何でも勝とうと思っていました。いまから思えば、すごく嫌な人間だったと思いますよ。



田中ウルヴェ京さん(左)と佐藤文男さん
(佐藤人材・サーチ株式会社 代表取締役 右)


でも、誤解を恐れずに言えば、スポーツ選手はバランスが悪くなければダメなんです。勝負って、実は人生ではどうでもいいことですよね。スポーツで競うことは人間が限界を知り、学び、成長する機会になりますが、反面、人生の根本的なことを考えれば、人に勝つことよりも共存することのほうが大事です。人間がただただ「勝とう」という志向を持つには、ものすごくアンバランスである必要があるんですね。そして私は、「勝つ」ということに関して非常に思いが強かったと思います。


88年5月のソウルオリンピック最終選考会は、三半規管のこともあって、実力がまったく出せず3位に終わりました。ソロ代表は小谷実可子さんに決定し、小谷さんと組むデュエット代表として、選考会2位に入った先輩選手と私が候補に残ることになったんです。どちらが小谷さんと組んでもいいように、デュエット決勝の前々日まで3人で練習していました。最終的には個人戦の結果から、私と小谷さんが組んで出場することに決まりました。しかし、私が正選手としてデュエットでメダリストになれたことは、べつに、もう一人の選手より努力したからではない。勝負って、結局、最も努力したものが勝つわけでもない。あの時、自分が正選手になれたことは、自分の人生において、どういう意味があったんだろうということは、ずっと考え続けています。



  田中ウルヴェ京さん(メンタルトレーナー/国立鹿屋体育大学客員教授)

1967年生まれ。聖心女子学院初中高等科を経て、日本大学在学中の1988年にソウル五輪シンクロ・デュエットで銅メダル獲得。1989~1999年に日本代表チームコーチ、アメリカ五輪ヘッドコーチアシスタント、フランス代表チーム招待コーチなどを歴任。1991年より渡米、米国カリフォルニア州セントメリーズ大学大学院健康・体育・リクリエーション学部修士課程修了。99年からは米国アーゴジー心理専門大学院にて認知行動療法とスポーツカウンセリングを、2000年米国サンディエゴ大学院にてパフォーマンスエンハンスメントとアスレティックリタイヤメントを学ぶ。2001年に起業し、心身の健康をテーマに、株式会社MJコンテスを経営。アスリートからビジネスパーソンまで幅広くメンタル指導を行う一方、東京・白金台と大阪にピラティススタジオ「DMJボディバランシング」を持つ。米国ネバダ州立大学との完全提携で、ピラティス指導者、ゴルフピラティス指導者の公認資格発行も行っている。企業研修や講演は年に200を数え、最近では報道番組でコメンテーターも務める。夫はフランス人、二児の母。『書くだけで人生が変わる{感謝日記} すぐに幸福を引き寄せる30の方法』(実業之日本社)、『「リーダー力」を鍛える!メンタルトレーニング実践講座』(PHP研究所)など著書、


(ネット引用)

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以前テレビ寺子屋での講演をみました。

しゃべりも内容もよかったです。


ソウルの時は。小谷が目立っていましたから・・・


この時のことで、代表は、必ず3人以上。


二人では、向上しない。と


愛媛の代表は、最初2人でしていたみたいでしたが、


私が水連の方に言って、もうひとり増やした方がいいと、


アドバイスしたら。今は4人いるみたいです。