松下幸之助が考えた「指導者の条件」とは?
「自分より優れた人を使えることですな」


昭和の大経営者である松下幸之助。彼の言葉は時代を超えた普遍性と説得力を持っている。しかし今の20~40代の新世代リーダーにとって、「経営の神様」は遠い存在になっているのではないだろうか。23年にわたって側近として仕えた江口克彦氏に、松下幸之助が口伝したリーダーシップの奥義と、そのストーリーを味わって欲しい。






指導者の条件については、古今東西、数多(あまた)の人たちが、さまざまに述べ、書き記している。


当然、『論語』にも、数カ所に記されている。曰く、指導者は、「温・良・恭・倹・譲」がないといけない。「温厚で、善良で、恭順で、倹素で、謙虚であること」とあるし、また、「九思が必要である。九思とは、明・聡・温・恭・忠・敬・問・難・義」を言う。「物を見るには細かいところまで見届け、聞くときにははっきりと、顔つきはおだやかに、身ぶりはつつましく、物言うときは真心込めて、仕事をするには注意深く、わからない点は質問を怠らず、腹が立っても後難を考え、最期にいちばん大事なのは、利益を前にしてそれが正当かどうかを一度考えてみること」とも言っている。




松下の思う指導者の条件


当連載の関連書籍「ひとことの力」は好評発売中です。上の画像をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします。
松下幸之助も『指導者の条件』という書籍を上梓している。条件として102項目挙げている。しかも松下は、この102項目でも、「これに尽きるものではない」と言っているから、私には不可能と思ってしまう。

さすがに、松下も、「このすべてについて、完璧であるというようなことは、神様でもない限り、不可能と言ってもいいし、自分自身、これを書きながら、いかに実行できていないかを改めて痛感している」と言っているから、ホッとする。ただ、「ある項目は80%、ある項目は30%というように、程度の差はあっても、この102項目すべてについて、多少とも考え実行できているものがなくてはならない。だが、ある項目がまったくゼロという人があれば、ほかの点で優れていても、その人は指導者としての資格はない」と付け加えている。



要は、102項目は、指導者としての心掛けるチェック項目。しかし、102項目は足し算ではなく、掛け算だから、1項目でもゼロであれば、ほかが100点でも0点になりますよ、ということだろう。

とは言え、この松下幸之助の指導者の条件の102項目を眺めていると、気がめいる、少なくとも、私自身は、指導者をあきらめざるを得ないという思いになる。


しかし、そう感じていたところ、ある全国紙の記者が、私の心を見抜いてのことでもあるまいが、まことに感じ入る質問をしてくれた。



取材の内容は、定かに記憶していない。たぶん、当時の政治、経済、経営についてであっただろうと思うが、なにせ、その質問が、側で聞いていて、私にとっての最大の関心事であったから、このことしか、記憶に残っていない。

「松下さん、いままで経営をしてこられたその経験から、指導者として必要な条件は、いろいろとあると思われますし、すでに折々にいくつか挙げておられますが、しかし無理なことだとは思いつつ、あえて質問させていただきます。指導者、経営者にとって、ただひとつ、必要な条件、これだけは、絶対に持っていなければならない条件をひとつだけ挙げて頂けませんでしょうか、いかがでしょうか」



私は、内心、そうそう、それですよ、いくつも挙げられても凡人では、無理ですよと思いながら、さあ、松下が、どう答えるのか、身を乗り出した。


「う~ん、そうですなあ、ひとつね、ひとつだけですな。ま、ひとつだけ指導者に必要な条件を挙げよと言われれば、それは、自分より優れた人を使えるということですな。そう、これだけで十分ですわ」


記者は、大きくうなずき、私は、なるほどと納得した。






終わって、松下に、その答えに感銘したということを告げると、


「そりゃそうやろ。経営者にとって大事なことは、優秀な部下を集め、あるいは、育てることや。いくら優秀な人でも、人間ひとりには、限界があるわ。なんでも一番ということはない。自分より、優秀な人はいっぱいいる。だからな、指導者が、なんでもオレがオレが、と言ってもできんわけや。むしろそういう自分より優れた人を傍に集めて、その人たちを活かし使う能力というか、そういうことができるということであれば、その人は、それで十分、立派な指導者と言えるけど、得てして、指導者という人は、自分より優れた人を遠ざけるな。だから、いくら優秀でも、自分の程度にしか成功せんわけや」




いかに有能な人物を使えるか

漢の大帝国をひらいた高祖劉邦が、あるとき、部下の名将韓信に尋ねる。

「私は、どれぐらいの兵の将になれるか」
 「陛下なら、せいぜい10万人の軍隊の将でございます」
 「それなら、貴公はどうだ」
 「私は、多いほどよろしゅうございます」
 「それだけ、有能な貴公が、なぜ私の部下になっているのか」
 「陛下は、兵の将ではございませんが、将の将となれる方だからです」



つまり、大軍を指揮して勝利を収めるという才能では韓信のほうがずっとうわ手だが、高祖は、その韓信を使いこなせる人物だという中国古典にある話を、いま、思い出した。


(ネット引用)



🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊


良いこと言いますね!



さすが、松下幸之助❗❗



和歌山県人❗❗