イムジン河 加藤和彦の自殺はなぜ
 
 
 
 
 
(続きネット引用)
 
 
フォーク・クルセダーズのきっかけは、加藤和彦が若者雑誌メンズクラブの読者欄へ投稿したからだ。
 
 
最初、医学部の北山修が乗ってきたという。
 
 
四、五人の同好会で始まって、3年の就職活動で解散。解散記念アルバムを作った。
 
 
 
その中に「帰ってきたヨッパライ」が入っていて、それが大ヒット280万枚売れた。
 
 
 
ちょうど、大学紛争、70年安保が起こり、大学が封鎖される状況になり、全国的に大学が1年間機能不全で、その間に芸能活動、期限付きアマチュア的プロになった。
 
 
 
 
このとき、加藤和彦としては、プロとして使えるものだけチョイスしたら、北山修、はしだのりひこ、自分だけだったので、三人でバンド組んだのだ、な。
 
 
止めるまでに、三人で一年間に13億円を稼いだ。
 
 
 
「加藤和彦さんを悼む」と北山修が朝日新聞に追悼文を書いている。
 
 
 
 
それによると、
 
 
 
 
 
 彼はなんでも一流のプレーヤーで、一生懸命だという。北山修に向って「お前は目の前の物を適当に食べるけれど、僕は世界で一番おいしいケーキがあるなら、全財産をはたいてもどこへだって飛んでいく」と言った。
 
 
 
 
ここに加藤和彦の真骨頂があるのではないか、と思う。
 
 
作家でも、作曲家でも、同じで、作品が生み出せないと、部屋の中を転げまわって呻吟すると聞いたことがある。
 
 
曲想が浮かばないと幻覚を生む麻薬を吸ったり、注射する人もいる。あれは、スポーツ競技ならドーピング検査で止めるべきものだ。
 
 
資料をみているうちに丸写しをしてしまう誘惑に駆られるだろう。
 
なにがそのようなエリート意識で自分を追い詰めたのか、未だに判らない。
 
 
 
はしだのりひこをザ・フォーク・クルセダーズの誘い、主導権が加藤和彦にあったのだろう。
 
 
 
きちんとした趣味とか高級の食事の趣味は、生来あったが、それを一層、二度目の妻安井かずみに啓発されたと書かれている。
 
 
 
(つづく)