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★55年越しのゴールイン ~マラソンの発展のために50年間尽くしてきた~
 
 
日本の「マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなぐり しそう)さん。1912年(明治45年)にストックホルムオリンピックに出場するも、トラブルで行方不明扱いに。そしてその後…。
 
 
 
 
 
 
出典:ポプラ書房 『スポーツ人国記』より
 
 
 
 
スポーツ系なら自分は日本初のオリンピック出場マラソン選手の金栗四三の話を推す。
 
 
 
 
 
 
 
 
国内で世界記録を20分以上も塗り替えるような記録を出しながらも
 
 
 
 
本大会では日射病で倒れ、行方不明扱いにされてしまった。
 
 
 
日本の期待を一心に背負いながら、それでも走りきれなかったことで、深い自責の念に駆られた。
 
 
 
それでも日本のマラソンの発展のために50年間尽くしてきた。
 
 
 
 
 
1967年、ストックホルムオリンピック委員会から
 
 
 
「オリンピック55年祭」が開催されるので来てもらえないかという連絡が届いた。
 
 
 
式典後、当時のコースを懐かしげに辿る金栗。
 
 
 
そして55年前にたどり着けなかったスタジアムに足を踏み入れた。
 
 
何故かそこには観衆と役員、そしてゴールテープ。
 
 
 
思い出のスタジアムで念願のゴールテープを切った金栗。
 
 
 
『日本の金栗がただ今ゴール。
 
 タイムは55年…。
 
 これで第5回ストックホルム大会の全日程は終了しました』
 
 
 
 
 
 
 
以下、管理人のコメントと補足です。
 
上記のちょっといいお話は2ちゃんねるからの抜粋なのですが、とても短いので少し補足を。
 
 
 
文中に金栗選手が日射病で倒れ行方不明扱いになったとありますが、これは金栗選手のコンディションが万全でなかったことや、過酷な競技環境によるものだったようです。
 
 
 
当時、日本からスウェーデンへの移動は船と列車で20日もかかる長旅でした。その旅の疲れと、スウェーデンの夜の明るさからくる睡眠不足で、金栗選手のコンディションは万全でなかったようです。
 
更に米もなかったので食事面にも支障があり、その上マラソン当日に迎えにくるはずの車が来ず、金栗選手は競技場まで走っていったそうです。
 
また、競技当日は40℃という記録的な暑さで、参加者68名中およそ半分が途中棄権するという過酷な状況でした。
 
ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ選手などは、倒れて翌日に亡くなってしまったほど過酷でした。
 
 
 
以上のような様々な悪条件から、金栗選手はレース途中、日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱されていたそうなのですが、意識を回復したのは翌日の朝のことであったため棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、金栗選手は行方不明扱いになってしまいました。
 
 
 
そして後年、「オリンピック55年祭」を開催するために当時の記録を調べていたところ、金栗選手が棄権ではなく「行方不明扱い」になっていることにオリンピック委員会が気付き、54年と8ヶ月越しのゴールインが実現したそうです。
 
 
 
54年8か月6日5時間32分20秒3
という記録は世界一遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われています。