ハロン棒・重賞の日(その1)・・・・・短編小説 | しげ爺の密かな『北の国ものがたり』

ハロン棒・重賞の日(その1)・・・・・短編小説

雀のさえずりが耳に付く・・・・、トレーニングハウスの缶詰部屋でうつら うつら目が覚める。
俺は、ベッドから起き上がりスリッパも履かずに窓の所に行き、右手でカーテンをめくり窓の外を覗いてみた。
辺りはまだ薄暗く、しとしとと霧雨が降っている。暗がりの中から黒い影が滲み出し外灯の下まで来ると、はっきりと馬の姿が現れる。鞍を背に置いているのが馬服の盛り上がり加減で想像できる、これから馬場に入り攻め馬に行く所だ。馬は俺の部屋の窓の下を『カポカポ』と音を立てて過ぎてゆく。
その様子を景色の一部として眺めていた俺は、その場でうーんと大きく伸びをする。
身体中の血液が顔から頭に一気に集まってくるのが分かる、耳の奥でチリ、チリ、と音がして、体中の筋肉がミチッ、ミチッ、と音を立て引き伸ばされる。
10秒ほど伸びをして一気に体中の力を抜いてしまう、すると『サーッ』と音がするように血液が体中に流れ出し、睡眠から解き放たれる感覚が身体全体に広がる。と、同時に軽い貧血が俺の脳を襲う・・・・。
カーテンを開け放し、もう一度外の景色を見た俺は『あぁ、今日は雨か・・・・』少しばかり気が滅入ってくる。部屋の明かりを灯し壁の時計に目を移すと長針が今まさに3時を指そうとしている所だった、調教に向かう馬達・・・・、早い厩舎はもう調教を始めていたのだ。
洗顔道具を持って蛍光灯の冷たい光で照らされた廊下に出ると、今日レースに出る乗り役たちがゾロゾロと部屋から出てきた。
ゾンビのように廊下を歩き洗面所に向かう年配の騎手や背丈の高い騎手などは減量がきついらしくて生気がまるで感じられない。そういう俺も減量のせいで肌がカサカサに乾燥している。
さっさと顔を洗い無造作に歯を磨くと他の騎手連中とは殆ど言葉を交わす事無く部屋に戻り攻め馬の段取りに移る。
廊下がにわかに騒がしくなった三角印のあんこ(新人騎手)が先輩騎手に元気よく挨拶している、しかし・・・、いつものことだが誰もまともに返事をしないのであんこの声だけが廊下に甲高く響いている。
正直言って鬱陶しい。
馬場に出て今日の予定数の攻め馬を済ませる、減量がかなりきつい週だったが思った割には身体の切れが良い様だ。すっかり明るくなった競馬場は霧雨が降っているのだが中々清々しい朝になった。
最後の馬から下りて厩務員に馬を預け振り向きざまにスタンドの大時計を見ると時計の針は六時半をさしている、気分が良いうちに早々に部屋に戻りバスタオルをもってサウナ室に向かう、最後の体重調整をする為だ。
サウナ室の脱衣所で裸になりカンカンに乗るとブルンと勢いよく針が振れて、やがてピタリと止まる。
48.0kg・・・・・OKだ!
体重調整が上手く行ったので楽な気持ちでサウナ室のドアを押した、中に入ると今日レースに出る人間達で一種独特で異様な張り詰めた緊張感がある。
視線を床に落とし出ない汗を搾り出そうとしている奴。腕立て伏せや、スクワットで汗を出そうとしている奴。軽量ラインぎりぎりの奴らは必死の形相で最後の調整をしているのだ。
サウナの中をぐるりと見渡すと今日重賞レースで一緒に走る騎手も何人か汗を流している。皆、平場のレースならなんの感情も無く過すのだが、対象レースが重賞ともなると少々事情が違ってくる、目をぎらつかせて睨んで来るのだ。なんとも居心地が悪いし万が一にでも喧嘩に成ったりしたらシャレにならない・・・・。
俺は一つも汗を流さないで、『くわばら、くわばら』などと古臭い独り言を呟きながら早々に退散することにした。
有り難い事に、俺の体重はリミット以内に納まっているので何とか飯にありつける、一人で階段を下りて食堂に朝食を取に行く、出てきた飯はカロリー計算されたスープと温野菜、それと少しの食パンのみ・・・・。
飯を食うたび、いつも思うのだが、騎手の減量はボクサーの減量に比べて遥かに過酷なものだと思う。
一般的にボクサーの減量は試合までの一時的なものだが、競馬の騎手は自分が現役である限り延々と続くのである。俺の先輩騎手の一人は身体的理由で減量が出来なくなってしまった、彼のとった手段は手術により胃の半分を摘出して減量対策としたことだ。
彼は、今もリーディングジョッキーの座を死守している。
食事を済ませた俺はレースの騎乗時間までたっぷりあるので鞍の手入れをした、薄くミンクオイルをひきアブミを取替え風通しがよく日の光が直接当たらないような場所を見つけ置いてくると少しばかり仮眠を取ることにした。
しかし緊張のせいかAM11時30分にセットした目覚ましより少し早く目が覚めてしまった。
口の中がねっとりと粘る、これも緊張と減量のせいだ。ベッドから起き出してペットボトルの水で口をすすぐ、そのまま飲み込みたい衝動を抑えて洗面所に行き吐き出し、袖口でごしごし拭きながら廊下に出ると、窓の所に行きガラッと開けて空模様をうかがってみる、有り難い事に何とか雨は上がったようだ、空の片隅にかすれた虹が出ている。『馬場が乾くな・・・・・』そう思った俺は無性に馬場の状態が気になりだしてきた。
中の良い乗り役仲間を電話で呼び出し馬場管理事務所の人間やガードマンに見付らないように源チャリに二人乗りして馬場の様子を見に行った。
稍重の状態に成っているようだ、馬の足の抜けもまずまずの様子だ。
今日は重賞レース一本に絞込み他のレースは全て断って来ている『馬場も見たしイメージトレーニングの時間もまだあるし、今日は絶対負けらんね』
ブルルルン!武者震いが起きて徐々にテンションが上がってきたのが分かる。
スタンドでは、レースが消化される度にどよめきや歓声が響いてくる。
そろそろ今日の重賞発走時間が近づいてきた。
計量をするために騎手のカンカン場に行き装具一式を抱えてカンカンに乗る、緊張の一瞬だ・・・・。
すると検定官がじろりと俺の顔を見てから低い声で・・・・・『合格』と口の中で呟いた。
俺は胸を張って意気揚々とカンカン場を後にする。出掛けに飲んできた さかずき一杯のスッポンの生血のお陰で肌の張りも戻っていた。
こんな些細なことでもライバル騎手にとっては大きな精神的攻撃になるのだ。
その足で装鞍所に行き馬の背にゼッケンと鞍を置き腹帯を締めながら馬の様子をみてみる・・・・。
『よし!ガレて無い、毛艶も良いし馬体に張りがある、落ち着いて居る様だし・・・・今日は勝ち負けになるな』自然と期待も大きくなってしまう。
テキ(調教師)に挨拶を済ますと早速騎乗指示を受ける、いつも通りに【先行・差し】の指示だ、「頼むぞ~」そう言われて尻をポンと叩かれた・・・・・、」俺はあんまり尻を叩かれるのが好きじゃない。ってか、だいっ嫌いだ。『モーホーぢゃーねーんだよ』と、心の中でつばを吐く。
パッドックに行って馬のトモの運びを見てみるが良い歩様だ!前もコズンでいない!恐らく今まででこの馬の最高の状態の仕上がりなんだろう事が手に取るように分かる。
「騎乗ー!」係員の騎乗命令が掛かる。俺は馬に駆け寄ると手綱を取り左足を曲げて軽く上げる、すると厩務員がすかさず右腕で左足を押し上げる。
タイミングを合わせてポンと馬の上に乗るとアブミにつま先を軽く乗せる、そのままパドックを一周してから本馬場に繋がる通路に入ってゆく。
スタンドに繋がる薄暗いトンネルを抜けると後ろのスタンドから怒号のような歓声が襲ってきた。
深く深呼吸をしてからスタンドを振りかえって見ると大きなスタンド一杯の客が風に吹かれる麦畑のようにうねっていた。
俺の身体は全身に鳥肌が立ち、恐ろしい化け物に飲み込まれそうな緊張感に包まれていた。