血の系譜 (新たな課題)
1978年当時編み上げのブーツというのが流行っていた。
ホテルには早番、中番、遅番とあってよくは覚えていないが中番だったような時間に会社へ行くべく裏玄関で編み上げのブーツを一生懸命編み上げている時後ろで母親が
『私内孫欲しいのよね』と言う。
まず『内孫って何?』と聞いた。
『あら嫌だ!小林家の孫よ。私の友達みんな孫いるのよ』
孫 まるで今で言うなら携帯電話を欲しがるように、みんな持っているから欲しい!という口調だった。
我が家には3人の兄弟がいる。
弟と妹だがどれも役立たずだ。
まず小林家の孫となると有力候補は弟だが…かなりの遊び人で当時は売れ出したばかりだったから遊びも急成長している最中だった。
消去法でいくと、また私だ。
私は今でもだが母親の命令は絶対だ。
会社に行く道のり何度考えても私が内孫作成責任者という答えしかない。
しかしこの問題には相方が必要だ。
頭の中で『内孫』がリフレインしている。
とりあえず会社に行き上司に
『誰か養子になりそうな人いませんかねえ?』と相談した。
だいたい、そういう時
『探しとくよ』で終わるのだが
『もういつ切り出そうか悩んでいたんだけどね!君を紹介してくれってい
う奴がいてね』と話しが進む。
冷静に考える暇なく話しが進むから人生にхが増える。
『養子に来ますかねえ?』
『聞いてみるよ』
今冷静に振り返ると私にとって結婚とは小林家存続の為の手段だったような気がする。
何か成し遂げるには相方が必要となると結婚届けを取り出し
『すみませんが、ここに署名、捺印宜しく』
と契約書を作り区役所に出す。
安易なんだか大変なんだか、よく解らないが他に方法が見当たらない。
当時は高齢出産は30歳と言われ私は28歳で後2年しかない。
差し迫る内孫問題をゆっくり考える暇はない。
次の日相手に会い第一声は
『養子になれますか?』と聞いた。
『僕7人兄弟の7男なんでこだわりません』と言う答えだった。
多少驚いてはいたが時間がない。
30歳までに内孫作成という大願を成し遂げなければ…私は何のために小林家に生まれて来たのか?
20数年後同じ言葉を息子にぶつけられると思わずに私は指命を全うするように内孫作成準備に取り掛かっていった。