ダメ。ゼッタイ。 | 渋谷区 精神保健福祉行政オンブズパーソンのブログ
作者あとがき
 

 この小説は、自分の行いのためにあまりにも厳しく罰せられた人々についてのものだ。みんな楽しく過ごしたかっただけなのけれど、みんな道路で遊ぶ子供同然だった。仲間が一人また一人と殺されて ―ひかれて、不具になり、破壊されてゆくのがわかっても、とにかく遊び続けた。おれたちみんな、しばらくはすごく幸せだった。すわりこんで、働きもせず、ヨタをとばして遊んでいるだけ。でも、それは死ぬほどちょっとの間しか続かなくて、その罰ときたら信じ難いようなものだった。それをまのあたりにしても、まだ信じられないくらいだった。たとえば、これを書いている時、ジェリー・フェイビンのモデルになったやつが自殺したのを報された。アーニー・ラックマンのモデルになった友だちは、この小説を書き始める前に死んだ。このおれだって、しばらくはこの道路で遊ぶ子供たちの一人だった。おれも、ほかのみんなと同じく、大人になるかわりに遊ぼうとして、そして罰を受けた。おれも後出のリストに載っている。この小説を捧げる人々のリストであり、その人々がどうなったのかのリストだ。

 ドラッグの濫用は病気じゃない。決断だ。それも走っている車の前に踏み出そうとする決断。そういうのは病気と言うよりも、判断ミスだろう。山ほどの人がそれを始めたら、それは社会的な誤りになり、ライフ・スタイルになる。このライフ・スタイル独特のモットーは、「今を幸せに ―明日になったら死んでるから」だけれど、死ぬのはアッという間に始まって、幸せなんか思い出でしかなくなる。それならば、このライフ・スタイルも、普通の人間存在のスピードを上げて、集約したものでしかない。あんたのライフ・スタイルとだって違っちゃいない。ただ、もっと速いだけ。何年単位の代わりに、何日とか、何週間とか何ヶ月の単位ですべてが起こる。「現金をつかんで質草は流してしまえ」とヴィヨンが一四八〇年に言っている。でも、その現金が小銭程度で質草が自分の一生だったらそうはいかない。

 この小説に教訓はない。ブルジョワ的じゃない。働くべきなのに遊んでたりしてこいつらはけしからん、とは言わない。ただ、結果がどうなったかを書いてるだけだ。ギリシャの劇は、社会として科学を発見しつつあった。科学とはつまり因果律。この小説にもネメシスの天罰が存在する。運命じゃない。おれたちみんな、道路で遊ぶのをやめようと思えばやめられたんだから。運命じゃなくて、遊び続けたみんなに対する恐るべき天罰なのだ。俺の人生と心の心底からそう言いたい。このおれはといえば、おれはこの小説の登場人物じゃない。俺自身がこの小説なのだ。でもそれを言えば、当時のアメリカ全てがこの小説だ。この小説は、おれの個人的な知り合いよりたくさんの人たちについてのものだ。おれたちが新聞で読むような人たちについて。こいつは、仲間とすわりこんで、ヨタを飛ばしてテープで録音したりすることや、六〇年代という時代の、体制内外での悪しき選択についての小説だ。そして自然がおれたちに鉄槌を下した。恐るべき事物によって、おれたちは無理やり遊ぶのをやめさせられた。「罪」があったとすれば、それはこの連中が永久に楽しく過ごしたいと願ったことで、それゆえに罰を受けたんだけれど、でも、さっきも言ったけど、おれの感じでは、その罰はあまりに大きすぎた。だからおれとしては、それについてはギリシャ式に、あるいは道徳的に中立なやり方で、単なる科学として、決定論的で公平な因果律として考えたい。おれはみんなを愛していた。以下の人々におれの愛を捧げる。

ゲイリーンに(死亡)
レイに   (死亡)
フランシーに(不治の精神病)
キャシーに (不治の脳障害)
ジムに   (死亡)
ヴァルに  (不治の重度脳障害)
ナンシーに (不治の精神病)
ジョアンに (不治の脳障害)
マーレンに (死亡)
ニックに  (死亡)
テリーに  (死亡)
デニスに  (死亡)
フィルに  (不治の脾臓障害)
スーに   (不治の血管障害)
ジェリーに (不治の精神病と血管障害)

……その他大勢に。
 追悼。これがおれの同志たちだった。それも最高の。みんなおれの心のなかに生き続けている。
そして敵は決して許されることはない。「敵」は、みんなの遊び方の間違いだった。
みんながもう一度、何か別のやり方で遊べますように。そしてみんな幸せになれますように。

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