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ちょい罰かなり罪 
世の中には、
罰っていうのがある。
 
重いものから、
軽いものまで。
 
罰を受けたくない、
っていうのが、
人の本音だとは思うが、
 
別にたいしたことのない罰なら、
罰の対象となる行為から
得られる快感とか、利益の方を
優先するという場合もある。
 
罰を覚悟の上で、
あえてやるという行為だ。
 
その人にとっては、
ちょい罰、っていうわけだ。
 
罰が嫌なふりをしながらも、
それほど、応えていない人間は、
そういうところまで計算して、
ルールを破っている。
 
こういう人間は、手強い。
 
そして、引き締めるには、
罰を強化するか、
ルールを守ることのメリットを
見つけさせるか、
そのいずれしかないだろう。
 
実際、ルールを何べんも
破っているだけに、
ルールを守ることのメリットを
教え込むのは、簡単じゃないだろう。
 
でも、信じてみよう、
と思って、そういう人に忍耐できる人もいる。
(私は、忍耐できないタイプだけど...)
 
もちろん、人を信じる、
っていうのは大切だ。
 
その人に、
更生しようという思い、
更生するだけの力がある時には、
その信じる思いが伝わるだけで、
 
人の心っていうのは、
動かされるかもしれない。
 
けれども、必ずしも、
みんな、みんなが、
そういう信じられる、
ということだけで変われるか、
といえば、難しいような気がする。
 
また、人を育てる、
変える、というようなことにも、
きっと、相性のようなものがあって、
 
厳しくできる人と、
厳しくされると引き締まる人は、
相性がいいが、
 
やさしく指導する人と、
厳しくされると引き締まる人では、
きっと相性は悪い。
 
指導される側は、
張りがないかもしれない。
 
反対に、
厳しくする人と、
厳しくされると緊張感だけで
何もできなくなる人とも、
相性は悪い。
 
信じるか、罰を与えるか。
 
人を更生するときには、
誰でも、迷うところだ。
 
先日、現法務大臣が、
死刑の現場に立ち会った、
というニュースがあった。
 
罰の場面を見た、というわけだ。
きっと、罰について考えさせられただろう。
 
けれども、そういう人々が、
社会で行ってきた犯罪を見れば、
更生の方法について悩むことになるだろう。
 
人は、思いどおりには変わらない。
自分でさえも、そうだ。
 
人間は、むずかしい生き物だ