あの日夢見た10年先へ【2nd season】


7月25日、19:13分、母は、僕に手を握られ、
見守られながら、逝去しました。


母は昏睡状態になる寸前、逝去する5日前まで、
僕のブログを楽しみに見ていました。

自分と同じ病気の人が、同じ道を辿って欲しくない。

だから、ありのままを書き続けてほしい。

自分が犠牲になる意味が何処かで
見いだせるかもしれないと言っていました。

きっと自分の生きた証を残してほしい
そういうこともあったんだと思います。


このブログを僕が書き続けているのは、
生前の母の意思です。

母の側で介護し続けた2ヶ月半の闘病生活を
綴っています。

未だ悲しみが減ることはありませんが、
自分の気持ちに整理をつけるために、

前に進むために、書いています。


読んでいただけている皆様に、感謝致します。

Amebaでブログを始めよう!
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月から見守る光

今日は、母の2回忌。



2年前の今日、


もう意識はないはずなのに、


最期の息途絶える瞬間、


体の底から呻くように吐き出した、


叫びにも似たような声を思い出す。


きっと、ありがとうと、
そう言うために、

最後の瞬間、

一瞬だけ戻って来てくれた。





母は自分の多くの幸せを我慢し、

犠牲にしながら育ててくれたと思う。



しかし、それに見合う親孝行を

十二分にしてこなかった後悔で
苦しんだ1年前。


その頃よりは苦しみが取れ、

前向きになれてきたかなと

感じていた2年目。



1年目は毎日のように母が出ていた夢も、

今では何日かに1度の割合になった。


これまでの夢に出てきた母は、
病気で苦しんでいたり、

余命が分かっているから


僕は精一杯の感謝と愛を伝える

夢ばかりだったと思う。


余命いくばかを感じさせないように

夢の中で明るく振る舞っていた。



きっと現実世界で成し得なかった

後悔や懺悔を浄化させようと

精神を安定させようと夢の修繕機能が

繰り返し見せてくれていた。



しかし最近になって見る夢は、

病気だった事実はなく、


幸せに暮らしていたり、
余命宣告されたはずなのに、

奇跡は起きるもんだねと


何年も健康に楽しく過ごしているような

夢に変わってきている。




きっと現実世界で十二分に

成し得なかった後悔を浄化させようと

夢の修繕機能が、更なる安定のために

見せてくれているのだろうか。



難病を罹って逝去するまでの数年間、
何度も一緒にいて欲しいと言われていたのに、

面倒臭くて照れ臭くて、

近くに居るのに一緒にいる時間を

作ろうとしなかった僕の元に、


母は何日かに1回なら良いでしょと、

夢の中に遊びに来てくれているのだろう。




余命宣告を受けてから2ヶ月半、

僕は毎日母と一緒に居れたけど、


体の不自由で出来なかったことや

行けなかった場所が沢山ある。


照れ臭くて抱きしめてもやれなかった。


そういう事をしてあげられる夢の中の母は、

幸せに思ってくれているのだろうか。






「お母さんが居なくなっても、
月からあんたのことを見ているからね」

亡くなる直前の言葉を思い出す。








昨晩、窓から空を見上げると、
月は何だかいつも以上に
金色のオーラをまとって輝やいていた。



今年からまた一緒に居れるようになった
愛猫まろんも僕の膝の上で月を見上げていた。


何故かいつもよりも口数が多く、

甘えるような声を出していたまろん。





少し開けた窓から不意に入ってきた風に、

今日のお供え物にしていた

母の大好きな一輪挿しの赤い薔薇が揺れた。



きっと、ずっと、これからも、

こんな風に息吹を感じさせてくれながら、


母は優しく空から

見守り続けてくれるんだろう。







親を持つ皆様、子を持つ皆様へ。

どうか、後悔をすることのない

家族との関わりを紡いでいって下さい。



また何年か後に、

僕はここに戻ってきて、

自分勝手に心情を綴ろうと思っています。



今回も読んでいただき、

ありがとうございました。

季節はこれからも、また、何度も繰り返していく。


1年前の今日、自分が何をしていたか
はっきり覚えている。

焦燥感、危機感、飢餓感、
自分の持つ感覚全てが自分であり、
他人のようだった。


1年前の自分を照らし合わせに、
母の亡骸に手を合わせに、
今、僕は地元・広島に来ている。



今朝の東京は、
あんなにも激しく雨が降っていたのに、
広島空港に到着すると、快晴だった。


西日本では未だ梅雨は明けず
今朝も豪雨は続いていたのに、
雲間から太陽は姿を表し、
夏の空を模していた。


まるで、母が良く来たねって
天気を操って
快晴にしてくれているような気がした。


広島空港から三原行きの
バスを待つ小1時間、

空港の展望台に来て、
僕は入道雲を眺めていた。



つい2年前、祖母の法事に
母と訪れた時も、ここに居た。


難病を患い、手のかかる
母の近くに居ることを疎ましく感じ、

ひとりで屋上に来て、
景色を眺めていた。


一緒に行こうと言えなかった。


少しでも近くに居たくなくて、
バス乗り場の前に、
何も言わず母をほっぽりだして、
屋上に来ていた。


あの時の自分を振り返り、
取り返せない時間を後悔と共に振り返る。


この1年間、ずっと母に対する
自分の行いを悔み続けてきた。


ある時から冷たくなって距離を置き、
背を向け続けてきた後悔と共に
この1年間を毎日、過ごしてきた。



東京ではない母と居た
この生まれ育った町に身を置くと、
眠っていた記憶と涙は呼び戻され、
頭の中は混沌とした。


自責の無限ループに陥る。


バスに乗った記憶も余りない。




気がつけば、僕は母のお墓の前で
手を合わせていた。

墓跡に薔薇なんておかしいけど、
薔薇が大好きだった母は
きっと喜んでくれている。


墓石には母の名前が彫られていた。

東京から電話でお寺にお願いしていたので
母の名前を見るのは今回が始めてだった。


日付は1年前の令和元年7.25が記されていた。


目にした瞬間、
受け入れて続けてきた現実に
改めて、目瞼が潤む。



母はこの1年間、
毎日のように僕の夢に出てきた。


逝去して3ヶ月目くらいまでは、
夢に出てくる母の余命は僅かなもので、
いつも苦しそうな顔をしていた。


その時間の中で、僕は精一杯母を労い、
優しくしていた。


それが半年目を超えたくらいから、
夢に出てくる母は、余命は少なくも
元気な姿を見せてくれるようになる。

だから、いつも色々な所に
連れて行ってあげるようになった。



僕は現実に目を覚ますと安堵したのか
良く涙を流していたことを思い出す。


ここ最近の夢に出てくる母は
病気も患っておらず、

歳も実際より若くなったり、
元気な姿で現れる。


だから海外に旅行したり、
実際にしてあげられず後悔してきたことを
夢の中で叶えていた。


母は夢を通して、僕の後悔を浄化させ、
もう苦しまなくても良いよと
メッセージをくれているのだろうか。


一時よりは幾分、心が軽くなった気がする。


こんなことを書くなんて、
都合が良すぎるけど、

夢の中で母と楽しく過ごすことで、
僕の中で苦しみは浄化されつつある。


勿論、この後悔とは一生一緒に
生き続けなければならないけど、

亡き後も母は僕の心の中の浄化作用を
し続けてくれている。


母の存在はなおも偉大だと思う。



墓参りが終わり、お墓近くの
母が大好きだったお好み焼き屋に行くと、
いつも以上に混んでいた。

空いてる席はないとあきらめようとした時、
店員はまるで、予約席にしてくれてたように、
母と僕が使っていた席へ案内してくれる。


1年前の四十九日の時、
更には2年前に祖母のお見舞いで
連続して母と一緒に座った席だった。

こんなにも混んでいるのに、
奥側の特別な4名席が空いているなんて。

きっと、母の力が働いているんだと
確信と安心を覚えた。


確か1年前の母の納骨時は雷がゴロゴロ鳴って
今にも雨は降り出しそうなのに、お祈りの最中、
雨はずっと振り留まってくれていた。

それが、お祈りや儀式を終え、
お好み焼きを食べようとお店前まで来ると、
我慢しきれず、ついに大雨は降り出した。

休憩に入り、閉じていたお店の店主が
何故かふいに出てきて、僕を招き入れてくれた。
そしてお好み焼きを食べさせてくれた。

お店に出る頃には雨は止み、
快晴になっていた。
店主も驚いていた。



今回も店主や店のお客さんが、
昨年度と同じように、
こんな不思議な天気もあるんだねと言っている。


きっと母はお墓参りをしやすいように、
天気を操って、僕に前向きなメッセージを
届けてくれたのだろうか。



空には入道雲が姿を出し、

セミの鳴き声が聞こえてきた。

今年初めてのことだった。



暑い夏が始まる。


季節はこれから、また何度も繰り返していく。





親を持つ皆様へ。
どうか、後悔をすることのない
家族との関わりを紡いでいって下さい。

また何年か後に、
僕はここに戻ってきて、
自分勝手に心情を綴ろうと思っています。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。

「母と過ごした77日間」最後のブログ(後編)

今日は小・中学時代を過ごした岡山市を訪れる。



もう何年行ってないのだろう。


思春期の8年間を過ごした町は

今もまだ、形を残しているだろうか。



昨日は幼少期を過ごした広島の江波本町と

高校時代を過ごした広島の尾長町を訪れた。



母と過ごした時代を回想しながら、

ここまで育ててくれた感謝の気持ちを持って

歩きまわった。



江波本町にある母と良く食べにいった

お好み焼き屋は今もまだ残っていた。


家のすぐ裏にあった海の上には

防波堤が立ち、高速道路が走っていた。



尾長町のマンションの近く、

母と良く行ったうどん屋は潰れていた。


一緒に花火をした公園はまだ残っていた。



変わってしまったものと

変わらず残っているもの。



母と過ごした思い出だけは、

自身がどれだけ変わっていっても、

変わらず、残り続ける。



大切な人を失うことは

“喪失”ではなく“獲得”だと

友人が教えてくれた。



母が自分を犠牲にして、この数ヶ月間で

僕に獲得させてくれた多くの気付き。


多分これからも母は、

様々なものを与え続けてくれるのだろう。





1日中歩き回り、気がつくと夕暮れ時。


広島駅前のデパートのトップにある

フードコートに来ていた。



母とこの景色を見ながら話していた

1年前の日のことを思い出す。



「もう、お父さんと離婚してもいいかなぁ?」



窓の外を見ながら涙を流していた。


あの時の会話が頭の中で、反芻する。




不意に横から「たっちゃん!」と

女性の声が聞こえてきた。



母の機嫌が良い時、僕に声をかけるのと

同じ呼び方とトーンだった。



驚きながら横を向くと、

母親が、息子と楽しそうに話している。




僕の目から一気に涙が溢れ出した。


昨日からずっと我慢していたのだろうか。



“納骨を期に、もう涙は流さない”



そう決めていたのに、

母と子どもの声が耳に入ってくるたびに、

次々と涙は溢れてきた。



そのうちに、子どもが大きな声をあげると

しっ!静かにしなさいと怒られる。



その言葉は、


「いつまでもめそめそしないの!」


そう僕が言われているようで、

持参していた母のハンカチで涙を拭った。



母は向こうの世界から、

僕がたくさん笑える毎日を送れるように

見守ってくれてるはず。



もう泣くのはやめよう。




沢山幸せになって、


毎日、産んでくれてありがとうって


空に向かって呟こう。




お母さん、


産んでくれてありがとう。



ずっと見ていてね。



今まで、本当に、色々とありがとう。





___________________________________




明日からの1週間、奄美大島に

自身の気持ちをリフレッシュする旅に出ます。


「母と過ごした77日間」のブログは

今日を境に不定期になりますが、

奄美大島で写した写真はあげていくので、

興味がある方は見ていただけば幸いです。

http://Instagram.com/tatsuro.tt


ブログに何度も登場したまろんも

隔日で更新しているので覗きに来て下さいませ。

http://instgram.com/maron_japanesebobtail



今まで、拙い文章で綴られた稚拙なブログを

読んでいただき、ありがとうございました。


「母と過ごした77日間」最後のブログ(前編)


僕は今、母の遺骨を持って広島に来ている。


いよいよ四十九日を迎えた。



毎日、母の仏壇に手を合わせ

話かけてきた日々が終わろうとしている。



四十九日は、それまで喪に服していた遺族が

日常生活に戻る日。


忌明けになるので、悲しみは薄れ、

これまでの笑顔が戻ってくるとされている。




今日を境に、母の遺骨とも

お別れしなければならない。



同時に、今までの悲しみの感情とも

お別れしようと決めて

今日まで僕は、考え、悩み続けてきた。





羽田空港まで高速バスで行き、

母の遺骨を持って飛行機に乗り込むと

ちょっとした、奇跡が起きた。




“本日は満席です”と機内に

お詫びとお願いのアナウンスが流れる。



母の遺骨は何処に置いたら良いかと

CAに尋ねると、膝の上にお抱え下さいと。



肉体があった時よりは軽いものの、

骨壷の重さもあり、ずっしりとくる。



1時間半もこの状態で耐えれるだろうか

不安に思っているとCAがこちらに来て


お隣の席がキャンセルになりましたので、

どうぞ遺骨をお隣にシートベルトで留めて

お置き下さいと告げられた。



立ち上がり周りを見渡すと、

1つ足りとも他で、空き席はなかった。



まるで母が僕に負担をかけまいと

魔法をかけてくれたようだった。




1時間後、広島空港から直接、

懇意にしているお寺に行く。



御坊さんに念仏を唱えてもらい

今までの母との記憶を思い起こす。



その後、ご先祖様の墓前に行き、

母の遺骨を持って、お墓の蓋をあける。



そこには祖父母の骨壷があった。



その間に母の骨壺を挟んで置いてあげる。



「お母ちゃん


「お父ちゃん



闘病中、母は天井を見上げ

幾度も涙を流しながら呟いていた。




“お母さん、やっと一緒になれたね”



きっと母は、祖父母と共に

笑っているはずだ。





この時から空はゴロゴロと鳴り始め

黒い雲が広がり始める。



今日の広島は36℃を記録し、

驚くほど暑かった。



僕は慣れないネクタイを締め、

喪服を着ているせいで

物凄い量の汗をかいていた。


和尚さんが、この1週間、雷は鳴っても

雨が降らないから蒸し暑いと話してくれた。



汗かきの僕はふらふらしながら

ハンカチで汗を拭っていた。




その後、また不思議なことが起きた。



母が好きだったお好み焼きを

食べさせてあげようと、

遺影写真を持って所縁のお店に歩いて向う。



着く頃には、ジャケットは脱いだもの

長袖のせいで脱水症状を起こしそうだった。



お店に着くと、店主はお昼休憩中で

扉は閉まっていた。



次第にポツポツ雨が降り始める。



これはタイミングが悪かったなと思っていると

店主の奥さんがドアを開け

お店を開けますから入って下さいと

招いてくれた。



お店をくぐった瞬間に、滝のような雨。



こんな豪雨は、この季節には珍しいと

店主が驚き、笑っていた。



母の前に、お好み焼きを小皿に取り分け、

置いてあげる。



“美味しいね”と写真に話しかけながら

食べる僕以外の客はいない。



人気店でいたも混んでいるのに

今日は僕と母の貸切だった。



食べ終わって、外に出ると雨は止んでいた。



気温も下がり、涼しくなった野外は

とても心地良かった。



お好み焼きを食べさせてくれ

雨にも降られず、気温だけを下げてくれた。



母がまた、魔法をかけてくれたようだった。



更に驚くことに、空を見上げると

虹がかかっていた。



まるで、母が、今までありがとうねと

感謝を伝えてくれているようだった。





もうそんなに悩まないでと写真の中の母が言ってくれてるような気がした。

母が逝去してから来週で四十九日になる。



この世と来世とを彷徨う中陰の日。


49日を境に、自宅に祭壇している

母の遺骨ともお別れしなければならない。



来週の今日には、広島にある

祖父母のお墓に、納骨をしに行く。


そこで1週間に1度に縮小した

このブログもこれまでのように

不定期に戻そうと思う。



1か月が経ちその間、様々な世代の人達に

これまでの自分と母との関わり合い方や

後悔してること、悩んでいること、


今後の身の振り方を聞いてもらい、

少しづつ気持ちは浄化しようとしている。



周りからは、悩みすぎだし、

考えすぎだと言われることもある。


悲しみや苦しみはこの四十九日が

終わるまでに整理をつけようと


母へしてあげれなかった様々な後悔を胸に

毎日、自分を省みている。




数年前から母に冷たくしていた自身の姿は

あんなにも憎んでいた父親が母にしてきた

その様と似たものがあると気が付いた。




自分の体内には、彼の血が半分流れている。


そのことを考える時、血液を半分

抜き取りたい衝動に、今でも駆られる。




母は最後まで自分の生き方に後悔していた。




あんな父親を選んでごめんねと

何度も謝っていた。




どうしようもなく悔やみながら

弱っていく母を見るのが辛かった。




4ヶ月前、余命宣告を受けて直ぐ、


母がずっと行きたいと言っていたのに

連れていってやれなかった

プラハに行く覚悟を決めた。



しかし時既に遅し、

その体力は残っていなかった。


代わりに選んだ長野旅行。



僕が中学2年の時、

母と2人で訪れた上高地や松本に

最期の旅行をしようということになった。



片道3時間の車移動は体に負担が掛かり、

30分起きに休みながら、

車内でも横になりながら

5時間以上をかけて、訪れた。



質の高い温泉宿に泊まり、制限はあったが

食べれる美味しいものを食べさせてあげた。



2泊3日、母との最後の旅行。

人によっては、充分の親孝行だよ

そう諭してくれる。



しかし、僕が母にしてもらった

深愛を考えれば最後に、ほんの少しの

親孝行しかしてあげられなかった。



これを期に残された時間は国内の

色んな旅館に2人で泊りに行こうと

話していた。



母を避けていたこの数年間を取り戻そうと

これまで真っ当に育ててくれた

恩返しをしていこうと思っていた。



しかし、悪性腫瘍の進行は早く、

これっきりになった。





今日までは、辛くなる気持ちを避けるため

母関連の写真を見るのも避けていた。


しかし四十九日までに整理しないといけない

避けては通れない様数々のこと。



やっと見返す気持ちの余裕が出て

開いた長野旅行写真。



母が笑顔であればあるほど、

まだ、胸は苦しくなる。



49日を境に、僕の迷えるこの気持ちとも

お別れしなければならない。



もうそんなに悩まないでと

写真の中の母が言ってくれてるような気がした。






会いたくても会えなかった、まろんとやっと会えた。

未だ、ほぼ毎日のように母が夢に出てくる。



今日見た夢は、あと1日で命が無くなるから、

それまで精一杯楽しいことをしようと

2人でショッピングをしている夢だった。



昨日は、母がずっと行きたいと言っていたのに

とうとう連れていってあげれなかった

プラハの街を一緒に散歩していた。



夢でいくら毎日のように会えても、


夢の中の母はいつも笑っていっても、


実際には、何もしてあげられなかった。



僕の無念は残り続ける。




これまでの夢は生前の設定のことが多かった。



しかし最近では、亡くなった現実の世界で

夢が始まることもある。



1ヶ月が過ぎ、ようやく母の死を

受け入れるようになって来たのだろうか。





今週、母のマンション部屋の解約をした。



都立大学駅の家からタクシーで

僕の家までの道のりを辿っていた。



遺骨を座席シートに置くと、

母がすぐ隣に座っているような気がした。



17年間、目黒区で過ごした思い出。


目黒通り沿いの様々な箇所がアバターになり

次々に思い起こされる。



当分はこの界隈に来ることもないだろう。


苦しみが思い出に変わる時は

いつか来るのだろうか。



そう思って、走馬灯のように

これまでのことを、車内で思い描いていた。



30分程で、戸建ての自宅に着いた。



ずっと猫のまろんに会いたがっていたのに

とうとう会えずに、逝去してしまった母。



あんなにもまろんを愛でていたのに

会いたくても会えないから、

携帯越しに様子を見せてやるだけだった。



今日はやっと、まろんと対面できる。




僕は母の入院する病院から戻って来ると

いつもまろんに母の病気のことを伝えていた。



余命宣告前までは、

1ヶ月に1度くらいしか会わなかったのに

毎日居るようになれば、言い争いにもなる



そんな愚痴もまろんに聞いてもらっていた。



話しかけると、様々なトーンと鳴き方で

実際に話をしているような気になるので

随分、話込んだ時もあった。


つい1ヶ月前のこと。



だからなのか家に母の遺骨を設置すると

いつもは3階にいるまろんが

1階まで降りて来て、祈る僕の横に座った。



まるで、今日、母が戻ってくるのが

分かっていたかのようで、僕は驚く。



今まで無かったものが、

置かれてあったからなのか


目を細めて、母の遺影写真を見ていた。




49日が終わるまでは

お母さんはずっとここにいるからね。



まろんに告げると、こっちを振り向き、

にゃぁっと短く鳴いてから、

しばらく、母の方を見続けていた。



まろんは、僕が知り得ない色んなことを

知っているようだった。



その日の夜は、いつもよりも

僕の腕に体をくっつけ、寄り添って

眠ってくれたまろん。



まるで母の魂が宿っているようだった。








あんたが生き甲斐だと、繰り返し言っていた母の持ち物

母が逝去してから、1ヶ月が経ちました。



週1回、毎週木曜日の午前更新と煽って

いながら先週はお休みしてしまいすみません。


先週分を含め、今日、明日と連続更新します。


未だここに書けていない母との出来事などを

綴っていこうと思います。


 

****



先週、母の住んでいた部屋の引越しをした。



シンプルで荷物の少ない生活をしていた母。


引越し作業は、業者ではなく友達に頼み

半日もあれば2人で済むくらい楽だった。



買いだめはしない。


必要最低限のものだけを持つ。



衣類など、良いもの1点主義なので、

女性なのに驚くほど、枚数が少ない。



きっと僕がシンプルに生きていけるのも

母の影響を受けたんだなと思いながら

様々なものを箱に詰めて行く。



ストックルームを借りることも考えていたが

この量なら今の僕の部屋で充分保管できる。



押入れを開けると僕の幼少期の写真が

何冊ものアルバムにまとめられていた。



写真の横に、丁寧にコメントを付けて

僕の成長を楽しみにしている記録が

何十年と綴られている。



ページをめくるたびに、胸が苦しくなり、

様々な感情が熱くこみ上げてきた。




僕が初めて雑誌に掲載された

写真コンテンストの切り抜き。



初めて受賞した写真賞の記事など、

丁寧にファイリングされている。



あんたが生き甲斐だと、繰り返し言っていた

母の心情が胸に刺ささった。




余命宣告を受けてから整理した

宝石箱を最後に取り出す。



ダイヤや金、パールなどのアクセサリーは

知り合いの業者に頼み引き取ってもらったが

そのうちのいくつかは


「あんたが将来、結婚する人にあげなさい」


そう言って大切な宝石を見せてくれた。



最後に指輪をはめた、母の姿が蘇える。




それと同じくらい、大切にしていると

出しきた僕が学生時代に作った美術作品。



東京で一緒に過ごしてきた17年間、

8度もの引越しをし多くの物を捨てて来た。


しかし母は、未だ全ての作品を持っていた。



僕は荷物を少なくするために多くの物を

撮影して、デジタル化し保存している。



こんな昔の作品なんて、かさ張るし、

写真に撮って捨てれば良いのにと言うと



「写真だと、手垢感がないでしょ、

    このまんま、残しておきたいのよ」



少しはにかみながら、作品を手に取った。



不意に母の声が聞こえた気がした。



つい2ヶ月前の出来事。



まるで母も一緒に引越しの荷詰めを

しているかのような錯覚に陥った。



母は嬉しそうに笑っていた。





あれからほぼ毎日のように母が夢に出てきて笑っている。

母が逝去してから、3週間が経った。

 

 

あれからほぼ毎日のように母が夢に出てくる。

 

 

夢の中の母は、生前の元気な姿だったり

病気を患っている頃の姿ではあるけど

話ができる状況が多い。

 

 

不思議なことに、目が覚めた後は、

夢の内容を克明に覚えていた。

 

 

それゆえ、現実に一瞬で引き戻され、

目が覚めた後の僕は、良く泣いている。

 

 

 

そんな中でも、銀行や区役所などに

母の様々な手続きをしに行く日が続く。

 

 

心を平常に保とうと思っても、

死亡届を出さないといけない場面も多々あり、

 

相手方に、母が亡くなりまして…と

伝えてからの手続きには心が折れそうになる。

 

 

こんな時に、兄弟や父が居れば…

 

どれだけ考えてきただろう。

 

 

けれど、今となっては僕が選ぶことができない

生まれ持って定められた家族構成だから

仕方ないと思えるようになった。

 

 

むしろ、僕に奥さんや子どもが居れば、

気持ちが紛れたのになと考える。

 

 

けれど、僕は未だ夢を叶える期間の最中、

結婚は40代でと昔から考えていた。

 

それも20代の時から決めていたことだから

仕方がない。

 

 

最近は考えることが多くて、

独り言が増えた気がする。

 

 

否、独り言ではなく、母や、祖父に

話しかけているだけだ、

そう気を強く持つようにしている。

 

 

 

先週、母の家の介護ベッドや車椅子、

酸素吸入器などの用品を

業者に引き取りに来てもらった。

 

それに伴い、様々な母の衣類や小物も処分。

 

 

気持ち悪いけど、引き取りに来る前に

1泊して、母が眠っていたベッドで寝てみる。

 

 

捨てる前に

母が着ていたパジャマを着て布団に横たわる。

 

 

こんな着心地だったんだと、

母の気持ちを知る必要があると思ったから。

 

 

少し前まで母が寝ていたベッドに

横になって、天井を見上げていると、

僕の記憶は1ヶ月半前に戻っていた。

 

 

 

 

母が緩和ケア病棟に入院する前夜

1日起きに泊まっていた少し肌寒い日、

 

 

“床で眠るのは寒いからベッドで寝ていい?”

 

 

母が眠るベッドの横に寄り添い

眠ったことを思い出していた。

 

 

 

“今のうちにお母様に沢山、甘えておいてね”

 

周りからの言葉を真に受けて

母の寂しさを緩和する意味でも

隣で眠ろうとした。

 

 

しかし気恥ずかしさと、狭さから全く眠れず

結局、下に降りて別々で眠った。

 

 

 

僕がわざとらしく、冷たかった母の手を

厭いながら握ってあげた手を母は、

幾らかの時間が経った後、そっと離した。

 

 

あの時の母はどう感じていたんだろうか。

 

 

この数年間、母のことを毛嫌いして、

電話も素っ気なかったり、会っても

口も聞かなかった息子からこんなことをされ

気持ち悪がったのだろうか。

 

 

 

母をサポートしてくれていた

様々な介護用品がなくなり

広くなった部屋は、とても寂しかった。

 

 

つい何日か前まで、

母の遺体を安置していたベッドがなくなる。

 

つい数か月前まで、

母が使用していた介護用品がなくなる。

 

 

この場所で自分は取り残され、苦しくなった。

 

 

 

 

母にプレゼントした香水。

 

 

結局一度しか、つけることのなかった香水を

自身にふりかけ、母の香りを思い出してみる。

 

 

この香りも、思い出も、何もかも、

母に関する全ての事柄を遠ざけたいと思った。

 

 

けれど、49日が終わるまでは、

この辛さと悲しみを胸に置き続けよう。

 

 

いつまでも嬉しそうに香水を見ていた

数ヶ月前の母の顔が残っていた。

 

 

 

 

 

親の死は最後の子育てと言われる意味が分かった。

母が火葬され、2週間が経とうとしています。

 

余命宣告をされたのが、3ヶ月前の5/9。

ちょうど3ヶ月が経ちました。

 

この期間、毎日落ち込んだり、怒ったり、

泣いたり笑ったり、気持ちの高低がありすぎて

それ以上の時間が経っているような気がします。

 


先日に煽った通り

今日のblogで、毎日の更新はStopします。

 

今後は、週1回、毎週木曜日の午前更新で

書いていこうと思います。

 

未だここに書けていない、

母の介護を始めてからの出来事や


家族が亡くなった後の様々な手続きなど

その後を綴っていこうと思います。

 

 

****

 


火葬式が終わった翌日は驚くほど夏空だった。


そして29日には関東でも梅雨が上がり、

気温は35℃まで上昇。


本格的な夏がやってくる。

 


母は、言ってたように霧雨に身を隠し、

月に帰っていったようだった。

 


そして、梅雨が去ったんだから、

あんたの心の霧雨もいい加減に晴らして

 

夏の訪れと共に頑張りなさい

そう言われているようだった。

 



 

先々に気を回し過ぎて、自分だけでなく、

周りも疲れさせてしまうこと。

 

小さなことで利を得ようとして

大きなものを失ってしまうところ。



自分本位な部分を直しなさいと

この2ヶ月半で、改めて母に怒られた。

 


反抗したかったけど、

もう母に怒られることはこの先2度とこない。

 


そう思って受け入れ、少しずつ、変えてきた。

 

 

30歳を越えて、未だこんなこともできないのか

きっと母を沢山、落胆させただろう。

 

 

 

“親の死は最後の子育て”


心配してメッセージをくれた人が教えてくれた。

 

 


母は、僕に嫌がられようと、


拗ねられようと、命をかけて、


最後の教育を施してくれたんだ。

 

 


親の死で、良い方向に変わってきた

仲間や身内をこれまで多く見てきた。

 

 

自分がその立場に立ったからこそ分かること。

 

 

僕は変えたくないものを守るために

変わり続けようと思う。

 

 

 

僕は母の家のマンションの屋上に上る。

 

 

悲しかったり、辛いことがあると

いつもここから東京の空を眺めていた。

 


数日前まであんなにも曇っていた空が

隅々まで晴れ渡っている。

 

 

本当に母は、梅雨明けと共に去って行った。




早く今までの生活に戻りなさい

そう言われている気がした。

 

 


「お爺ちゃんと一緒に、ずっと見てるからね。」

 


 

空の彼方から、

また母の声が聞こえてくるようだった。

 

 


※次回は8/15(木)に更新します。


素直になろうと決めて、側に居続けた78日間も、今日で全て終わる。

母が逝去してから、2週間が経とうとしています。


未だ悲しみが減ることはありませんが、

自分の気持ちに整理をつけるために、

前に進むために書いています。


弔事で書き損じていた逝去後、最後のブログです。


 

****



火葬式を執り行う日の朝、目覚めた直後から、

涙が止まらなかった。



一昨日は母の魂とのお別れ。


昨日は自宅から

霊安室へ母の肉体との一時お別れ。


そして今日は肉体との永遠の別れの日だから。




母を霊安室に送り出した後の天気は常夏だった。



天気は母の門出を祝福してくれたのだろうか。




それから夜にかけて大雨が降った。


関東は台風の影響で、明けたか明けてないのか

分からないような不安定な天気が続く。



僕の中の霧雨も、後どれだけ降り続くのだろう。





今日は母が逝去する前日にプリントに出した

遺影写真を青山の現像ラボまで取りに行った。




帰り道、母と一緒に歩いた道をひとりで歩く。


まるで、まだ隣にいるような錯覚に陥った。



そのたびに、悲しみの現実に、 引き戻される。



これから一生、

僕は母の幻想を、見続けていくのだろうか。




斎場には、遺影写真と、母の大好きな赤い薔薇、

小川軒のロールケーキ、ブラックコーヒーと、

まろんの写真を大きくプリントした物を持参。




一人きりで執り行うと思っていた火葬式。


斎場には母の友達と、母と面識のある僕友達、

僕が所属するプロダクション社長が来てくれた。



時間になり、火葬場の前に母の棺が到着する。



上から顔を覗き込むと、

優しそうに微笑む母の姿があった。



僕が準備した、母の大好きなものを

お櫃にそれぞれ詰めていく。



僕は母に声をかける。


これまでのことをもう一度、話し始める。




「今まで、一緒に居て楽しかったよ。」



「もっと色んな所に連れて行けなくてごめんね。」



「また、来世では楽しい人生にしようね。」



「また違った関係性で会おうね。」




周りに人がいるのに、涙が止まらなかった。



恥ずかしいとか、迷惑だとか考えられないくらい

涙は次々と溢れ出た。



泣きながら、僕は母に喋り続けた。



だって、母はこの後、肉体は焼かれ、

この世から姿を消してしまうんだから。




僕はこれまで、何度話しかけたんだろうか。




母が息をひきとる前の病室のベッドで。


亡くなった後に、自宅のベッドで。


そして今、棺に横たわっている母の前で。





想いの丈を、全部伝えた。



御坊様が、母に念仏を唱えてくれ、

僕らに優しく心ある言葉を投げかけ諭してくれる。




ーお母さん、今まで本当にありがとうー




1時間後、

母は骨になり、再び僕の前に戻ってきた。





骨を小壺に入れる、骨拾い作業をしていく。



更に軽くなってしまった母の姿を見て

また涙が出てくる。




骨壷を持ち上げてみる。



命を引き取った時、30kg程だった母の体重は

骨壷を入れても、もう5kg程しかなくなっていた。



こんなにも軽くなってしまうなんて悲しかった。




僕は母の遺骨を大切に抱えて

自宅に戻り、用意していた祭壇に飾る。



笑顔で微笑んでいる母の顔を見て

この2ヶ月半が走馬灯のように脳内を駆け巡った。




母の余命宣告日から、今日の火葬式まで、

少しでも恩返しができないかと考え続けた。



素直になろうと決めて、側に居続けた

78日間も、今日で全て終わる。




いつまでも落ち込んで、足踏みしている

僕を見たら、きっと母はまた叱ってくるだろう。



これから色んな気持ちを少しずつ

切り替えていかないといけない。




静かに手を合わせて、

遺影の前で、母の安らかな来世を、

静かに祈った。




瞳を閉じると、2ヶ月半前、家の前の緑道で、

2人で写した最後の写真の記憶が浮かんでくる。




「あんたのこと、ずっと見てるからね。」




笑顔で僕に話しかけてくる母の声が、

どこからともなく、聞こえたような気がした。




ーお母さん、今まで本当に、ありがとうー







※毎日更新のブログは今日で終了させて頂きます。


明日を最後に、

今後は毎週木曜日に週1回更新の予定です。






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