こちらのブログでは大変ご無沙汰しております。

 

 前回、2023年の記事が新年のあいさつを書き込んだきりで止まっていますね……。

 2024年も一か月過ぎてしまいました。

 もう、びっくりですよね。

 

 一応毎日アクセス解析のチェックはしているのですが、入力するまでがなかなか…………。

 

 

 

 昨年からこちらのブログでとりあげた児童文学についての感想や紹介を加筆修正してnoteとステキブンゲイ、その他文章サイトへ投稿しています。

 作業中、ここで書いた当時の私と、今の私はどうやら少し感じるものが変わってきているようで、大幅に書き換えることも多々あり、面白いなと思っています。

 子どもの頃からしばしば起きる片頭痛に振り回され続け、低空飛行な毎日のわりにはそれなりに何かを積み重ねているという事かなと、良いように考えることにしましたが、どうだろう。

 なるべくフラットに書きたいなと思うのですが、けっこう思い入れがあると突っ走ってしまうのが私の文章の困りどころ。

 

 いつまでも放置したままではあんまりなので、そろそろこのブログの方向性も考えねばと思っています。

 ではでは、また。

 

 あ。

 今年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 

 前回の更新が昨年の五月。

 そもそも一年の間に三度しか更新していない。

 たいがいですね。

 今年は心を入れ替えて、一月に一度は更新したいと……思います。

 目標が高すぎてもこなせないだろうと、あくまでも己に甘い滑り出し。

 PC机に積んでいる本を紹介できればなと思います。

 

 

 今年は元旦の夕方に自宅を出発して里帰りし、三日の朝に帰宅の途についたのですが、この日程が大当たりでして。

 いつも激込みの道が閑散としていて驚きました。

 大型トラックが一台もいない国道三号線って初めて見たかもしれない……

 さすがに元旦はおおむねお休みなのですね。

 とはいえ宅配のトラックは稼働していて、ネット通販のヘビーユーザーとしては頭が下がる思いです。

 

 無事、両実家へも顔を出すことができ、歓待されました。

 親が元気なのは本当にありがたいですね。

 今年こそはもっと顔を出してきちんと手伝わねばなと反省しています。

 

 


 ここ数年とにかく引きこもりであまり人のいるところに行かないので、必要に迫られ勇気を出して訪れたアウトレットモールは予想通り大盛況で、人ごみに揉まれてふらふらになりました。

 この程度でねをあげるなんて、もう東京に行くなんて無理なのではないのかという気がしてきた。

 日本全国、行きたいところはたくさんあるのですけどね。 
 

 十二月は雪が積もったりしましたが、この三が日は多少雲が出たとしても青空が広がり穏やかだった福岡。

 これから一年がそんな優しい年になりますように。
 
 

 

 

 もうすぐ、春が終わりますね・・・。

 ご無沙汰しております。

 梅雨も初夏も今年の折り返し地点も目前で焦っていますが、相変わらずのポンコツ生活です。

 画像は、ローズゼラニウム。

 とても強くて元気なハーブ。

 

 

 いきなりですが、トウモロコシが大好きです。
 幸運なことに近くに産直野菜を扱う店があるので、収穫して半日以内の物が手に入り、初夏から秋にかけて幸せをかみしめます。

 そんなある日、産直野菜コーナーで数本のトウモロコシを見つけました。

 忘れもしない、クリスマスも終わった年の瀬だというのに、隣県産のトウモロコシ。

 三度見くらいしたと思う。
 しかも、旬のころとと変わらぬお値段。
 迷わず一本掴んで帰りました。

 幻では・・・と疑いましたが、電子レンジで火を通してみるとちゃんと美味しい・・・本物のトウモロコシでした。


 真冬のトウモロコシは、雪原で苺を探すようなものだよな…ということで。

 つられて連想したのは、スロバキア民話の絵本、『12のつきのおくりもの』です。

 本棚を探してみたら、なんと初版本が出てきた・・・。
 母が知人から譲って頂いたもののようです。

 

 

 

 

 内田莉莎子さん訳、丸木俊さん挿絵。

 福音館書店発行。

 言葉も絵も、とても美しい絵本です。

 

 

 

 あらすじとしては、継母と義姉と暮らす主人公は二人にいじめられこき使われながらも美しく成長し、それがまた気に入らない彼女らから、『帯に飾るすみれを取ってこい』と真冬のさなか森の中へ出され、途方に暮れて森をさまようと12人の男たちが囲む大きな焚火にたどり着く…。

 あとは、昔話を知る人ならだれもが思う展開です。

 その後、イチゴ、りんごと取りに行かされるものの、主人公は難なくそれらを持ち帰り、欲張りな義姉は主人公が簡単にできるなら、自分はもっとたくさん収穫できるはずと森へ出て、十二人の男たちと焚火に出会うものの横柄な態度をとって命を落とし、継母もまた・・・というしめくくりで、これぞ典型的なざまあ文学だなと思った次第です。

 

 おとぎ話は、悪者に鉄槌を下すのが鉄則。
 善き人には幸せな結末を。

 ちなみにこの物語で12人の男たちは春が若く季節を巡るうちに成熟し12月は最年長の老人となっておりまして、ヒロインは春の月の精霊に似た若い美男子と幸せになりました・・・とありますが、私としては秋冬の渋く美しい男が昔から好みだったのでそこがちょっと不満。

 昔から、ガンダルフ推しだったので。

 

 

 ところで勝手に命名しているこの『ざまあ文学』というジャンルですが、私の中では因果応報的な展開の物語を指します。

 昨年あたりからネット小説を読むようになり、そこで今更ながら知ったのは『ざまあ』というタグで、それは『ざまあ見ろ』から派生して、主人公を虐待する登場人物たちにきっちりカタをつけますよ、という意味のようです。

 『ざまあ』タグを検索して読む人は報復展開を楽しみにアクセスするので、さばきが甘い作品の感想欄に『ざまあが足りない』とお叱りの言葉が書き込まれているのを見かけたことがあり、その時には震えあがりました。

 そのジャンルははいわゆるライトノベルで、読者も書き手も年齢層が広いからこその事例かなとは思いますが。

 

 そんな『ざまあ』は、ある意味人間ならではの娯楽なのだと思います。

 

 昭和のころに流行った時代劇は必ず最後の十分くらいにお裁きの場面があったし、サスペンス劇場なら断崖で犯人を追い詰める。

 

 『十二月のおくりもの』はスロバキア民話ですが、『森は生きている』というよく似たロシア民話が存在し、継子いじめなら欧州は『シンデレラ』が鉄板で、日本は『落窪物語』。

 

 子どもの紙芝居なら『かちかちやま』や『はなさかじいさん』など、主人公が幸せになるか否かは置いといて、とにかく因果が巡る。

 

 『悪いことをするといつか報いを受けるのですよ』という教育的な目的で作られた物語もあるだろうけれど、そうであってほしいと願いも込められているのではないかと思うことがあります。

 

 ちなみに、『源氏物語』は日本最古の長編スペクタクルざまあ文学だと私は思います。

 多少不遇な生まれではあるものの、天皇の子という最高の血筋と両親の容姿のいいとこどりをした絶世の美青年光源氏が、なんだかんだと図にのって次々と女性たちをつまみ食いした挙句、その報いがじわりじわりと・・・本人の気付かぬうちにまるで毒のように効いてくる物語ではないかなと。 

 そもそも、あの人生の集大成の六条院(恐ろしく豪奢な大邸宅)は、怨霊として初期に出る六条御息所の遺領を元に彼女の娘の後見人になる名目で大改修し、女たちを住まわせ、ついでにその死の床で託された六条御息所の娘に食指がわいてちょっと手を出そうとしたりもし、そりゃあ呪われますがなと思う私は、つくづくアンチ光源氏。

 ついでに言わせてもらうならば『源氏物語』にまともな男はほとんど存在しない。

 右を見ても左を見ても屑ばかり・・・。

 これは、屑の頂上決戦物語なのだろうか。

 いわゆる白馬の王子様に憧れても、そんなものは都市伝説。

 居並ぶ屑の中からましな男を掴めばなんとか生き残れると諭している・・・と考えるのはさすがに極論でしょうか。

 なんにせよ、紫式部の筆力の凄さを年月を経れば減るほど痛感します。

 

 ついでに告白すると、六条院建設の財源の多くと生活費はおそらく成金と見下している明石君(正確には明石入道の隠し財産)からだよね?というテーマで卒論を書いたのですが、当時の私は資料集めと検証が下手で詰めが甘く、時間切れとなって散々な出来でした。

 いずれまたきちんと向き合って掘り下げたいところです・・・。

 

 話がちょっとそれましたが。

 

 常々やらかす考えなしな私としては、ざまあ的な応酬は物語の中だけであってほしいな・・・と、都合の良い事を願います。