歴史を学んでもなお。

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 小学生から高校生にかけて、友人たちが貸してくれる本以外で手に取るのは、海外作品の翻訳本が多かったと、最近気がつきました。

 児童文学としては岩波と福音館の物が多く、どっぷりとファンタジーの世界に浸った少女時代で、生来活動的でないことも相まって、ベッドの上でひたすら妄想にいそしんでおりました。

 小学生の頃は特に自分は二十歳を過ぎたら欧州のどこかで暮らすと決めていて、やがて世間を知るにつれ、まずは語学の壁に躓き、今に至ります。

 とりあえず暮らすのは無理だけど、旅で訪れるくらいは良いだろうと、学生時代の友人たちと就職してからお金を貯めてロンドンに一週間滞在し、そこから旅行熱に浮かされるままにまとまったお金を手に入れたら、色々な所を周遊しました。

 中でも一番印象的だったのはスペインで、乾いた、広大な大地と照り付ける太陽、生き生きとした花の色、そしてその恵みで生まれた農産物の美味しさにすっかり魅了されました。
 あと、何よりもほかのヨーロッパ圏との違いが明確だったのは、イスラム文化が色濃く残った建造物の数々です。
 それまで回ったどの国よりも洗練されて、美しいと思いました。
 訪問した場所は、マドリード、セゴビア、アビラ、トレド、コルドバ、グラナダ、ロンダ、ミハス、マラガ、バルセロナ・・・。
 地図を眺めて思い出せるのがそれだけなのですが、他にも立ち寄った地方があったかもしれません。
 なんせ、全行程バス移動のお気楽パックツアーだった上に、ずいぶん昔の話なので、私の小さな脳みその記憶はかすれがち…。

 前置きが長くなりましたが、今回紹介したい本はこちらです。
 松本里美さんの美しい画に魅かれて手に取りました。

 『太陽と月の大地』 コンチャ・ロペス=バエス 作 
             宇野和美 訳 松本里美 画 福音館書店

 

 


 この本は、十六世紀のスペインにおける、宗教と民族の対立の話が描かれています。
 訳を手掛けられた宇野さんが、後書きにも詳しく解説されていますが、700年代にアフリカからイスラム教徒がスペインへと進行し、やがてコルドバにウマイヤ王朝が確立されたことで、イスラム勢力が大地を覆い始めます。一説によると、当時のイスラム支配者はユダヤ教徒キリスト教は聖典が同じと言う事で、改宗を強いることはなかったとも言われますが、支配外のスペイン諸国(カトリック)が失った土地を取り戻すべく戦いをしかけ、その攻防はレコンキスタと呼ばれ、15世紀まで続きます。
 1492年イサベルとフェリペ両王によるスペイン統一の後、ユダヤ教徒より寛容に遇されていたイスラム教徒も次第に締め付けが厳しくなり、最後には改宗せねば追放という勅令が出ます。
 改宗したイスラム教徒はカトリック風の名前に改名し、モリスコ(「モーロ」とイスラム教徒が呼ばれていたことにちなみ)と称されるようになりました。
 しかし、名前を変えされられたこと、習慣や信仰を否定されたこと、そして、カトリックたちから受ける明らかな差別に、モリスコたちの忍耐も限界にきていました。

 そんな時代に登場するのが、グラナダ近くを統治するアルベーニャ伯爵の娘・マリアと、モリスコの息子・エルナンドです。
 彼らは領主と領民である前に、祖父たち(伯爵の先代は死去)が身分と宗教を超えて親友であったことから、家族ぐるみの親しい間柄でした。
 とくに同い年のマリアとエルナンドは幼馴染であり、次第に淡い恋心を抱きあうようになります。
 しかし、マリアの兄・イニゴは成長するにつれ、モリスコとイスラム教徒(ムスリム)に対する嫌悪をあらわにし、善良な領主である父に異教たちへの締め付けか追放を意見するほどになります。
 また、エルナンドの兄・ミゲルもキリスト教徒たちの差別意識を敏感に感じ取り、次第に憎しみを抱くようになりました。
 宗教の違う者たちに対等な社会なんて、夢物語で。
 階級社会の、さらに底辺に押し込められる者たちと、彼らの存在そのものが悪だと思い始めるカトリックの人々。
 最初は、僅かな亀裂。
 しかし、いさかいがいさかいを呼び、ことを収めようと多くの人が動きますが、結局、為政者の根底に差別意識があった場合、底辺の排斥をすればいいと安易な方策に傾くのは、いつの世でも同じです。
 さらに、イスラム教徒の人々もイスラム帝国時代に対する懐古主義の機運が沸き上がります。王の末裔をまつりあげ、自らの誇りを取り戻すべく蜂起し、周辺のムスリムやモリスコたちに仲間に加わるよう呼びかけました。
 それが多くの人を巻き込み、やがてだれにも止められない双方の大虐殺に発展します。
 キリスト教徒側も、イスラム教徒側も統制がうまく取れないまま、てんでばらばらに略奪と強殺を繰り返し、たちまちグラナダ周辺は荒れ果てていきました。
 戦う意思のないものは双方に責められ、逃げ惑うしかありませんでした。
 エルナンドとマリアたちに起きた悲劇は、本文中でたどっていただくのが一番と思うので、詳細は省きます。
 ただ、エルナンドの祖父が辛い毎日に耐えられず、先代ドン・ゴンサロ(アルベーニャ伯爵)と過ごした美しい少年時代を反芻しながら亡くなる場面はとても切なく、正直なところ、メインであるマリアとエルナンドの話よりも心に残りました。
 この作品は、身分や宗教の違う少年少女の悲恋というよりも、信仰や習慣の違う人たちが共存していくことの難しさを克明に描いていると思います。
 はるか昔の、16世紀の話であるはずなのに、文明が進んだ現代の社会とほとんど変わらない状況になっているのはなぜでしょう。
 情報社会になって互いのことをよく知ることが可能な世の中のはずなのに、人々の思考回路は昔のまま、もしくは悪化の一途をたどっているようにしか思えません。
 今一度、人々の通ってきた道を知るためにも、この本は児童文学として存在するのだと思います。
 宗教や政治に対するへんな差別意識が根付く前に、一読してほしい一冊。
 簡潔な文章で、文字数もそう多くないので、5,6年生くらいなら読めるのでは…と思いますが、どうだろう。
 一つの難関はなじみのないスペインの名前がガンガン出てくることでしょうか。
 宇野さんが相関図と地図を掲載してくれているのである程度助けにはなる…はず。
 小学校の間に一度読んで、その後大人になるまで、そして大人になってからも何度か読んでみると、経験と知識の違いから視点がどんどん変わっていくかと思います。
 本の醍醐味は、時間をおいて、繰り返し読む楽しみがあるということ。
 最初は挿絵の美しさに惚れ惚れするだけで十分。
 (本当に、素敵なのですよ…)
 いずれは、人について考える機会になってくれれば、と願います。

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ありえない失敗。

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昨日、直売所で加工用イチゴをみつけました。

実質7パック入りと謳われた段ボール箱の中には、親指の爪くらいの小さなイチゴがつやつやと光を放っていて、私を連れて帰れと誘惑しています。

しばし迷った末に購入。

帰宅後にちまちまとヘタとりをして、レモン汁少々と上白糖とあえてしばらく置き、水分が少し出てきたところでホーローの鍋をガスコンロにかけました。

弱火で熱して十分ほど経ったところでイチゴの汁がいつもより赤いな・・・とは思いました。

まるで、中世ヨーロッパの瀉血を連想させるな・・・と不吉なことを考え付いた時点で味を確認したらよかったのですが・・・。

さらに十分経ち、煮汁がますます増えて来て、夫にイチゴジャムを作っている旨をメールで連絡しつつ、スプーンで甘さの確認をしようとすくって口に入れた瞬間。

取り返しのつかないことをしてしまったと気が付きました。

甘辛い。

いや、むしろ辛い。

漬物の漬け汁みたいに辛い。

・・・まごうかたなき塩味に、台所でへたり込みそうになりました。

我が家で二番目に大きな鍋いっぱいのイチゴ。

最初に開封済みの上白糖の袋から250グラム使い、最後に50グラム、調味料の棚にあった砂糖を入れた…はず。

だがしかし。

その最後の50グラムは伯方の塩だった・・・。

・・・と、思い至ったのです。

野菜の塩抜きなどするときに使っていた伯方の塩は、上白糖と見た目は同じ。

入れ物のタッパーも同じで、普段は中に入れているプラスチックのスプーンの色でどちらなのか見分けていたのですが、ヘタとりに疲れていた私は、調味料のタッパーをマジックのカップ&ボールみたいに右に左に動かしているうちに判断を誤ったと思われます。

できることなら、三十分前に時間を巻き戻したい。

でも、現実ではそれは無理な話。

とりあえず果肉を救出して口に入れてみたら、本当に漬物のような状態になっていました。

砂糖の割合の方が大きくても、塩の浸透力には敵わないのですね。

水に浸けたところでそれはかわらないし、風味も飛ぶだろうということで、泣く泣くすべて破棄しました。

せっかくイチゴとして生を受けたはずなのに、ほんとうにごめんなさい・・・。

私自身、たくさんのイチゴジャムが出来上がることを夢見ていたので、物凄く悔しいです…。

 

しょんぼり鍋を洗いながら思い出したのは、ローラ・インガルス・ワイルダーの『はじめの四年間』です。

『大草原の小さな家』(この作品がアメリカのロングランドラマだったことをご存じの方は、なかなかおられないかと・・・)の主人公、ローラがアルマンゾ・ワイルダーという10歳年上の農夫と結婚して最初の四年間について綴られた作品です。

 

 

ダコタ州に移り住んだ15歳ぐらいの時に、開拓者として成功していたアルマンゾ・ワイルダーと知り合い、その後彼のアプローチで交際に発展、18歳で婚約してすぐのころに、ミネソタ州にいる彼の母と姉が息子の結婚話に喜び大掛かりな結婚式を企画し始めていて、それは何人にも止められない(アルマンゾは姉に弱かった)から、彼女たちがこちら(ダコタ州)にやってくる前にさっさと内輪だけの式を挙げてしまわないかと提案されます。
アルマンゾの実家はミネソタ州でそれなりに成功していて、ローラの実家に比べると裕福な暮らしだったようです。
そして大掛かりな結婚式を行うとなると、インガルス家からどれほど出費せねばならないかわからない。盲目の姉と妹二人を抱え、父が一人で家計を支えている実家に迷惑をかけたくないローラはアルマンゾの提案に乗ることにしました。
ただし。
『私、お百姓さんと結婚したくないの』と、とんでもない一言を繰り出しました。
そして、町でなんらかの職業についてくれと。

アルマンゾは、一瞬、言葉を失います。

開拓農夫のアルマンゾは、ダコタ州でインガルス一家と出会い、家族を支えるために農業の手伝いをすることもいとわない(当時のイギリス系入植者で女性は淑女であり、男に交じって働くことはあまり感心されないことでもあった)ローラの働きぶりに心を打たれ、妻にしたいと思ったのだと推測するのですが・・・。
ローラにとってそれは、男の子に恵まれなかったうえに子だくさんのインガルス家を支えるために仕方なくやっていたことであって、決して農業が好きではなく、ただでさえ作物は町の人々に低く買いたたかれて経済的に心休まる時はなく、むしろ農夫の妻になったらどれほど大変な日々が待っているかを知っているだけに、なんとしても避けたいと思い続けていたと、ローラは言うのです。
・・・なぜ。
なぜ、この期に及んで。
アルマンゾはきっと、そういいたくなったと思いますが、ここは年の功で素早く体勢を立て直し、説得にかかりました。
今の資産状況、そしてこれからの開拓計画、これから馬の飼育を増やそうと思う。
馬を育てると儲かるよ?とも(ローラはそもそもアルマンゾの所有する立派な馬に惚れて交際を始めたほどの、無類の馬好き)。
馬で釣ってみても胡乱なまなざしを送る婚約者に音をあげたアルマンゾは、最後のカードを切りました。
『三年間、農業で成功したとローラが思えなかったら、廃業して町で仕事を見つける』と。
ローラは考えました。
長い人生で三年は短い。
それくらいならば、譲ってみてもいいかもしれない。
開拓者の娘として育って、自然は好きだ。
町で両隣に挟まれて窮屈にくらすよりそちらの方が暮らしやすいかも。
とりあえず三年、ということに同意したローラの気が変わらないうちにアルマンゾは結婚をおしすすめ、心の準備のできていない家族が「え?もう?」と動揺しているのを知りながら、さくっと式を挙げて開拓農地にローラを連れて行きました。
そして。
ローラの最初の受難が、冒頭の、料理の失敗です。
新生活始まって間もなく、小麦の収穫から帰宅して夕食を食べるアルマンゾから、明日は手伝いの男性を数人頼んだと告げられます。
翌日の昼食は、その男性たちに振る舞わなければならない。
パンを焼いて、豆とジャガイモと肉のメインと、ルバーブのパイ。
ところが豆は煮込みが足りなくて固く、さらには顔見知りの農夫が自分の皿の上のパイをめくって砂糖をたくさん振りかけ始めました。
『自分は、こうして食べるのが好きでして』
ローラはルバーブに砂糖を加えるのを忘れ、たいそう酸っぱいパイを作ってしまっていたのです。
知り合いのおじさんはローラを気遣って色々笑い話をしては食卓を盛り上げてくれたものの、固い豆と砂糖なしのパイは消えてなくなることはなく。
実家にいた時、料理でそんな失敗は一度もしたことがなく、気が遠くなりそうになるローラ。


私は、塩で煮てしまったイチゴを惜しみながら、心の中で、「ローラ、わかる、わかるよその気持ち・・・」と、呪文のように言い続けました。
砂糖と塩を間違えるなんて、長い人生一度もしたことがなかっだけに、久しぶりに道端で思いっきり転んだ時のように衝撃が大きかったです。
次回はないと、心とイチゴに誓う、五月の夜。
そして縁があれば、今度こそは・・・と思うのです。
次は無駄にしたりしない。
丸ごと全部、余さず食べようぞ。

ちなみに、ローラとアルマンゾの三年計画がどうなったのか気になる方は、ぜひぜひ本を読んでみてくださいね。

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 昨年の晩秋に書いて以来、なんやかんやとそのままにしているうちに桜の散る頃になってしまいました。

 十一月ごろから水やりを復活させたフリージアの球根たちは、今年はそれはもう見事に花をつけてくれました。

 

 

 これだけの月日、私はいったい何をしていたのでしょうね。仕事が忙しかったのか…何だったのか、記憶にないところが恐ろしい。

 久々すぎてすっかり勘が鈍っておりますが、このまま続けましょう。

 本日のおすすめは昔話。

 昔話を子供たちに多く広めたことで有名な松谷みよ子さんの書かれたこの一冊の中に、とてもとても・・・。

 怖い話が潜んでいました。

 仕事の先輩が教えて下さったのですが、これほど怖い物語は久々に読みました。

 子供たちは学校の怪談系の怖い話をよくせがむけれど、昔話は現代のミステリーゾーンより怖いよと言いたい。

 まあ、時代が変わっても中身は同じと言われれば、確かにそうですが(笑)。

 

 さて、本題にまいりましょう。

 『舌切りすずめ』 松谷みよ子作 ささめやゆき絵 講談社青い鳥文庫。
 

 

 きりの良い110頁に配せられた恐怖の昔話、それは『じいよ、じいよ』。たった八ページ、その中にささめやさんの挿絵がまるっと一ページはいって実質七ページ弱。この短い字数の中に夜も眠れなくなるほどの恐怖が詰まっております。

 その怖さを味わっていただくため、ざっくりあらすじ紹介とネタバレをいたします。

 もしお嫌な方は、図書館で取り寄せるなり、書店で購入するなりされてくださいね。

 では、始めましょう。

 『じいよ、じいよ』。

 みなさん・・・。

 心の準備は良いですか?

 

 

 昔、人里からとおに離れた山の奥深くに、年老いた夫婦が二人きりで暮らしていました。

 じいとばあの仲はとても良かったが親族も子供もおらず、死ぬときは一緒だと言ったものの、実際にそれは難しく、病を得たばあが先に亡くなることになりました。

 死に際に彼女はじいに頼みごとをします。

『死んだら墓に埋めてくれるな。ひとりで墓にいるのは寂しいから、たてまつりにしてくれ』と。

 『たてまつり』?

 それはなんぞや?と、読む方としては困惑しましたが、愛情深いじいは『よし、わかった』と即答しました。

 そして、話が怖くなっていくのはここから。

 息を引き取ったばあのかたわらで、じいがしょんぼり途方に暮れていると、死んだはずのばあが『じいよ・・・』と、たてまつりを催促するのです。

 ばあは決して生き返ったわけではなく、死体が口を開いて、たてまつりの催促。

 普通なら腰を抜かすか逃げ出すところを、まだ妻への愛情でいっぱいのじいはよしよしと素直にうなずき、床の間にばあをたてかけた・・・そうです。

 そして数年、じいは床の間にたてかけたばあを拝み愛でる日々を過ごしました。

 ばあは年月が経つうちに骨ばかりになったけれど、なんといまだに口をきくのです。

 毎晩、夜中の決まった時間に三度。

 まず、寝入りばなにそろりと。

『じいよ、おまえのそばにいきたいが、いってもかまわんか』

『こんでもいい、くるな』

 答えて、改めてうとうとしていると次の問いかけ。

『じいよ、いってもかまわんか』

『こんでいい、くるな』 

 切り返した後、じいはばあがかわいそうな気になってきて、こうなると眼がさえて眠れない。

 そして、明け方を迎える前にもう一声。

『じいよ、そばへいってかまわんか』

『いかん、くるな』

 そして、朝を迎える日々。

 これが毎晩で、およそ三年。

 さすがのじいの体力も根気も愛情も尽きて来て、機会があれば逃げ出したいと思うようになります。

 そこへなんとじゃこ売りの男が迷い込んできて、一晩泊めてくれと言いました。

 じいにとって渡りに船なのは間違いなく。しかし一応、旅人に釘を刺しておきます。

『とめるのは楽じゃが、夜中になるときまった時刻に、じいのそばへいくという声がする。それでもかまわんか』

 なんのことやらわからないじゃこ売りは安請け合いしました。

 そこでじいは荷物をまとめ、これから用があって出かけるが留守番がてらにどうぞ泊まってくれと告げます。

『そうじゃ、夜更けに、じい、そばへいってもかまわんかと声がしたら、くるな、というておれ』

 そう言い残すなり、じいはじゃこ売りを残して家から去りました。二度と戻らぬと決意を胸にして。

 じいが去った後、じゃこ売りは囲炉裏に火をくべて横になりました。すると、どこからか声が聞こえます。

『じいよ、いってもかまわんか』

 ああ、このことかと思い、教えられた通り『来るな』と答えると神と静かになりました。

 しかし、しばらくしたらまた『じいよ・・・』と声が聞こえる。『来るな』と答えた後で、好奇心が抑えられなくなり、じゃこ売りは家探しをしてしまいました。

 奥の部屋を覗いて、ああ、なんもないなと思ったところで、声が。

『じいよ、そこにいるのはたしかにじいかえ』

 よくよく見たら、床の間のあたりから何かが動き出したのが目に映りました。たてかけてあった老婆のミイラがごそりごそりと動き出したと知った瞬間、じゃこ売りは商売道具を抱えて家を飛び出しました。

 山を下る途中、おそるおそる振り返ると骨のばあが、がちゃんがちゃん跳ねながら追いかけてくる。

『じいよ、じいよ、そこにいくのはじいか』

 半狂乱になりながらも全速力で逃げたじゃこ売りは運よく寺にたどり着き、坊主にすがって事の次第を説明し、助けてくれと懇願します。

 ちょうど庭の手入れをしていた坊主は「ようし、わかった」と答えると、勢いよく寺へ飛び込んできたばあを、経を唱えながら箒でざらんと払いました。

 すると、たちまちばあはばらばらになり、ひとかたまりの骨の山となりました。

そして、しばらくは骨が『じいよ、じいよ・・・』と言っていたものの、やがて静かになりました…とさ。

 どっとはらい。

 

 ・・・どうですか。

 怖くないですか?

 死んでもなお尽きない、ばあの愛と妄執の日々。

 さすがのじいの愛情銀行の貯金も底をつき、旅人を人柱に逃げ出すというこの展開。

 そもそも遺体を生活空間に安置したじいの行動にも驚くのですが、それは彼の風習として不思議ではないことだったのかな・・・とも思います。日本の火葬も、国や宗教が違う人からは大変驚かれるくらいですから・・・。

 今の私たちには理解できないこの葬り方も、彼らの中ではスタンダード・・・、いや、でも一緒に寝ようは怖すぎる。

 こうなると、死ってなに?という、科学と哲学の世界に突入してしまいます。しかし科学と哲学の力をもってしてもばあの妄執は払えない気もしますが。

 

 この、死に際の女の頼みを男が半信半疑ながらも聞き入れるという話でもう一つ思い出しました。

 それは、夏目漱石の『夢十夜』の第一夜です。

 

 

 

 百年、待ってくれという死に際の美しい女に、そうか、とうなずく男。

 朝と晩を何回も繰り返しているうちに、女に騙されたのではないかと疑い始める男の心情描写は、短い文章ながら真に迫ります。

 そこで迎えた結末に、私はいつもすごい話だな・・・と感服するのです。

 夢は夢だけど、綺麗で、危うくて、どこかリアルで。

 そしてすとんと迎える結末。

 こういう文章が書けるようになったらいいなと、いつも思います。

 

 『じいよ、じいよ』は古くから伝承される昔話。

 そして、『夢十夜』は夏目漱石の代表作の一つ。

 短い言葉の隅々に、綺麗なものと恐ろしいものが詰まっていて、 読み直すたびにかなわないなあと思うのです。

 昔の人の創作には、遠く及ばない。

 だけど、こういう文章に囲まれ育まれてきたことに、ちょっと誇らしさも感じるのです。

 日本に生まれてよかったなと。

 四月の風景を彩る桜の花を見る度に思うように。

 

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