というわけでシャオですこんばんは。
今回はちょっと、自身の半生について書き記してみようかなと。
かなり長くなりますし、面白い内容じゃないです。なので
読みたい人だけ、読んでください。
ちなみに今回の内容では省きますが色々あったとんでもない出来事
興味あるって物好きな人は沙皇龍危機一髪。
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さてさて。
うちの母親って、怖かったんですよ。そりゃもう小さいころなんてすげー怖かった。
大衆食堂営んでいたのですが、そこにたかりに来たヤーさんだかチンピラだか
投げ飛ばすわ、夜這い賭けに来た大家のおっちゃん投げ飛ばすわ。
確か合気道をやっていたと本人は言ってたんですがね。
何も腕折ったり脱臼させたりしなくても┐(~ー~;)┌
おかげで、やーさん連中はあそこのおばはん怖いから手を出すなとなったらしく
それから一切店に来なかったですよ。めでたしめでたし。
私は当時保育園くらいの年齢なのですが、鮮明に記憶に残っています。
逆らったら殺される。ホントそう思わされる事が多々ありましたね。
しかし、幼いころも相当にバカだった私はちょちょく母を大激怒させていましたが。
いやあーさすがに両足の足首もってさかさまに湯船に頭突っ込まれたりした時は
殺されるかと思った、かなり。
手で打ったら手が痛い!という筋の通ってるのか通ってないのかよくわからない
理由で、まあ様々な武器を使う母。
「なに~!!今なんて言うた!!??」 っていう台詞の後には
手にお玉とかスリッパとかベルトとか、まあいろんなもん持ってましたねオソロシイ
友達が遊びに来ていてもお構いなしなので、そりゃもうアイツの母ちゃんこええ!
ってことになる始末。
さてさて、そんな母の愛に包まれてすくすく成長していく私。
かなりおませさんだった私は、エッチな本とかに目覚めるのも早かったんですね。
当時小学校5年生くらいだったかなあ。
沖永良部島という所に、旅行しに行った時に旅館にあったエッチぃ本を一冊
いただいて帰ってきたわけですよ。(^ー^* )フフ♪
確かタイトルはお楽しみ女子高生!すばらしい。
まあ、時々こっそり眺めてはハァハァしてたわけなんですが
たまたま、急いでいて机の一番広い引き出しに入れたまま、出かけてたんですよ。
ええそりゃもうご期待通りに、帰ってきて確認すると
ねえええええええ!!!!
背筋がさむ~~~くなるあの感触。男の子なら一度は味わった事あるはず。
しかもうちの母はとんでもなく怖い
まさに命の危機。
「○○!ちょっとここ来て座り!!」
ああ、短い一生だった・・・と覚悟を決めたんですが、意外なことに
「まだ早いねん。アレはおかんあずかっとくから、もっと大人になったら返したるわ!」
いやなんつうか、何を持ち出してきてボコボコにされるかとひやひやしてたのですが
思いがけない言葉に唖然。
しかし、よくよく考えてみるとある意味怖いよね。成長してから返されてもね(ぁあ
っとまあ、そんな事もありつつ緩やかに大人への階段を上る私。
つってもまあ、そのほかにも色々とその手のブツが手に入るルートはあったんですがね。
中学くらいになると、大体みんな目覚めてくるから、回ってくるんですよ。
しかしまあ、時として自分が誰かに上げたものが、回りまわって手元に戻ってくる
ということもありましたね。世界は狭かった。
まあ、その頃になると成長期ですからね。私の方が母より大きくなって。
しかも反抗期真っ最中ですから。そりゃもう激しくケンカしたりしてねえ・・・。
うちは親子二人で話をするときには、関西弁なので島の友達がうちに初めて
遊びにくると、何で関西弁?と必ず聞かれたものです。不思議と島の人と話すときは
あっちのイントネーションになるので、家の中に母と友達がいると、不思議な空間が
展開されるわけですよ。二元中継みたいな。
で、まあ大抵うちの母は人間大好きなおばちゃんだったので、私の友達にも
心安く話しかけたりするんですね。高校の頃なんかはうちでタバコ吸ってた奴が
おばちゃんタバコ一本頂戴とか言っても、喜んであげてたし。ヾ(・o・;)o ォィォィ
ただまあ、反抗期真っ盛りの中学の頃なんてのは、友達と遊んでる空気を
ぶち壊されるのがいやでいやでたまらない時とかあってですね。
壮絶な口げんかに発展することもしばしばあったんですよ。それがまた関西弁
だから、友達ドン引きになるわけですよ。私と母にしてみればそれもまた
親子のコミニュケーションという奴だったんですが。多分(ぉ
まー、でもちょっと寂しかったかなぁ、だんだん母の威厳がなくなっていくのを
感じるのがね。昔のように何か持って追っかけまわすって事が出来なくなっていくのが
ありがたいような、切ないような。なんともいえない思春期ですな。
さてさて、話はそれからずっと前にさかのぼりますが
確か小学校の4年生になった頃だったでしょうか。ある日海へ泳ぎにいったんです
私が当時住んでいたところは井の川というところで、浜部に堤防があってそこに
漁師さんが乗る漁船とか止めてある小さな港もあったんです。で、友達数人と
泳ぎに出かけたんですね。
みんなでわいわい遊んでいて、とめてあった漁船につかまったりしながら。
そしたら、不意に足元の砂が崩れ始めて、どんどん地面が無くなっていくんですよ。
といっても、そんなに深いところではないんですが何せ子供でしたし、何より
当時の私は泳ぎがそんなに達者ではなく、パニックになってしまって見事に溺れて
あわや、一緒に泳いでいた6年生の男の子に助けてもらって事なきを得たんですが。
うちに帰ってその話をすると、母はなにやら考えたらしく。しばらくして
近所の知り合いの一家と海辺へキャンプをしにいこう。と言い出しました。私は
キャンプって初めてだったのでそれはそれはうれしくて、喜んで行く事にしたんです。
が。
母の思惑はキャンプとは別の所にあったんですね。
潮が引いている時間帯は、磯に潮溜まりが出来るんですがね。深さは大体
2,3メートルくらいかな。私が溺れたところよりはるかに深い。
母は、そこまで私の手を引いて連れて行ったかと思うとおもむろに私を抱えて
ポイッとその潮溜まりの中に、投げ入れたんですよ。鬼ですよ鬼。
「ほれ○○、泳がんか!泳がんかったら死ぬでぇ~!!」
オイオイ殺す気ですかアナタと。そりゃもうあせったあせった。アレはホントにやばかった。
その地獄のキャンプの数週間後。
私は母を、自分が溺れた砂浜に連れて行き、堤防から飛び込む姿を見せていましたとさ。
まあ、おかげさまで泳ぎが達者になったのなんのって。
高校の頃、親友につけられたあだ名はウォーターワールドだったかな。
まあ、海人という言葉は沖縄のものですが。
自称海人ですよわたしゃ。あの母のおかげ様で。
んでまあ、また話がちょっと脇にそれちゃいましたが、その当時に戻ります。
その日も私は元気に浜へ泳ぎに出かけていて、疲れて帰ってくると母が家にいて
私は風呂に入るからと母に告げて、入浴タイムに突入したのです。
しばらくして風呂から上がって、その時すんでいた家は表側の建屋が食堂で
裏が住居になっていたので、食堂の方へ回って飲み物を取ってこようとしたのですね。
しかし、不思議なことに食堂の鍵がかかっている。
なぜだろう?いつも鍵なんてかけてないのになぁ。なんて。
で、母が中にいるのかなとおもって、外から何度か呼びかけても返事がない。
でも、中に人の気配がする。
なんというか、妙な胸騒ぎがして住居に使っていた建屋の方へ戻り
食堂の鍵を探したわけですよ。
そして、食堂の鍵を発見。後になって後悔しましたけどね。見つけなければよかったと。
まあ、鍵を持って食堂のほうへ行ってそれで鍵を開けて中へ入ったんですよ。
そしたらまあ、びっくり
どこぞの見知らぬおっさんとうちの母があられもない格好で励んでる最中でね。
もちろん、二人ともなんでコイツが中にいるんだってな顔で固まってましたが。
その後の出来事は想像にお任せしますが。ま、あんまり思い出したくはない┐('~`;)┌
少しだけ時はさかのぼり、小学校3年の頃
うちの母は働きすぎと睡眠不足で脳溢血で倒れたんですね。
それから、食堂を営むことが困難になったりとか、まあ色々な理由で
生活保護とか受けていたんですが。そこへ来て小学校5年生の時に私が喘息にかかって
やむなく、病院のある町へ引っ越すことになったんです。
何人かの友達はいましたけど、基本的に私は中学卒業までずーっと
いわゆるいじめられっこという奴でね。
ぜんそくにかかる前は、とにかく理由も特になくのけものにされたりとか
その村全体でね。ある時なんかは、お前のところはお父さんいないから遊ぶなって
お母さんに言われた。だから遊ばないとか面と向かって言われたこともあった。
まあ、うちの母は気が強かったし言葉も関西弁で荒かったから、あの人は内地の人
だからなんてよく陰口を叩かれていたしね。
そんなこんなで、引越してしばらくしてからのこと。
ある日同級生の一人にこんなことを言われました。お前のお母さんは
男とやってお金もらって生活してるんだろ?ってね。子供は時に残酷ですが
もっとひどいのはそんな事を子供がいる前で話す親なんでしょうねきっと。
その時、とても衝撃を受けました。確かにうちは貧しかったし収入といえば
国から降りてくる生活保護と、たまに母が知り合いの農業を手伝ったりして得るお金くらい。
それでも、家に食べるものがないとか、学校に払うお金が無いなんて事は一度もなかった。
子供ながらに思ったものです。ああひょっとするとそうなのかな。なんて。
その考えを裏付けるかのように、ある日母を尋ねて客が訪れました。
本人は時間が過ぎて忘れていると思ったのでしょう。それはあの日私が目撃した
見知らぬおっさんその人だったのですがね。
それから、うちによく来るようになっていきました。そのおっさん。
昔からの母の友人ということでね、まあ私も昔の出来事を引っ張り出すことも無いと思い
かわいい子供演じたりしてたんですがね。
それがしばらくして本性を現し始めたわけですよ。とにかく酒癖が悪い。
食堂をやっていた頃もお客で何人かそういう人も見てきていましたが、なにせ
今回は直でうちに来る人間ですから。始末に終えない。
まず、酒が入ると口調が 僕から俺に変わる。目つきも変われば人相も変わる。
それでも、酒が入ってないときはいい人だったので私は耐えていました。
ある時なんかは、私が寝ていると酔っ払ったおっさんが突然私を起こして
意味も無く何度もビンタされた事もありました。そう、まるで
おまえさえ居なければ。とでもいわんばかりにね。
それでも耐えた。例え周りになんと見られようと、母が必要としているのなら
それでいいんだって。結婚するならすればいいやって。
そんな状況が中学の2年頃まで続いたのかな。
その人の家は遠い集落にあったので、母はよく原付でそこへ行ってましたから
私が中学にもなると、帰りが遅い日も結構あったのですがね。
その日に限ってやけに帰りが遅いなと。思ったんですよ。
確か、夜の10時近くになっていたのかな。私と一緒に夕食は取る母だったので
いつも9時前後には遅くても帰って来てたんですが、待てど暮らせど帰ってこない。
当時は、今みたいにケータイなんてないし、ポケベルなんて使えない人だったし。
とにかく心配でね。そのおっさんの家に電話しようかなと思ったんですが
実際のところ顔を見るのも声を聞くのもイヤってなくらいだったので、ためらってたんです。
そしたら、突然玄関をノックする音が聞こえてきてね。
あー何かあったかな。って直感しました。出てみると見知らぬおじさんがあわてた様子で
お母さんが事故にあった!ってね。ああ、やっぱりか。と
聞けば、帰り道で暴走族の集団と出くわしたか何かで、よけようとして道路脇の大きな
看板にバイクで突っ込んでしまったらしく。身体を強く打って救急車で運ばれたと。
そのおじさんは、その場で救急車を呼んでくれた人らしく家まで知らせに来てくれて。
急いで病院へ駆けつけると、まあ命に別状は無かったんですけど看板に直撃したらしく
顔面にいくつか青あざできてて、ぐったりしてるんですよ。
で、その時気づいてしまったんです。
言葉を交わしたときに、酒のにおいがすることに。
私は母が眠るのをまって、すぐにおっさんに電話しました。
で、なぜ遠い道のりをバイクで帰るのがわかってて、酒を飲ませたんだと問い詰めた。
おっさんは、母が事故にあった事に気が動転したのもあったのか、逆ギレし始めてね。
今からすぐに行くとの事だったので、私は家に帰ってくるのを待っていたんですよ。
待っている最中、色々なことが頭の中でごちゃ混ぜに渦巻いていました。
とても頭に来ていた。でも、母にとっては大事な人かもしれない。
せめて一言すまなかったと言う言葉があれば、許そう。でも気持ちはすっきりしない。
なんて事を色々とね。
おっさん家に来て最初の一言。俺のせいでお前の母親は事故にあったって言うのか!?
母に悪いなと心の奥底では思いつつも、とめられなかったですね。
気づけば、なきながら誤ってるおっさんが居ましたよ。私にボッコボコにされてね。
私は、小学生から空手を習っていたのですが、ケンカでそれを使ったこともないし
何より人に手を出すのが怖かった。だからいじめっこにケンカを売られても手が出せずに
悔しくて泣いていました。いつもね。自分が身に着けた技を使えばどうなるか、常にその
怖さをわかっていたからです。平気で人を殴れるのはなんでだろう。そう思うと悲しくてね。
ただこのときだけは私は遠慮しなかった。
それまでにされた仕打ちに対する恨みも相当あったのは確かですが。何よりも
一歩間違えれば事故のときに母は死んでいたかもしれないと思うと、怒りが自制心を
超えてしまっていたんですね。今にして思えば申し訳ない事をしたとは思います。
それから、おっさんが家に来ることはなかったですね。
母もおっさんの家に行くこともなかったです。
私は思うんですよ。いつも母と私は二人で生きてきて。親戚も居ない土地でね。
そりゃ仲のいい友達とかは居たみたいですけど、よそで何を言われてるかわからない。
島というところは、そういう閉鎖的で陰湿的なところもあるんです。
で、たとえば運動会とかありますね。地元の子供たちは親戚とかも集まってるから
わいわいとお弁当つついたりしてるけど、私のところは母と二人か、たまに知り合いが
来てくれたりする程度。まあ寂しいもんでした。幼い頃は全然気にしなかったんですが
母は母なりに、そういうのを気にしていたのかなと。
だから、酒癖の悪いどうしようもないおっさんでも、父親代わりになってくれれば
私が肩身の狭い思いをせずにすむ。きっと母はそういう思いもあったのでしょう。
いつも、どこか外でご飯でも食べようか?なんて気を使う母でしたから。
たまには外食でもさせてやらんとな~って思ったりしていたのでしょう。
私は私で、そんな母の気持ちがわかっていたので、いや俺は外で食うの嫌いなんだ。
なんてね。まあお互いの思いやりという奴ですか。
そりゃ、大喧嘩もしょっちゅうしましたが、そのたびに絆は強くなっていった気がします。
中学の頃、もっともぜんそくが酷い時期があって。ほぼ毎日のように夜中に発作で
苦しめられていました。おかげで学校へ行くこともままならずね。
たまに学校へいけば、うわばきがないとか、机の中に入れてあったものがないとか。
まあ、そんなことはしょっちゅうでした。友達と思っていた子にもお前と友達って
思われたくないからなんてね。言われたこともあった。おかげで人間不信になったりして。
学校も行きたかった。修学旅行も。部活もしたかった。でも身体がついてこなくて。
夜中の2時~4時くらいに決まって発作が起きる状態でね。救急車呼ぶと遅いし
タクシーのって行くわけにもいかないし。それで
いつも、私は自転車に乗って病院へ行ってました。真夜中に。
たまに看護婦さんに見つかって、あんた死ぬつもりかなんて言われたこともあったなあ。
母を起こしちゃ悪いと思ってね。だから母は私が夜中に病院行ってる事知らない日も
多かったかな。
そんな中でそれでも、変わらずに友達で居てくれた奴も何人か居てね。
一人は、私のうちへ毎週休みの日に泊りがけで遊びに着たりしていて。私が発作起こすと
病院へ付き添ってくれたりして。一度は自転車乗ることも出来ない状況で
私が歩いて病院へ行くというと、俺の背中へ乗れ!とか言ってくれたりしてね。
とてもうれしかったなぁ。だから悪い思い出だけじゃない。それどころか、そういう友達に
めぐり合えたことが幸せだった。今でも付き合いありますし。
さて、ここまで書き進めて来ましたがちょっと疲れたので、休憩。
ちなみに。
お楽しみ女子高生ですが、その後どこいったか行方不明ですよ。