題名が Fading Gigolo で、ジゴロがもはや使われなくなりつつある言葉になっていることがわかる。ジゴロをさせてくれる女性がいなくなったのだろう。この映画のジゴロは姿を変えた娼夫だ。それなら数は多くはないにしても存在していると思う。男性と女性の異性に求めるものの違いによって、かたや公営の売春婦さえいるくらいなのに対し、男性のそれは少ないだろう。
だが、どうしてもと男性を求める女性が少なからずいる。たまたまそういう需要があって、これなら商売になるとにらんだマレー。彼がかかりつけの女医から頼みごとをされたのだ。ちょうど友人にお似合いの男フィオラヴァンテがいた。彼をジゴロにしたてて、自分はそのマージンを取る。父親から受け継いだ本屋をたたんで、現在失業中なのだ。
これは相当生々しい話で、まともに取り上げるには適当でない。ある種の笑いの要素がないといけない。狂言回しには彼が最適だろうと、ウディ・アレンがマレー役で出演。彼が他の監督の作品に出るのは珍しい。
いわゆる有閑マダムというのですか、金と暇があって、しかも男に飢えている。こんな三拍子揃った人がいるのはニューヨークならではでしょう。こういうマダムの亭主はきっと浮気をしている。それでも金の切れ目になるので離婚はしない。かくして、この商売が成立の運びとなる。商売は売り手と買い手がいて成り立つ。売春は非合法であっても、個人的な付き合いの延長線上と考えれば構わないんじゃないか。
それにしても、どうして売買春なんてものが存在しているのだろう。金銭が伴わなければ問題ないと強弁できないことはない。自由恋愛なら普通のことだからだ。ただし既婚者のそれは問題ありだ。法律で縛られているから。基本的には離婚の理由になる。あとは許容範囲の認識如何である。どこまでを浮気とするか。
男性はそこのところ、軽く考えていると思う。女性の気持ちはわからない。個人によって違うだろうし難しい。売春には金が介在し、裏には悪の組織が関係していることも問題だ。女性が独立して営業しているのではなく、どこかの誰かに搾取されているという。何か後ろめたいまともな職業とは思えない、そんな感じ、印象がある。それならいっそ公的に認めて、明るい職場環境にしてしまえばいい。だが、どうとりつくろってみても健全な職業とは言えない。
結局、思いつきで始めた商売は長続きしなかった。疑似恋愛より大事なもの、それはほんものの愛だ。
監督 ジョン・タトゥーロ
出演 ジョン・タトゥーロ ウディ・アレン ヴァネッサ・パラディ
2013年