今朝、一生懸命書き込んでいた記事が私の操作ミスで消えてしまいました。
書き込んだことを思い出しながら、足していきながら少しずつ書いていきます。
大地震の日、すぐ実家へTELしましたが、つながりませんでした。
あの日は私は自分が生きることで頭がいっぱいでした。
次の日になり、三陸沿岸に大津波がきたことを知りました。
ウチの実家は山の上にあるので家にいれば津波は大丈夫だと思いましたが、地震で棚や金魚鉢がたおれてケガをしていないか心配でした。
電話は全くつながりません。
震災から4日目に我が家には電気が通りました。
テレビにはものすごい津波の映像が流れていました。
地元版の教科書で習った写真で見た津波被害よりもひどいのではないかと思いました。
釜石で働いていた時の会社は浜町という所の海の前です。
水門はもちろんありましたが、基礎も高いのに3階まで波がきていたのをテレビで見ました。
浜町でこんなんだったら、実家のある嬉石はどうなっているんだろう・・・
お父さんお母さん家にいたならいいけど、
下におりてた時だったらどうしよう・・・
そんな心配しながらも電話はつながりません
仙台でも昼夜かまわず余震が続いていたせいもありますが、
釜石のことも気になり何日も寝ていませんでした。
15日の朝、震災後頻繁に連絡をとっていた親戚のおばさんから両親の無事を聞きホッとしました。
実家の近くに住んでいるお母さんの弟が嬉石から中妻のNTTまで自転車で行って衛星電話で連絡をしてきたそうです。
自宅にいるということ、ライフラインはダメで水は山の沢水を汲んで使っているとも。
女坂の山水はキレイなので安心です。
でもでも、やっぱり声聞いたり、会ったりしないと落ち着かないんですよね。
それを察してかダンナは品薄のガソリンスタンドに何度も並び、ガソリンを満タンにしてくれました
釜石行こう!!って。
そんな中26日の朝、釜石に持っていくものを買おうとス-パ-の開店まちに行く途中、携帯電話が鳴りました。
知らない番号。。。
でももしかしたらと思い出ました。
もしもし??
電話先は聞きなれたお母さんの声。
人も車もたくさんいた道路の真ん中でしたが、人目もはばからず泣きじゃくりました。
未だに固定電話はつながらないとのこと。
でも電気が通り、携帯電話の臨時電波車もきたので、
近所の方が娘に電話しなさいと携帯を貸してくれたんだそうです。
ありがたいですね。
ずっとずっと昔から部落のために一生懸命やっていた両親の良さが部落の人たちに伝わっていてこういうとき助けてくれるんじゃないかな---って思いました。
釜石いぐがら-----って言う私。
大丈夫だがら、こねぐていい!!っていうお母さん。
ダメ。いぐ!!きめだんだもん!!
っていうことで、沢山食料や日用品を積み、
日曜の夜中1時過ぎに仙台を出発しました。