朝一に出発して、福島県立図書館へ……の前に岩谷墓地にある「西島新蔵墓」へ。
西島新蔵は福岡藩士で明治元年秋、会津で負傷の後、福島で11月16日36歳で没。
観音寺左手に広がる岩谷墓地を下から上がり、小さな「水月地蔵尊」がある手前を左手にいった奥にひっそりとあります。
次に、「福島県護國神社」に行くと社殿の右手前に知らなかった「招魂之碑」が。
戊辰役の官軍兵士の会津・三春・相馬の招魂場の御霊と、西南の役に殉じた福島県人の御霊の招魂碑。それ以外の詳細由来はよく分からず
福島県護國神社は明治12年10月4日に会津・三春・中村の官軍招魂社を合祀し、官祭信夫山招魂社となったのが前身で、その後指定官祭福島招魂社となり、昭和14年に官祭福島県護國神社となったもの。
図書館行く前にお昼ご飯
福島市のご当地グルメ「円盤餃子」を食べに発祥の店「満腹」へ。タイミングよく、あまり待たずに入れました。前来た時はタイミングが悪かったみたいで、大行列が見えて断念した記憶が…
円盤餃子、一個一個は小さくてペロリと食べちゃいました。美味しかった
せっかくなので、近くの福島稲荷神社にある「世良修蔵墓」へ。
世良修蔵は有名なので、今更説明も要らないかと思いますが…
長州藩 浦靭負家来。奇兵隊書記、第二奇兵隊軍監。
明治元年3月奥羽鎮撫総督府参謀で、東北の徹底武力討伐を強行しようとして慶應4年閏4月20日福島の旅宿金沢屋で仙台藩士に捕えられ、寿川河原で斬。34歳。
明治元年3月奥羽鎮撫総督府参謀で、東北の徹底武力討伐を強行しようとして慶應4年閏4月20日福島の旅宿金沢屋で仙台藩士に捕えられ、寿川河原で斬。34歳。
コレがきっかけで奥羽戊辰戦争が起こったといっても過言では無い事件です。
図書館、求める資料や情報は得られなかったものの、ここで得た情報を元に、図書館出てから史跡巡りの続き。
同じ福島市内に、新発田藩の飛地があり、その陣屋跡へ。
八島田駐在所前に案内板があります。
「新発田藩陣屋跡」は寛政元(1789)年越後国新発田藩溝口氏は幕領二万石との村替えを命じられ、信夫・田村・楢葉の二十三ヶ村は新発田藩の飛び地となり、新発田藩はこの地「八島田村」に陣屋を置いて支配。慶応4年7月23日西軍が越後松ヶ沢大夫浜に上陸すると新発田藩が西軍の先鋒となって会津藩領に攻め入ると、8月米沢藩兵によって占領され、陣屋の役人は全て捕らえられて米沢へ同行し、10月4日まで米沢藩兵が駐在。明治4年まで新発田藩陣屋の陣屋として続きました。現在の駐在所は陣屋をイメージして作られたそうです。
次に、福島市上名倉の和光神社に、新発田藩の「筑波山出兵記念の溝口主膳正碑」へ。
社殿の裏にいくつも石碑があり、右手のひときわ大きい碑が、名前が色々刻まれているようなのですが立地と磨耗で読めず・・・。
最後に福島市清明町にある常光寺の「郷方鉄砲組戦死者追善供養塔」へ。
福島市藩が天狗党追討の為に出兵、兵制改革で新設された20名程で組織された「郷方鉄砲組
福島市藩が天狗党追討の為に出兵、兵制改革で新設された20名程で組織された「郷方鉄砲組
」も共に出兵し、戦死した加藤兵五郎や丹治三十郎・斎藤与惣右衛門等の追善供養塔。
参道沿い左手にありますが、だいぶ磨耗していて周囲の文字を読むことが大分困難です。