表題の意味は、フィットネスクラブのはなし。


どこかのクラブに会員になっている人はわかると思うが、
最近はどのクラブも
「相談に乗ります」
「役に立ちます」
といった類いの唄い文句でキャンペーンを展開している。


だが、実は…



本当のところ、皆が大挙して相談に来られたら、お手上げ、なのが実状。


物理的にも、能力的にも。


通っている方はわかると思うが、
大体広いジム内に、およそ100�にスタッフは一人強の配置。
50人前後に一人の割合。
物理的に無理である。



また能力的には、
日本のフィットネスクラブはかなり水準は高いが、
それでも対象は「人体」の話。
全てを網羅して対処出来るというのは、そう簡単なことではなく、
かなりハイレベルなスキルが要求される。



もちろん、そのようなフィットネストレーナーも存在する。
そのようなスタッフに巡り合うことが出来たら、事実上、かなりラッキーと言える。
会員として通っている方がいたら、
もしそのようなフィットネストレーナーがいたら、
絶対に離れないように、ストーカーのごとく手放さない事だ。
そういうスタッフに巡り合うことは、宝くじに当たるほど、難しい。

これが本音。





とは言うものの、
そういうスタッフを育成するのも、私の仕事だったりする。



だが、いくら教育しても、
「情報」はインプットさせられても「知識」にまで昇華させるのは難しい。
「知識」とは、数ある情報を、クライアントが求める形に「編集」し、
望まれる「商品」に仕上げて提供する、という工程が要求される。



つまり、その知り得た「情報」を望まれる形に「編集」するには「感性」も必要であり、
教えてどうこう、というより、
その人が普段、何を考えて生きているかという、
根本的な「物事の考え方」に依存する形になってしまう。




以前にも同じことを書いたが、
人の教育について、私が到達した結論。


「他人と過去は変えられない」

逆に

「自分と未来は変えられる」

ということだ。




つまり、教育とは「交通標識」のようなもの。



例えば、どんなに交通標識を工夫しても違反は無くならず、
相変わらず事故は絶えない。




だが、例えば一時停止の標識の代わりに、
一時停止を無視した人の事故映像や画像を随時流せるように出来たら、
恐らく事故は減るかも知れない。
映像はかなり生々しいし、実現可能かどうかは別にして。



つまり、同じ標識を見ても、
それに反応する人もいれば反応出来ない人もいる。
結局、それに反応出来る、感じられるかどうかは本人に委ねられるわけで、
反応の仕方まで教育するのは不可能。



そう、他人を変えるのには限界があるわけで、
こちら側の対応を変えるしかないのでは?と思うのである。



ある意味、私が少ない経験の中から到達した、
自分なりには究極の結論である。



と、言いながら…




でも、同じ交通標識を見ても、反応出来る人を今よりもっと増やせるはずだ…




と、どこかで諦めてない自分もいる。



教育論については、そこをさまよって、探している。