驚きました。


文藝春秋11月号。


近藤誠さんの寄稿を取り上げていますが・・・その中吊り広告。



「川島なお美さんはもっと生きられた 二年前、彼女は私のセカンドオピニオン外来を訪ねてきた」とあります。



まず、ご自分が直接関わった患者さんです。


実名を挙げて、受診したことを表現されています。


医師の守秘義務についてはどう考えておられるのでしょうか?


そして、彼のいつもの方法を知る人たちには予想されていたことですが、いつも通りの、亡くなった有名人を題材にして注目を集める手法です。


さらに、タイトルは「もっと生きられた」と、論評するような、第三者的な立場の表現に聞こえるのですが、これは私の感じ方の問題でしょうか?


仮にも自分が関わった方のことです。本当に彼女のことを悔やまれるのならば、”もっと生きられたのに……”とか”悔やまれる決断”等と言葉を選択しなければならないところでしょう。


この場合、タイトルは出版社が付けるなどの言い逃れもできません。近藤さんの場合は文藝春秋との関係において、力が弱いわけではないと考えられ、言ったタイトル(あるいは直したタイトル)はきちんと通るはずだと思います。このタイトルで良いとしているのが彼と出版社です。


また、「もっと生きられた」ということは、私の説を聞けばもっと生きられた、とでも言いたいような表現に思えます。


だとするならば、”セカンドオピニオン”は川島なお美さんを納得させるのに不十分だったかもしれません。しかしそれを彼女の逝去後に、公に向かって「もっと生きられた」はおかしいでしょう。自分の診ている患者さんなのですから。



彼を信仰する人や、知識人・医師の擁護者は、「医療界を良くしようと思っている」と彼の意図を善意あるいは拡大解釈しています。


しかし仮にも自分が関わった方に対して、逝去後すぐに実名を挙げて、「彼女はこうすれば良かった」的な、第三者的で論評するようなタイトルで寄稿する方は、本当に信用に値するのでしょうか?


私は世のためにやっているというよりも、自分の説を容れない社会に関して、何としてでも認めさせようとする固執のように感じます。


あるいは川島さんが彼の言うことを全て信じ、全て言うとおりにしたのならば「もっと生きられた」とは書かないと予想されるので、彼の言うことを聞かなかった、そしてそれを逝去後に社会に暴露するのは、彼女が自説を全て容れなかったことへの個人的な感情から発したものを公器を使って発信しているように私の目には映ります。


タイトルのような言葉遣い一つをみても、亡くなった患者さんのため、社会のため、というよりもインパクト重視で耳目を引きつけ、自説を開陳し認識させたいことのほうが上位であることが透けてみえます。


このような方を、文藝春秋は頑なに擁護していると見えてもおかしくはないでしょう。


いずれにせよ一般の方は、良い意味でなく「普通ではない」ことがわかって来たと思います。


「自分を認めさせたい思い」が強力な力を帯び、それに大手メディアが増幅し、お墨付きを与えたことで、このようなことが起こります。


ただもはや真意は見えたと思います。亡くなる人のため、社会のため、義憤ではない、少なくとも私にはそう感じるのです。


認めない世への負の感情と、インパクト重視で販売を考える出版社の、好ましからぬコラボです。


そしてこのような一連の姿勢は、亡くなる患者さんやご家族の苦悩と、それを何とか支えたいと願っている医療者の、真剣で必死な現場の思いの対極に位置すると私は感じます。


皆さんと引き続き目を光らせ、おかしなものに対しておかしいと声をあげてゆくのが重要だと考えています。