12月8日、東日本大震災の原発事故により、
新潟朝鮮初中級学校に避難していた
福島朝鮮初中級学校の生徒たちが母校に帰り、
その歓迎会が同校で行われました。
当日は、福島ハッキョの学生とその父母、
東北地域の同胞たちはもちろん、
5月から約7カ月間共同生活を送った新潟ハッキョの生徒たちや
福島出身の朝高生、朝大生も駆けつけ、
式典、公演、宴会のすべてが温かく、
感謝と決意で溢れたものになっていました。
震災後、生徒たちを新潟ハッキョに送るという
苦渋の決断を迫られた当時の思いを語る校長先生、
被災した子どもたちを我が子のように思い、
負担を少しでも軽減しようと物心両面でバックアップした
新潟ハッキョオモニ会会長の涙には、
こちらも思わず目頭が熱くなりました。
学生たちに話を聞くと、
「最初は不安だったけど、すぐに仲良くなれた」
「人数が2倍に増えて楽しさも2倍になった」
「二度とできない経験をした。新潟で過ごした7カ月は絶対に忘れない」
という頼もしい感想がたくさん返ってきました。
2つのハッキョが共同生活を送るのは
民族教育の歴史上初めてのことです。
それもウリハッキョだからできたこと。
新潟同胞社会だけでなく、
一日も早く学生が母校で学べるようにと
これまで青商会をはじめとするたくさんの同胞が
福島ハッキョの除染作業に携わりました。
(ある学生は「自分たちがいた時よりもっときれいになっていて驚いた」と言っていました)
そして講堂を埋め尽くすようにびっしりと飾られた
全国のウリハッキョの学生からの激励メッセージ。
まさにウリハッキョや同胞社会の相互扶助の精神が
そのまま表現されていた会だったと思います。
個人的には約4年ぶりに訪れた福島ハッキョ。
当時の取材はとても印象深く、
ハッキョのみなさんにもとてもお世話になり
再訪を期待していましたが、
まさかこんな形で訪れることになるとは思ってもみませんでした。
あの時、4年後に大きな地震が来て
学校を離れることになるなんて誰が想像しただろうと、
4年前の取材を回想しながらふと思いました。
思わずして、福島ハッキョは大きな試練を抱えることになりました。
そしてこれからも、
見えない敵を前にしてまだまだ戦わなくてはいけません。
自分の非力さを嘆いたらきりがないですが
一記者として、一在日同胞として、
とにかくこの日見た光景、
先生や生徒たちの言葉は
絶対に忘れないようにしっかり記憶していこうと思います。
