先日の記事で
幼稚園時代のこどもえいごと日本語のバランス、
みたいなことを書きました。

幼い内は
「今がバイリンガルにするチャンス!英語漬けにしなきゃ!」
なんて焦らないで!!
週に一回でもいいので
楽しく英語に触れる機会を作ってあげれば
それで十分、
あとは
今はしっかりと母国語である日本語の土台を固めることの方が大事!!

そんなような内容のことをお伝えしました。

自分ではなかなかうまくまとめられませんでしたが
作家・藤原正彦さんの著書「この国のけじめ」で
おぉ!まさにそういうこと!!という内容のエッセイが載っていましたので
みなさまにご紹介しちゃいますね。
(余談:高田万由子さんもある雑誌でこの本を子育ての指針にと
読書中、と載っていました!)

~~~以下、「この国のけじめ」より引用~~~

学ばせるべきは誇り高き日本の文化

 英語第二公用語論がやっと沈静したと思ったら、
今度は手をかえて「小学校での英語必修化」が蠢き始めた。
平成十四年に、国際理解教育の一環として
公立小学校に導入された英語は、
いまや全国の大多数の小学校で教えられている。
平成十六年度には東京・荒川区で、
英語を正式教科に格上げし、
区内の全小学校で一年次より担任が教えることになるという。
 小学校での英語に関しては保護者の要望も強く、
この動きは今後全国に広がりそうである。
この高まりを受けてか、
小学校での英語必修化に強い意欲を持つ文部科学大臣は、
中央教育審議会に実施に向けた検討を要請した。

(中略)

 たいていの日本人が英語をなかなか会得できないのは、
日本人にとって英語自体が極端に難しいからという理由につきる。
何かが悪いからではない。
日本にいて英語をマスターしている人はすべて、
外国語適性の高い人が膨大な時間と労力をかけた結果である。
 英語は文法的にも文化背景からいっても、
日本語からあまりにも遠い。
アメリカ国務省は、外交官などのため外国語学習の難易度をランキングしているが、
日本語はアラビア語とならび最難解とされている。
この距離ゆえに、日本人にとって英語は根本的に難しいのである。
そのうえフィリピン、シンガポール、インドなどと違い、
日本で日常生活を送るうえで日本語以外の言語はまったく不必要である。
どうしても習得しなければ、という動機も覚悟もわきにくい。
 これらは嘆くべきことではない。
外国語が不必要というのは、他のアジア・アフリカ諸国と異なり、
かつて欧米の植民地にならなかったという栄光の歴史を物語っている。
英語から遠いと言う事実は、
世界を席捲しつつあるアングロサクソン文化に対し、
自然の防波堤を有するということである。
母国語こそが文化の中核だからである。
我が国に美しく花開いた希有の文化、
人類の宝石ともいうべきものを、
荒波から守るための神の思し召しと感謝してよい。

 英語をマスターすれば国際人になれる、
という驚くべき誤解が国民の間に根強いようだ。
いうまでもなく国際社会では、一芸に秀でた人はともかく、
一般には伝達手段の巧拙でなく伝達内容の質で人間は評価される。
質の向上には自国の文化や歴史などの教養とそれに基づく見識が必要である。
米英で四年余り教えたが、
この意味での国際人は私の見るところ、
両国でもたかだか数パーセントである。
逆にぎこちない英語ながら、国際人として尊敬されている日本人を何人も知っている。
 伝達手段の英語をマスターし、かつ自らの内容を豊かにすることは、
並の日本人には不可能という辛い現実を、
素直に国民に伝えねばならない。
内容を豊かにするためには、読書を中心とした膨大な知的活動が必要であり、
これが膨大な英語習得時間と、並の人間にとって両立しないのである。
うまく両立させられる日本人は、千人に一人もいないと考えてよい。
 ある統計によると、仕事の上で英語を必要としている人は
十八パーセントに過ぎない。
基本的に英語は、中学校で全員が学んだ後、
必要に迫られている人や、そんな仕事につきたい人が猛勉強して身に付ければよいものである。
この場合でも教養や見識は英語より上にくる。
海外駐在商社マンも日本の文化や歴史を知らないと、
しかるべき人間とみなされず商談の進まないことがある。
 国をあげての英語フィーバーは、滑稽を通り越して醜態である。
為政者は、国際化だ、ボーダーレス化だ、などと軽薄な時流に乗って国民を煽るより、
真に誇るべき日本の文化や情緒を子供たちにしっかり学ばせ、
祖国への自信と誇りを持たせることが肝要と思う。



みなさまはいかが受け止められますか、このエッセイ?
この本のもう少し先に
上記内容をもう少し詳しく書いているエッセイもありましたので
次回は(次回も?長いですけど)それをご紹介予定です。