本当に久しぶりの更新となってしまいました。仕事などでかなりバタバタがあったのですが、それも言い訳ですね。これからは月に一度ほど更新出来ればと考えています。

今回お話させていただきたいことは、“困難をどう捉えるか”ということです。生きているなかで人は様々な困難に直面します。そういった出来事なく平穏無事な毎日を送るというのは誰もが願うことなのかもしれませんが、逆に困難が人を成長させるという事実も見逃せません。

困難に直面したとき、人は様々な反応をみせます。なんとかそれを乗り越えようとする人、目を逸らしてやり過ごそうとする人、怒りを爆発させることで困難自体を悪とする人。それではどういった向き合い方をするのが本当の成長に繋がるのでしょうか?

それは改めて説明するまでもないと思いますが、困難を乗り越えようとする人です。『戦わない経営』などの著書で知られる浜口隆則氏は、これまで企業コンサルティングを通して数多くの社長さんと話をされてきたそうですが、その経験から上手くいく会社とそうでない会社を見分ける物差しに気がついたとおっしゃわれていました。その物差しとはなにかお分かりになられますか?

それは“言い訳をするかしないか”だそうです。言い訳をする社長の会社は上手くいかないことが多いそうです。これはなにも会社に限ったことではありません。個人においても言い訳をすることで自分の非を認めることができず、成長するためのきっかけとなる出来事を否定し結果成長出来ないという人を私も数多く見てきました。そういう人は欠点を指摘されることがなくなり、本人は自分がしっかりしているからだと信じ込みますが、実際には周囲の人が“言っても仕方ない”と判断したに過ぎないのです。

この状態になってしまうとそこから抜け出すことは非常に困難です。なぜなら、その人は自分がしっかりした、欠点のない人間だと信じ込んでしまい、短所を指摘された際にそれを受け入れるという柔軟性を失ってしまい、また、間違った自信を持って生きてきた時間が長くなればなるほど、いびつなプライドを持ちそれが物事を素直に認めることを難しくしてしまい、さらに年齢を重ねるごとに自分の非を認めることが難しくなるからです。

それでは困難に直面したとき、私たちはどういった姿勢でその問題と向き合えば良いのでしょうか?また、どういった考え方がその姿勢を後押ししてくれるのでしょう?それについては次回またお話させていただきます。

今日もお付き合いありがとうございます。
先日『麒麟の翼』について書かせていただきましたが、そのときに書かせていただいた内容と重なる部分の多い事件がありましたので、それについて書かせていただきます。

ニュースでも大きく取り上げられていましたので、ご存知の方も多いと思いますが、大阪市の桜宮高校で起こった体罰に関する事件です。

バスケットボール部の顧問の先生がキャプテンを殴り、それが原因となってその生徒が自殺をしたという痛ましいものです。

体罰が許されるのかという問題についてはここでは一先ず置いておかせていただいて、私が注目したいのは校長の顧問の先生に対する対応です。

体罰があったことを認識しながら、校長は顧問を庇いました。そのことについて記者会見で問われた校長は、「若い先生なので、その未来を考えると」と答えていました。

前回の記事を読んで下さった方ならお気づきになると思いますが、これは劇団ひとりさん扮する教師が、事件を起こした生徒たちを庇ったことについて追求されて口にした言葉と全く同じなのです。

その結果『麒麟の翼』では生徒の1人が殺人犯となり、1人が父親を失うという結果になりました。

そして桜宮高校では生徒が自ら命を絶つという事態になったのです。

もし罪に問われずにする可能性があるなら、そうしてあげたいという気持ちはよく分かります。しかし、本来しなければならない償いをせずに生きるということは、過去に縛られることであり、そこから前に進むことはできないのです。したがってその人に未来はないのです。

その人を救うつもりで行ったことでも、“犯した罪を償う”というこの宇宙を支配している法則にのっとらなければその人の未来を奪ってしまうことになるのです。

今回の桜宮高校も『麒麟の翼』も、どちらもその間違いを犯したのが学校関係者であったということが、強烈な印象を残しました。学校関係者に限らず、我々は部下や子どもなど、人を教育する機会が多々あるでしょう。そのときに相手に何を伝えるのか、それが大切なのです。いかに物事に上手に対処するか、成果をあげるかということも大切ですが、そこに正しい人格というものがなければその人に未来はないのです。もう一度そのことを肝に命じていただきたいと思います。

今日もお付き合いありがとうございます。


blogramによるブログ分析

人気テレビ・ドラマ、『新参者』の映画として話題を呼んだ作品で、ご覧になられた方も多いかと思います。私は少し前のテレビの再放送で初めて見たのですが、あまりに強い印象を受けたのでここで書かせていただきたいと思います。

阿部寛さんを始めとする超豪華な役者さんたちの演技は素晴らしく、東野圭吾さんの複雑に絡み合ったプロットと、その奥にしっかりと脈打つ人間味溢れる温かさをどっしりと表現しており、とにかく引き込まれる作品でした。

そのなかで東野圭吾さんが描きたかったのは、“父親の優しさ”だったと思います。中井貴一さん演じる男性の、口数は少ないが心から家族を思いやる愛情が印象的で、同じように子供を持つ身として感銘を受けました。

そして、私が最も強い印象を受けたのが、劇団ひとりさん演じる中学校の先生の行動です。特訓と称して下級生の水泳部員をしごき、結果全身麻痺にしてしまった3人の生徒に対して、現場を見つけた先生はその3人を逃がし、下級生の水泳部員が一人で特訓をしていて溺れたと警察に告げました。

特に疑われることもなく、それは“事故”として処理されました。しかし、その後起こった殺人事件は突き詰めていくとその“事件”を“事故”として処理したことで起こりました。

先生が“生徒の未来のため”と嘘をついたことは良いことではありませんが、その気持ちを私はよく分かります。もし自分の子供がその立場であったら果たして警察に真実を話すことが出来るでしょうか?犯罪者にならずに済むチャンスがあれば、そちらを選ばずにいれるでしょうか?

ただし、この迷いは全ての真実が明らかになった後半の阿部寛さんのあるセリフで吹き飛びました。先生が「生徒の将来のためにやったんです」と言ったのに対して、「あんたの言う将来とはなんだ。罪を犯しても嘘をついてやり過ごせると教えたことで、一人は殺人を犯し、一人は父親を失った。そんな人間に人を教える資格はない」というものです。

これを聞いたときに頭を殴られたような衝撃を感じました。今、そのときに一番良いと思われることを選択しようとするあまり、それの選択がその人の人間性を形成する上でどのような役割りを果たすかまで考えられていなかったのです。

罪を犯してもごまかせると教えることは、さらに大きな問題を引き起こす人格を生み出すことであり、それは本当の意味での幸せというものから遠ざかることを意味します。問題を起こした会社や政治家が隠蔽工作をすることがありますが、結果は必ず事態を悪化させています。それは人として正しい道を歩んでいないからなのです。逆に自分の過ちを認めた人は、必ず再起の道を歩んでいます。

これから様々な判断を下す場面に遭遇するでしょうが、常に“人として正しくある”ということを大前提に決断して行きたいと思います。

お付き合いありがとうございます。


こちらがそのDVDです。

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