年代 天文11年(1542)8月10日
場所 愛知県岡崎市


織田信長の父である信秀が尾張の国をほぼ統一し終わったころ、今度は三河へと侵攻する気配を見せた。そして安祥城を攻略。
当時、三河の国を支配していた松平広忠は本拠地の岡崎が危ないということで、東の今川義元に救援を求めた。
当時、一応三河を治めていた松平広忠だが、かなり不安定な支配で松平氏のみでは三河を治めることができず、事実上今川氏の支配下にあったのだ。


織田信秀の軍勢4000が岡崎城近くの上和田に陣を敷いたことをうけ、今川、松平の連合軍はこれを蹴散らすために小豆坂あたりを進軍。
しかしながら、織田軍は一気に小豆坂を駆け上り、先制攻撃をしかけた。

大軍の行動に適した場所でなかったのだろうか、今川、松平連合軍は混乱し、一時後退を余儀なくされたが、時間が経つにつれ、数で勝る連合軍が少しづつ押し返してきた。


連合軍が織田軍を壊滅するかと思われたが、その直前に横から織田軍が急襲して、連合軍の先鋒隊を退け、それを機に織田軍は追撃。

連合軍は撤退し、義元は岡崎城へと避難。

これで小豆坂の合戦は終った。


この小豆坂の合戦で活躍したのは信秀の弟達とその側近達で、彼等は後に『小豆坂の七本槍』として賞賛された。