年代 天正2年(1574)5月12日~6月17日
場所 静岡県小笠原郡大東町土方


元々は今川家の支城であった高天神城だが義元が討死し、1568年に武田信玄と呼応して家康が今川家を攻めた折に、特に争うこともなく高天神城徳川氏の支城となった。
すでに遠州の地侍達の多くが今川氏真を見限っていたらしい。

武田と徳川の関係が悪化すると元亀2年、信玄は遠江へ2万5千の大軍で攻め入った。
しかしながら、信玄の体調が悪く、本体は帰還することになり、高天神城攻めを内藤修理に任せたものの、落城させることが出来なかった

信玄が死んでしまい、勝頼が代理当主となると天正2年5月に高天神城の攻略へ向かった。5月12日に包囲し、好条件を提示して降伏を促すものの、城将の小笠原長忠は首を縦には振らず、家康に援軍を求めた。
そして家康は信長に援軍を求め、信長は5月16日に二条城から本拠地の岐阜へ向かい、戦の準備に取り掛かった。

高天神城がなかなか降参しないので、勝頼も痺れを切らし、6月になって力攻めを開始。2万の大軍で強襲されたため、西の丸井戸曲輪を占拠され、6月17日に小笠原長忠は降伏。敵将であるものの、勝頼は高待遇の条件で1万貫の知行を長忠に与えた。


この知らせを聞いた信長は三河まで来ていたものの、岐阜へと引き返した。