場所 静岡県庵原郡蒲原町蒲原
年代 永禄12年(1569)12月6日
駿河の攻略を目指し、武田信玄は1568年から攻撃を開始するが、駿河の国をほしいのは武田だけではなく、武蔵、相模の北条、西の遠江の徳川も欲しがった。
このため武田軍は、一度今川軍を撃退するものの、北条、徳川(同盟を結んで)が両脇から攻め込んでくるため、なかなか領国化できなかった。
蒲原城の合戦は、駿河の国で三つ巴の戦いを繰り広げていた最中のこと。
1568年、一時、駿河の国から今川を駆逐するが、北条が小田原より攻め込んで、庵原地区の武田軍を追い払い、蒲原城に北条綱重を据えた。
戦略上、重要な位置に蒲原城があったためか、武田軍は蒲原城の攻略に動く。
1569年12月6日には由比、倉沢に陣を構えている。
武田軍は小山田備中守のみを本陣に残して、蒲原城に攻め込む気配を見せたために、北条綱重は出撃。武田軍を分断しようと試みるが、そのとき道場山にいた武田勝頼が襲い掛かった。
そして、武田軍の予備隊が一気に城への突入を図ったために北条綱重は城へと戻ろうとするが、回りは武田軍で埋め尽くされており、激闘の末、北条綱重は戦死。
相模、駿河間の重要拠点を武田氏は手にした。
ちなみに戦死した北条綱重は北条早雲の孫にあたり、北条幻庵の息子にあたる。
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