保守という思想的、政治的な立ち位置に自分を置いて、世の中を眺めながら生きていると、様々な疑問が湧いてくる。

どうでもいい瑣末な違和感から、核心的な大命題まで、色んな疑問だ。

それらの中で最も核心的だと思われる6つの大疑問について、今日は精一杯考えてみようと思う。
その5つの疑問とは・・


1・保守が守るべきものとは何か?

2・保守のあるべき生き方、人生観とはどんなものか?

3・保守の敵とは何か?

4・保守は現代の社会、現代文明をどう捉えるか?

5・保守と愛国心の関係をどう考えるか?

6・西洋型の保守に対する、日本型の保守とはどんなものか?



今回はこの6つの疑問に一つ一つ答えていくよりも、まとまった論考を提示する形で私なりの回答を示してみたいと思います。



保守が理想とする人生あるいは人間社会のあり方は伝統的かつ正統的なものです。
こういっただけではほとんどトートロジーで何も言っていないのと同じなので、詳しく解説してみます。

戦後日本最高の保守思想家といわれる福田恆存は、「真の自由とは宿命の中で精一杯生ききることだ」というようなことを常々言っていました。

それから、京都学派を代表する哲学者の和辻哲郎は、「人間は本質的に社会的な生き物だ、個は全体により成り立ち、全体は個により成り立つ、この矛盾はありのままに生きているのが人間だ」という倫理思想を打ち出しています。

さらに、批評家の小林秀雄は、「運命に立ち向かい闘った者たちの思いを共有し継承するところにしか歴史は生まれない」と述べています。

そして、思想家の西部邁氏は「歴史的に色づいてきた言葉の内の伝統が、人間の宿命の悲しい喜劇を物語化する」ということを言っています。

これらの思想家たちの思想を私なりに統合してみます。

まず、人間とは共同的、社会的な動物である。
よって人間の生には言葉が不可欠であり、歴史的に音韻と意味作用の相互連関により言葉の伝統を紡ぎ上げてきた。
さらに、人間の生はあらかじめ空間的時間的な有限性の中にある。
よって人間の生は多かれ少なかれ挫折や失敗、あるいは悲劇を経験する。
人間の悲劇を宿命として受け入れるためには、美的言葉による物語化が不可欠である。
美は共同性と言葉の伝統から生まれる。
共同性の暖かさとそこからの離脱が美的感性の源であり、言葉の意味体系及びそこからのズレが美意識を形づくる。

そして、宿命の中を懸命に生きた個々人や共同体の「思い」を物語化して共有し継承するところに歴史が生まれる。
自らの分を心のそこから弁えて、宿命の中で真の自由を生き抜き、言葉の伝統美によりその生き様を物語化することが、最も美しく正統な生き方なのである。

即ち、ここには歴史、言葉、伝統、共同性、宿命、物語等の有機的な構造が成立しているのである。

この有機的な構造こそが保守が理想とする人間の生き方、人間社会のあり方の核心である。

この構造を保守するためには、当然共同体と言葉の伝統を保守しなくてはならない。
それは伝統的な人間関係のあり方あるいは慣習や正統的な言葉遣いを保守することである。


しかし、西洋に始まる近代化はこの伝統的な人間のあり方を根こそぎ破壊してきたのだ。
近代的なイデオロギー(自由、平等、民主主義、人権、平和、市場主義、進歩史観)と科学の力により、伝統的な価値観は全否定された。
伝統的な言葉遣いは改変され、家族のあり方も激変した。
土地、労働、文化あらゆるものが市場化され、貨幣的価値に換算される。
人命と貨幣と欲望こそが価値の帝王として君臨し、伝統的な社会は徹底的に蹂躙されたのだ。

もっとも私は「近代」とは人類にとって一つの大きな宿命であったと考えている。
西洋から近代が起こらなくても、イスラムや中国あるいは日本からそれは始まって、いずれ世界を席捲していたであろう。
つまり一つの必然だったのだ。
人体に例えれば、一生に一度は罹らなくてはならない「オタフク風邪」のようなものだ。
問題は「オタフク風邪」が死にいたる病にならないようにするには、どうすればいいかだと思う。

だが一方で、確かに伝統的なるものがまだ社会の中に残っていた時期には、それを破壊する近代的な価値観はエキサイティングでダイナミックなものに見えていた。
輝かしく魅力的だった。
しかし、当の伝統的なるものが社会の表舞台から姿を消して以降には、近代的な価値観もかつての輝きを失っていった。
破壊の理想は破壊の真っ最中にはカッコよく見えるが、破壊が済んだ祭りの後には虚しさしか残らないのだ。

そして近代的な価値観は、相対主義というニヒリズムに行き着いてしまう。

善悪も美醜も真偽も、それぞれの個人の好き嫌いで決めればいい、という価値相対主義。

その相対主義ニヒリズムのさらにその先について、社会学者の大澤真幸はこう分析する。
「相対主義の虚しさに耐えられなくなった者たちは、アイロニカルな没入に至る」

「アイロニカルな没入」とは哲学者のスローターダイクによる概念で、「仮想的に絶対を体験する行為」といった意味である。
例えば、オタクはその典型である。
狭い趣味の世界に無理やり「絶対的な価値」を見出してそこに没入することにより、仮想的に相対主義から脱して、絶対を体感するのである。

オタク以外でも最近の若者の「ノリ」や「キャラ」によるコミュニケーションなどもそのバリエーションの一つだろう。
間を空けずにリズミカルにノリでコミュニケーションを続けるのだ。間が空くと「虚しさ」が身に沁みるから。

あるいは国際的に見れば、イスラム原理主義なども「アイロニカルな没入」の一例だろう。

そして、この「アイロニカルな没入」にはさらにもう一つの例がある。
私は、これこそが近代という「オタフク風邪」を死にいたる病にしかねない危機だと捉えている。


それは、「生と死の工学化」ともいうべき現象だ。
ITとバイオテクノロジーの発展により、人間の生と死がどんどんテクノロジーの手に委ねられつつあるのだ。

個人認証システムにより、いつでもどこでも経済活動や様々なコミュニケーションを気軽に行えるようになっていき、遺伝子診断で事前に病気を発見し、医療の発展で重病から些細な病気まで速やかに対処できるようになる。
これだけ聞くとまったく素晴らしく、便利なことのように思えてしまうだろう。

しかしこの現代文明の大進展には大きな盲点があるのだ。
それは人間から「運命や偶然性」あるいは「真の自由」といった太古以来の大事なものを奪ってしまう恐れがあるということだ。

ランキングや検索システムに頼った消費。
検索システムにより、検索傾向が工学的に分析されて、それに見合った広告が画面に表示される。
人間の欲望すらも工学化されつつある。
さらに出産前の遺伝子診断により、子供を産むか中絶するかを決めるという優生学的な問題。
人間の生死、運命すらも工学化される。
こういった現実はもはや日常にありふれつつある。
人々は危機感を抱くどころかその現実に順応しつつある。

私は常々思うのだが、生老病死や日常の悩みなどの葛藤や矛盾に生身が立ち向かってこそ人間は豊かな深い内面や人間関係を育むことができるのではないだろうか?

私にはこの現実の流れがとてつもなく恐ろしいことのように思えてならない。
果たして人間の生と死が工学化されつくした未来に、「人間の尊厳」や「真の自由」は存在しているのだろうか?
すべてが工学化されつくした未来には「フラットな現実」「内面の深みのない個人」「薄っぺらい動物的なコミュニケーション」しか現れないのではないだろうか。

私はこの問題こそが、「中国の台頭」などにも増して保守が真正面から取り組むべき課題だと考えるのだが、どうだろう?
「未来社会」の問題について保守はあまりに無頓着すぎるような気がしてならない。




さて、それでは、保守はいかにして近代と闘い、伝統を守るのか?
この疑問に答える上で重要となってくるキーワードが「ナショナリズム」だと思う。


もちろん、近代ナショナリズムは西洋近代の波に触発されて発生したものだと言えるだろう。
保守+国家 VS 近代 といった単純な構図ではないのだ。
近代国家は保守の側につくこともあれば、近代の側につくこともあり得る。
何しろ日本の伝統文化を破壊してきた罪の一端は近代国家にもあるのだから。

しかし一方で、日本に限って言えば、古代の白村江の戦いから中世の元寇、近世の国学や尊皇思想まで見渡せば分かるように、日本には近代以前にもナショナリズムはあったのだ。

「国家やナショナリズムは近代の産物である」という左翼の理屈は少なくとも日本に限っては通用しない。
西洋近代の波に対して日本ナショナリズムが台頭してきた経緯にはきちんとした来歴があるのだ。


ところで、経済思想家の佐伯啓思は「希少性の経済学から過剰性の経済学へ」という議論の文脈の中で次のようなことを言っている。
「現代の経済は資本と生産力の過剰性を消化するために、無理やり経済成長を作り出している、ありもしない希少性をメディアや広告により煽っている、我々はこのような不自然な経済のあり方を脱して、グローバル資本主義からナショナル・エコノミーへ、経済的価値優先から脱却して、善き社会を目指す大転換を行わなくてはならない」

そう、グローバリゼーションの猛威に対抗できるのは、国民経済のナショナルなまとまりしかないのだ。

近代ナショナリズムには日本人の日常感覚に密着した身体性と、近代合理主義的な側面と両面があるのだ。

近代国家の設計主義的な側面には十分に注意を払いつつ、ナショナリズムの身体性的な側面を生かして、国の枠組みをグローバリゼーションからの防波堤、あるいは近代的価値観に対抗する基準として生き生きと活用していくべきだと私は思う。



保守派は「近代を超える」とか「近代の超克」といった言葉が好きらしく、保守系の雑誌でよく見かける。
しかし、「近代を超える」ことはそう容易いことではない。
我々の想像を遥かに超える程に「近代」は現代人や現代社会の骨の髄まで沁み込んでいる。

例えば、文芸評論家の福田和也は「日本とは何かと問うこと自体がすでに西洋的な思考法にはまり込んでいる証拠なのである、我々は日本とは何かを問うより先に日本を生きなくてはならないのだ」といったことを言ってる。

抽象的、合理主義的な思考自体がすでに近代の罠であり、日本の伝統的なるものを破壊する可能性を秘めているのだ。
真に日本で保守を貫くということは、伝統や日本について思想を巡らせるより先に、まず日本的な生き方、日本人的な人生を生きなくてはならないのだ。

さらに評論家の小浜逸郎の言葉はさらに厳しく、「日本は近代に一度敗北したのだ、いや日本文明にはあらかじめ敗北がその身深く刻みつけられていたと言ってもいい」といったことを言ってる。
そして、思想家の山本七平も「そもそも尊皇攘夷の思想自体が朱子学や陽明学といった外来思想の影響下で生まれてきたものなのだ」と言う。

つまり、日本文明はもともと中国やインドや欧米からの外来の思想を受け入れながら育ってきた言わば、「カウンターカルチャー」なのであり、近代に日本が敗北することはあらかじめ宿命づけられていたのだ、ということが言われているわけだ。

もちろん、このような言説を私はナショナリストとして、承服しかねる。

しかし、一方で事実の一端を示していることも確かだろう。

確かに、日本は中国から漢字を輸入してもカナの発明により大和言葉は保守した、インドから伝来した仏教を鎌倉仏教において日本流にリニューアルした、近代においても欧米の文明を和魂洋才の精神で取捨選択してきた。
それは大きな成果であり、日本文明の大達成だ。


しかし、その行き着く先の現代において、日本は近代やあるいは中国に敗北していないと言えるだろうか?
私はどうも敗色が濃厚のような気がして、暗澹たる気分になってしまう。

少なくとも勝利までの道程はまだまだ遥か遠いとは言えるだろう。


しかし、日本文明と保守の未来に私はまだ希望を持っている。
日本の危機に目覚める者たちは着実に増えている。
そこからさらに深く広い保守思想の世界に足を踏み入れる者たちも増えている。

さらに言えば保守主義の領野はまだまだ豊富な思想的、政治的な可能性に満ちている。

その可能性が新しく保守に参入した者たちの手で切り拓かれた時、日本は勝利の鬨の声をあげていることだろう。