小林よしのりさんの『戦争論』を読んで感涙したのは9年前、17歳の高2の時だったと思います。
その後、小林さんと西部邁先生の対談本がきっかけで、西部先生に傾倒するようになって本格的に保守主義に興味を持つようになりました。
戦後的価値観の檻を突き破り、西部先生を知るきっかけを与えてくれたという意味では、小林さんには今でも感謝しています。
現在の小林さんは女系容認やパチンコ問題や政治運動への偏見など毀誉褒貶あり、読む機会もほとんど無くなりましたが、、

ちなみに私が始めて参加した政治活動は、頑張れ日本!全国行動委員会による最初の尖閣デモでした。
古谷経衡さんの演説を聞いて「俺と同世代くらいなのに凄いなぁ・・」と感心したのをよく覚えています。
その時はマスクをして参加し、ろくにシュプレヒコールもあげれずにただぼーっと歩いただけでしたが、何だかすごく大胆な大それたことをしている気分になってました。

そんな私も今では在特会をはじめ色んな政治活動に参加するようになって、マイクを握って街頭で拙い演説をやったりもしています。
一人で家に篭って西部先生の難解な文章に挑んでいた頃の自分からは想像もつかないような政治青年になっちゃっています。

私が西部先生や佐伯啓思先生の著作で本格的に保守に目覚めた頃に比べたら、現在の日本は政治状況も言論空間も随分様変わりしました。
西部先生、在特会、チャンネル桜、小林さんそれぞれがそれぞれもやり方で左傾化しまくってた日本に立ち向かい、日本をここまで正常化してきたのだと思います。
もちろん、まだまだまともな国家というには程遠い状況ですが。


ところで近ごろ「真の保守」とは何か?そのあるべき姿とは?などを巡って、保守陣営の間で活発なな論議が見られるようになってきました。
私はこのような論議が起こること自体は生産的なことだと考えます。もちろん議論の応酬が限度を超えなければの話ですが。

「保守」とは何か?をよく考えもせずに保守派を名乗るよりは、遥かに誠実で賢明な態度だと思います。


さて、それではそこで問われている「真の保守」とはいったい何なのでしょうか?
そのことがきちんと理解されないと、論議が不毛なレッテル張りの応酬に堕してしまう恐れがあります。

そこで僭越ながら私が勉強してきた限りでの「保守思想」の概要をかなり大雑把ですが、ここに記してみたいと思います。


まず保守思想は人間の合理的精神、理性を万能とは程遠い不完全なものであると考えます。

諸科学の仮説の前提は、突き詰めればすべてその根拠を合理的には説明不可能であり、結局は人間の感性に基づくものであります。
その感性に基づく前提が何故正しいとされるかと言えば、それが歴史的に人々の経験による承認を受けてきたものであるからであります。
つまり、あらゆる科学の根源には感性や経験の歴史的蓄積、伝統が胚胎しているのです。

そして人間の感性とは、合理的には解決し難い複雑な葛藤や矛盾を含んでいます。
愛憎、生死、善悪など合理的には割り切れない錯綜がそこには渦巻いています。
合理的には統御し難いそれら葛藤や矛盾をどうにか手懐けるには、絶妙な精神の「平衡感覚」が必要です。
その「平衡感覚」は、長い歴史の蓄積の中で、葛藤や矛盾と格闘してきた先人たちの経験の積み重ねにより培われ、継承されてきていると考えられます。

つまり、合理的には解決し難い人間精神や人間社会の問題に対応するためには、「平衡感覚」が不可欠であり、その「平衡感覚」こそが保守が守るべき「伝統」の真髄であるわけです。

さらに続けると、その「伝統」そのものを実体として取り出し示すことは不可能です。
「伝統」とは「慣習」が具体的に繰り返し実践されるその時その場でしか現象しないというか、姿を現さないものであります。
即ち、「伝統」を保守するためには「慣習」を保守することが最善の手立てであるわけであります。

しかし、「近代」はこの「慣習」をこれでもかと言わんばかりに徹底的に破壊しまくってきました。
政治的には自由、平等、人権など、人間の個人的欲望を無限に解放し、そのための社会システムを設計主義的に構築してきました。
経済的には土地、労働、貨幣、文化など前近代においては市場化を免れていた分野にまで市場化の荒波が押し寄せてきました。
個人主義的自由と科学的合理主義と進歩史観という近代的価値観により、伝統的共同体は徹底して蹂躙され、解体させられてきました。

自由、平等、人権、民主主義、市場主義という「イデオロギー」により、前近代社会が積み上げてきた「文化」は破壊され続けてきました。
絶対的な権威や価値を認めない「価値相対主義」に陥り、義や共同善を見失い、空疎な「自由」が空回りする現代社会は、深刻なニヒリズムに嵌まり込んでいます。

現代社会を襲うあらゆる問題の根源にはこの深刻なニヒリズムという魔物が潜んでいます。
ニヒリズムが生み出す快楽主義(ヘドニズム)、冷笑主義(シニシズム)、熱狂主義(ファナティシズム)そして科学至上主義(サイエンティズム)などの派生物が、我々の生活や思考に深く入り込み、現代社会を混乱に陥れています。
この魔物に立ち向かい、これを退治し、その発生源を絶つ実力を備えた思想は、唯一つ人間の本質と伝統の力を知悉した保守思想のみなのであります。

共同体と個人、自由と規制などの間で平衡を保ち、人間社会の節度を保ち、歴史的に継承されてきた豊饒な文化や知恵、価値や意味を生き生きと保守していく。
人間個々人の生は卑小で短いものかもしれないが、伝統の継承に携わることにより、悠久の歴史の流れに繋がることができる。
これが保守思想が混迷する現代社会にしめす処方箋であります。

以上が私が勉強してきた保守思想のかなり大雑把な概要であります。


そして、ここからが本論なのですが、
この保守思想を踏まえた上で、日本の保守勢力(新しい潮流といわれる勢力も含めて)に対して、私は或る2つの疑問をぶつけてみたい衝動に時々かられそうになります。

その疑問とは、
「果たして現在の日本の保守勢力は真の保守思想に基づいた言論、政治活動を行っているのか?」
ということと、
「果たして現在の日本に保守すべき伝統や慣習はどれほど残っていて、残っていたとしてもそれらを保守しぬくことは本当に可能なのか?」
ということの2つです。


まず、1つ目の疑問ですが、
「我こそ真の保守だ」と名乗る人物や団体は多々あります。
それこそ親米保守の岡崎久彦氏や櫻井よしこ氏のグループ、真正保守を名乗る西部邁先生や佐伯啓思先生のグループ、小林よしのりさんのグループ、憲法無効論を唱える南出先生のグループ、産経新聞やチャンネル桜や若手の保守活動勢力、その他西尾幹二氏や中川八洋氏や福田和也氏や佐藤優氏などなど、、

口先だけで「真の保守」を名乗るのは、本当に容易いことであります。
思想も覚悟も死生観も無く、日常的実践も伴わない「保守」など噴飯物でしょう。
しかし、体系的な思想を磨き上げて、その思想の論理を日常の隅々にまで貫き通す、というのは並大抵のことではありません。

そのもの己では立派な思想だと思い込んでいるものが、思想の体を成していないこともあり得ます。
新保守主義、新自由主義的な発想などは、「保守」としての思想的一貫性が破綻した思想の典型例です。
もはや保守の名に値しない有害思想であります。
だが、新保守主義者たちは自らこそが真の保守であると信じて疑いません。

かように「真の保守」を名乗ることは、有害思想の持ち主にすら可能というか、そういう連中こそが「我こそが保守である」と偉そうにしてる例は枚挙の暇がありません。

最も、有害思想に基づいて有害な言論、政治活動を行ってるならまだしも一貫性があるかもしれません。

思想的にはそれなりに一貫して正統な保守思想なのに、言論や政治活動や日常生活になると、途端に有害になっちゃう残念な人もいたりします。
私自身も、恐らく自分はこれに当たるだろうと自戒しております。

ちなみに私見を交えさせて頂けるなら、
上記した諸派の中で、真の保守主義を最も貫いておられるのは、西部先生のグループだと思われます。
ご存命の知識人の中で徹底した保守思想に貫かれた言論、政治活動を実践されているのは西部邁先生と佐伯啓思先生のお二人であろうと思われます。

もちろん、思想の深浅や実績や言動の一貫性など、真の保守か否かを判断する基準は一様ではないでしょう。
しかし、それらの基準から総合的に判断しても、西部先生のグループの諸氏こそが「真の保守」に最も近いと私は判断しています。

それから、これは余計なことかもしれませんが、
在特会に対する批判として多いのも「お前たちは保守じゃない」というものです。
この批判には多分に精神分析学でいうところの「投影」のきらいがあるのですが、まあそれはとりあえず置いておきます。


そして2つ目の疑問。
「果たして現在の日本に保守すべき伝統や慣習はどれほど残っていて、残っていたとしてもそれらを保守しぬくことは本当に可能なのか?」
ですが、

日本の伝統、慣習とは何か?といえば、皇室、日本語、もののあわれ、神道、コメ文化、和の精神、武士道、非血統的集団主義、無常観、和室和服などなど様々あります。
極めて豊饒で、世界に誇るべき文化です。
しかし、これらの文化や慣習、伝統は現在の日本にどれほど引き継がれているのでしょうか?

小東京ともいうべき画一的な地方都市ばかりの国土、
人間的なコミュニケーションすら不全に陥ってしまっている日本人、
ジャーナリズムの覗き見根性によって崇高さを剥奪され続ける皇室、
ぐちゃぐちゃに乱れる日本語、
地元のお祭りや方言など地域文化が消滅しつつある郷里、
農業の衰退による田園風景や稲作的共同体の崩壊、
武士道や和の精神とは程遠い倫理道徳の瓦解、
和室和服など日本的な日常空間の消滅、

果たして日本のどこに伝統や慣習があり、それらを保守しようという意志があるのでしょうか?
保守派の皆さんはそれらを守り抜くためにそれぞれご尽力されているのかもしれません。
しかし、現状は改善するどころか、日本的なるものはこの日本列島から日々姿を消し続けています。

そういった厳しい現実から保守派の皆さんは必死に目を逸らそうとしているように見えてなりません。
そのために個別の問題に過剰に没頭しているようにしか見えません。

靖国問題もTPP問題も大事かもしれませんが、何のために如何にして日本を護るのかということについて保守派の皆さんは本当に真剣に考えておられるのか?

在特会を「真の保守じゃない」と批判される保守派の皆さんは、
自らの思想の論理の不徹底と現状の惨憺さを覆い隠そうとしているか、あるいはその不甲斐なさを在特会に「投影」しているだけではないのでしょうか?


社会学者の鈴木謙介などは、ネトウヨは愛国という「ネタ」を利用してコミュニケーションをし、承認欲求を満たしているだけだと言っています。
しかし、承認欲求を伴わない社会的活動など存在しないし、人間社会が共同幻想によって成り立っているという意味ではすべては、ネタ的なコミュニケーションなわけですから、これらの批判は批判としてすら成り立っていません。

保守が保守たる所以は、そのネタや承認が歴史と伝統に繋がっているという点にあるのです。
その一点を見失って、一時の愛国的なカーニバルなどに熱狂していても何の意味もありません。


この反伝統的で反慣習的な現代社会の中で、本気で保守という生き方を貫き通すということは実は途轍もなく恐ろしく険しい道のりなのです。

現在の日本の保守派はこの厳しい闘いに本当にはまだ突入していないし、反伝統的で反慣習的な現代社会に本当にはまだ正面からぶつかって闘いを挑んではいないのではないでしょうか?