サイバーシンって何???
何も申しません。とにかくこれをご覧ください。
wikipedia「サイバーシン計画」
サイバーシン計画 (サイバーシンけいかく、Project
Cybersyn) は、サルバドール・アジェンデ政権期間中
のチリで1971年から1973年にかけて行なわれた実時間の
コンピュータ制御による革新的な計画経済システムの試み
である。 これは首都サンティアゴにあるコントロールセンター
の単一のコンピュータとチリ各地の工場とをテレックスで接続し
サイバネティックスに基づく制御を行うことを目指していた。
システムの基本設計はオペレーションズ・リサーチの研究者で
あり当時の経営へのサイバネティックス応用における教祖的存在
でもあったイギリスのスタフォード・ビア (Stafford
Beer) により行なわれた。
つまりですよ。
1970年代に、国家の経済のすべてをコンピュータにより管理するシステムが、遠くチリの地で計画されていたというんです! 国中の生産拠点にコンピュータ(ハードディスク何十メガバイトとかですよ)を設置し、インターネットも無い時代に「テレックス(どんだけ通信速度遅いのかと)」で国中を結びつけ、現代の我々ですら実現しようと思わないような、壮大な計画がなされていたという事です! ほとんどSFですよ!
1970年に、人民連合のリーダーとしてマルクス主義者の
アジェンデが大統領に選出されると、政権はチリ各地の工場や
鉱山など生産手段の国営化を社会主義化の最優先事項として
実行した。政権当初の1970年にはケインズ的景気刺激策など
が試され雇用の拡大と大きな経済成長がみられたが、アメリカの
経済制裁と主要輸出品である銅の価格の下落、国内での労働者
のスト、国有化を望まない企業経営者の反対、さらに新たな国有
企業運営の困難さなどから1971年には経済状況は既に大きな
危機に瀕していた。
このような状況で、チリ経済開発公社(CORFO)の技術部門
の責任者であり当時まだ 20 代であったフェルナンド・
フローレスは、ソ連式の中央集権的な計画経済に代わるもの
として、より見通しがよく柔軟で迅速な経営システムを模索
していた。 学生時代の経験からスタフォード・ビアのサイバネ
ティックスを基とした経営理論に通じていたフローレスとアド
バイザーのラウル・エスペーホ (Raul Espejo) は
1971年に新たなシステムの設計をビアに依頼するとともに
サンティアゴへと招聘した。
こうして運命の男、ビアは南米チリに降り立った。
ビアらにより立案された計画は、南北 4,600km に
及ぶチリの長い国土に散らばる生産設備と通信するために
国土を電子的ネットワークで接続し、日々送られてくるデータを
元にサイバネティックスの理論を用いて生産を調整しようという
野心的なものであった。 やがて英語圏で「サイバーシン」(Cybersyn)
チリで「シンコ」 (Synco, Sinco, Cinco) と呼ばれるようになった
この計画に対してビアが与えた「経済へ電子的な神経システムを
移植する」というアナロジーは、医師でもあったアジェンデ大統領
に対して計画をアピールするのに大きな効果があったようである。
人間の体に神経が走って自在に動くように、国家の国土にもテレックスの神経網が駆け巡り、あたかも走れば自然と心拍が上がり、血糖値が下がれば自然と肝臓から糖分が放出されるように、国家が一人の人間のように動き出そうとしていた。チリの国土を走る道路が巨大な人造人間の血管のように脈動し始めようとしていたわけです!
で、どうなった?
大統領官邸に新しいサイバーシンのオペレーションルームを設置
するための測量が行われた翌日 1973年9月11日、
ピノチェト将軍に率いられた軍事クーデターが発生し官邸は
銃撃戦の舞台となった。 クーデターの成功後、このシステムの
オペレーションルームは直ちに破壊され、現在「社会主義者の
インターネット」とも形容されるこのユートピスト的な試みは
長らく忘れられることとなった。
いと悲し。
皮肉にも本格的な経済運営には大きな成果を上げることはなく、アメリカの支援を受けたストライキに際して、政府に協力的な運輸業者をテレックス装置によって組織し、巧みに運営する事でストライキを失敗させたという実績のみを残したようです。
「オプスルーム」
(サイバーシンの)オペレーションルームであり、ドイツのグイ
ボンジーペ (Gui Bonsiepe) らによりデザインされた。
SF 映画を思わせる近未来的な外観を有しており、 6 角形
の部屋に 7 脚の特殊な回転イスが備え付けられていた。
このイスの肘かけには小さなコンソールがあり、これは壁に備え
付けられた大型スクリーンとパネルとを制御した。 この
スクリーンにはリアルタイムで例外的な事象のレポートが
表示されるようになっていた。
これが恐らく、破壊されたオペレーションルームでしょうね。
まあ、ある意味、小売業のPOSシステムなんかは、これの現代版で、さほど驚く必要は無いのかも知れませんが、かなり面白いはなしだと思います。
wikipedia「サイバーシン計画」
サイバーシン計画 (サイバーシンけいかく、Project
Cybersyn) は、サルバドール・アジェンデ政権期間中
のチリで1971年から1973年にかけて行なわれた実時間の
コンピュータ制御による革新的な計画経済システムの試み
である。 これは首都サンティアゴにあるコントロールセンター
の単一のコンピュータとチリ各地の工場とをテレックスで接続し
サイバネティックスに基づく制御を行うことを目指していた。
システムの基本設計はオペレーションズ・リサーチの研究者で
あり当時の経営へのサイバネティックス応用における教祖的存在
でもあったイギリスのスタフォード・ビア (Stafford
Beer) により行なわれた。
つまりですよ。
1970年代に、国家の経済のすべてをコンピュータにより管理するシステムが、遠くチリの地で計画されていたというんです! 国中の生産拠点にコンピュータ(ハードディスク何十メガバイトとかですよ)を設置し、インターネットも無い時代に「テレックス(どんだけ通信速度遅いのかと)」で国中を結びつけ、現代の我々ですら実現しようと思わないような、壮大な計画がなされていたという事です! ほとんどSFですよ!
1970年に、人民連合のリーダーとしてマルクス主義者の
アジェンデが大統領に選出されると、政権はチリ各地の工場や
鉱山など生産手段の国営化を社会主義化の最優先事項として
実行した。政権当初の1970年にはケインズ的景気刺激策など
が試され雇用の拡大と大きな経済成長がみられたが、アメリカの
経済制裁と主要輸出品である銅の価格の下落、国内での労働者
のスト、国有化を望まない企業経営者の反対、さらに新たな国有
企業運営の困難さなどから1971年には経済状況は既に大きな
危機に瀕していた。
このような状況で、チリ経済開発公社(CORFO)の技術部門
の責任者であり当時まだ 20 代であったフェルナンド・
フローレスは、ソ連式の中央集権的な計画経済に代わるもの
として、より見通しがよく柔軟で迅速な経営システムを模索
していた。 学生時代の経験からスタフォード・ビアのサイバネ
ティックスを基とした経営理論に通じていたフローレスとアド
バイザーのラウル・エスペーホ (Raul Espejo) は
1971年に新たなシステムの設計をビアに依頼するとともに
サンティアゴへと招聘した。
こうして運命の男、ビアは南米チリに降り立った。
ビアらにより立案された計画は、南北 4,600km に
及ぶチリの長い国土に散らばる生産設備と通信するために
国土を電子的ネットワークで接続し、日々送られてくるデータを
元にサイバネティックスの理論を用いて生産を調整しようという
野心的なものであった。 やがて英語圏で「サイバーシン」(Cybersyn)
チリで「シンコ」 (Synco, Sinco, Cinco) と呼ばれるようになった
この計画に対してビアが与えた「経済へ電子的な神経システムを
移植する」というアナロジーは、医師でもあったアジェンデ大統領
に対して計画をアピールするのに大きな効果があったようである。
人間の体に神経が走って自在に動くように、国家の国土にもテレックスの神経網が駆け巡り、あたかも走れば自然と心拍が上がり、血糖値が下がれば自然と肝臓から糖分が放出されるように、国家が一人の人間のように動き出そうとしていた。チリの国土を走る道路が巨大な人造人間の血管のように脈動し始めようとしていたわけです!
で、どうなった?
大統領官邸に新しいサイバーシンのオペレーションルームを設置
するための測量が行われた翌日 1973年9月11日、
ピノチェト将軍に率いられた軍事クーデターが発生し官邸は
銃撃戦の舞台となった。 クーデターの成功後、このシステムの
オペレーションルームは直ちに破壊され、現在「社会主義者の
インターネット」とも形容されるこのユートピスト的な試みは
長らく忘れられることとなった。
いと悲し。
皮肉にも本格的な経済運営には大きな成果を上げることはなく、アメリカの支援を受けたストライキに際して、政府に協力的な運輸業者をテレックス装置によって組織し、巧みに運営する事でストライキを失敗させたという実績のみを残したようです。
「オプスルーム」
(サイバーシンの)オペレーションルームであり、ドイツのグイ
ボンジーペ (Gui Bonsiepe) らによりデザインされた。
SF 映画を思わせる近未来的な外観を有しており、 6 角形
の部屋に 7 脚の特殊な回転イスが備え付けられていた。
このイスの肘かけには小さなコンソールがあり、これは壁に備え
付けられた大型スクリーンとパネルとを制御した。 この
スクリーンにはリアルタイムで例外的な事象のレポートが
表示されるようになっていた。
これが恐らく、破壊されたオペレーションルームでしょうね。
まあ、ある意味、小売業のPOSシステムなんかは、これの現代版で、さほど驚く必要は無いのかも知れませんが、かなり面白いはなしだと思います。