加藤昇海軍中尉の話を聴く会 | 日本を語るブログ

加藤昇海軍中尉の話を聴く会

昨日、2月23日にアパホテル京都駅前で行われた「加藤昇海軍中尉の話を聴く会」に参加してまいりました。


当日配布された資料から、加藤さんの軍歴を紹介いたします(一部私が加筆しています)。

大正11年9月 京都市生まれ
昭和9年4月 京都市立第二商業学校入学
昭和14年4月 立命館大学法学部入学
昭和18年9月 同大学卒業
         海軍飛行予備学生(第13期)合格
         三重海軍航空隊入隊(基礎教程)
昭和19年1月 青島(チンタオ)海軍航空隊入隊(偵察機の練習航空隊)
昭和19年5月 海軍少尉任官
昭和19年7月 第二艦隊(司令官・西村祥治中将)第7戦隊 重巡洋艦「最上」艦載機「零式水上偵察機」搭乗員
昭和19年10月 「最上」乗組員として「レイテ沖海戦のスリガオ海峡海戦」に参戦、同艦沈没。
          駆逐艦「曙」に救助される。同艦乗組員約1200人中約400人救助。
          第六三四海軍航空隊(フィリピン キャビテ)に在籍。
          水上爆撃機「瑞雲」搭乗員として、対艦爆撃に出撃多数
昭和19年12月 第一航空艦隊に転籍。台湾東港飛行場。
昭和20年4月 鹿屋海軍航空隊に転籍。特攻出撃命令を待つ。
昭和20年5月 大井海軍航空隊に転籍。
         予科練生への航法訓練教官に従事。
昭和20年8月 終戦、解隊。元士官として基地残務整理に従事。
昭和21年1月 同基地を離れ、京都に帰郷。


これが海軍中尉・加藤昇さんの軍歴です。特筆すべきは鹿屋航空隊で特攻命令を待つという経験をされたことです。こういう経験をされた方はなかなかいません。


加藤さんは92歳のご高齢にもかかわらず、マイクを使わず、用意されていたいすにも座らず、たったままで1時間ぐらいお話されました。内容は、本当に貴重なお話ばかりでした。
加藤さんが海軍を選んだのは、海軍士官はかっこよくて、女性にモテるからだそうです(笑)私は何人か元海軍の方からお話を伺いましたが、共通して言うのは「海軍士官はかっこいい」なんですよね。海軍士官は当時は憧れの的だったということですね。
加藤さんが海軍少尉に任官され、連合艦隊に配属された頃は、既に戦局は好転の見込みもないほど悪化しており、ちょうど陸軍が陸軍がインパール作戦に敗れた頃でした。当時、既に空母は残っておらず、加藤さんは「空母がありませんが、これで戦争できるのでしょうか?」と艦長に聞いたところ、「言われんでもわかっとる!」という答えが返ってきたそうです。もはや誰もが戦争を続けられる状態ではないと思っていたのでしょう。
加藤さんは、「最上」の乗員としてレイテ沖海戦に参戦されました。当時、「最上」は最新鋭の巡洋艦で、空襲を避けることができたそうです。気がつけば、残ったのは「最上」だけ。甲板はくず鉄の山。そして血の海・・・。
その後、駆逐艦「曙」が救助に来て、「曙」に乗り換えるのですが、下の者から先に乗せて、自分たちは一番後。その時、意識が朦朧としながら、加藤さんの足に掴まり「連れて行ってくれ・・・」と懇願した兵士もいたそうです。ですが、ほとんど助かる見込みはない。その兵士の両親を思うとこみ上げてくるものがあったそうですが、加藤さんはそのまま引き離したそうです。
鹿屋では、加藤さんの同期生が毎日特攻に出撃しました。ちなみに、「愛児への頼り」で知られる植村眞久大尉は、加藤さんの同期生です。
ここで、当日配布された資料から以下を掲載いたします。

海軍航空隊
 特攻戦死者         2498名 
  兵曹長及び兵曹     1715名 68%
  士官             783名 32%

士官特攻戦死(殆ど少尉、中尉)   783
 旧大卒予備士官            658 84%
 海兵卒士官               119 15%
 特務士官                  6

(旧大卒)予備士官 1期~15期
戦死者  2485名
(内13期、加藤同期生 1616名 65%)
特攻戦死者 658名
(内13期、加藤同期生 445名 68%)

これを見て分かるとおり、海軍兵学校卒の士官の特攻数は少ないです。殆どが、予備士官で、しかも大半が加藤さんの同期生でした。ちなみに「特務士官」というのは下から叩き上げの士官のことだそうです。「永遠の0」の宮部久蔵がこれにあたります。
この話の流れで、加藤さんが遺骨収集に触れましたが、私は非常に単純なことに気づきました。
陸軍は陸で戦うので遺骨が残りますが、海軍は海で戦うので、遺体も残らないのです。以前から遺骨収集に関心がありましたが、このことは全く気づきませんでした。
だから、加藤さんたちは「魂魄は故郷へ帰る」という気持ちだったそうです。そして同期生で「碧い海の波間からのつぶやき」という歌を作りました。

「碧い海の波間からのつぶやき」

第13期予備学生 柿木弘作 詞

いま 南の美しい島々で
青春を謳歌している若者たち
あなたが今を 平和で幸せと
感じるなら 純粋だった若者の
青春をいくさに捧げた尊き犠牲に
心のどこかに
あなたの祈りを捧げてほしい

懐かしい故郷に
永遠に帰還出来ない
海底に眠る多くの若者のために
どうぞ忘れないでほしい

皆さん、この歌詞を読んで何を感じますか?
私は・・・上手く言い表すことができません。
最後の
「懐かしい故郷に 永遠に帰還出来ない 海底に眠る多くの若者のために どうぞ忘れないでほしい」という歌詞が特に・・・。


加藤さんは最後、こう述べられました(全く正確ではありません)。

「鉄拳制裁はやはりありました。『軍人精神注入棒』っちゅう棒で尻を叩いたり・・・。今なら警察に捕まります。桜宮高校の体罰問題・・・私らの時代に比べたら全然ですよ。殴ったらむしろ『ありがとうございます!』と敬礼されましたしね。何発か殴られたぐらいで自殺なんて・・・。今は男と女がなんか同じになって・・・女が強くなるのはいいですが、男が弱くなってしまって・・・。昔は『女を先に逃がせ!』って言われてて、『女は子供を産んで、民族は続く』から・・・。やはり教育ですね」

会場にいた中で私は最年少なので、この言葉は非常に身に浸みました。あの時代と今の時代とでは全く違いますが、だからと言って、当時のやり方が間違っていたとは思いません。むしろ今の時代が間違っていると思います。それを正すのが、私たちの役目なんですね。

加藤さんの講演の後は、故・泉水隆一監督の「凛として愛」が上映されました。
その最後、以下の歌詞が表示されます。

あゝあの山もこの川も 
赤い忠義の血がにじむ
故国まで届け暁に
あげる興亜のこの凱歌


この歌は「暁に祈る」という歌の一節で、昭和14年に作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而、唄・伊藤久雄で発売され、大ヒットし、出征兵士を送る際によく歌われたそうです。私を含む数名が、声に出して歌っておりました。

終了後、参加者全員で記念撮影。



この後、懇親会もあったのですが、お金のない私は参加できず・・・(涙)

この素晴らしい会を企画してくださった山中浩市さん。

山中さんは全国の護国神社のガイドブック全国護国神社巡拝ガイドブック~ご朱印めぐりの旅~」という本を書かれております。山中さんは全国の護国神社を巡拝されたそうです。実は凄い方!
http://www.amazon.co.jp/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%B7%A1%E6%8B%9D%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF~%E3%81%94%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%97%85~-%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%B5%A9%E5%B8%82/dp/488469791X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1393208189&sr=8-1&keywords=%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%B5%A9%E5%B8%82

本当に有意義な一日を過ごせました。