大津市いじめ事件は戦後日本の産物 | 日本を語るブログ

大津市いじめ事件は戦後日本の産物

最近、昨年10月に大津市の市立中学校二年生が自殺した問題がいろいろと騒がれています。
このいじめの報道でいつも思うのは被害者の生徒のことや教育委員会や学校の責任ばかり報道し、加害者生徒には一切言及しないことです。
確かに今回の件では学校や教育委員会の責任は計り知れませんし、大津市の越直美市長ももちろん同罪であることは確かです。しかし、未成年ということだけで加害者生徒が許されていいのでしょうか。本来であれば加害者生徒・木村束磨呂、担任・森山進(どちらもネット上の情報ですが、あえてそうさせていただきます)はカメラの前で謝罪し、逮捕され、刑務所に送られるべき人間なのです。それなのになぜ、この二人は許されるのでしょうか。
昨日、自殺した生徒の中学校と大津市教育委員会に滋賀県警の家宅捜索が入りましたが、加害者の生徒の自宅も、家宅捜索すべきです。

さて、今日の題名にもあるとおり、今回のこの大津市いじめ事件は戦後日本が生んだ産物である、と私は考えます。
戦後教育の影響をあまり受けなかった(道徳の面では)人たちの話を聞きますと、確かに自分たちの時代もいじめはあった。しかし「葬式ごっこ」や「自殺の練習」なんてしなかった、させなかったし、人の命まで奪うようなことはしなかった、と言う人がほとんどです。
いじめられて自らの命を絶つようなことが相次いだのはごく最近のこと、即ち「ゆとり世代」が蔓延するようになってからなのです。
戦後教育では家族の存在を否定し、個人こそが大切だと教え、「自由と権利を主張せよ」とばかり教えられ、「義務」「責任」、そして日本人の美徳であった「思いやり」の精神は置き去りにされてしまいました。
その結果、どうなったか。校則違反や授業中に騒いだり携帯をいじったりする者は「しゃべる自由がある」「携帯をいじる権利がある」という訳のわからない言い訳を並べるようになりました。
そして今回は「殴る権利がある」「首を絞める自由がある」というとんでもない考えが滲み出ているような気がします。
「権利は誰にでもある」こういう勘違いが蔓延し、とうとう「エゴ」になり、それでも彼らは気づかない。前にも書きましたが、もはや「子供に人権は無い!」と教えたほうがいいのです。「人権はやたらと主張するとエゴになる」人権教育で大切なことを教えないのなら、いっそこう教えるべきです。
これまで述べたとおり、今回の大津市いじめ事件はこの戦後民主主義体制の基本方針に従って教育を行ってきた結果です。これを直視するべきです。

「教育再生」安倍晋三元総理は在任中、これを目指しました。麻生太郎元総理も同様です。
不謹慎ですが、今回の事件を一中学生の自殺にせず、教訓にし、「教育再生」へと繋げていくことが大事ではないかと思います。

今回、自ら命を絶ってしまった男子生徒のご冥福を心よりお祈り申し上げるとともに、不謹慎ではありますが加害者生徒や担任、教育委員会に天誅が下ることを祈ります。

そして、一刻も早い教育正常化を実現するために、微力ではありますが、頑張っていこうと思います。