杉原千畝の「失われた50年」(小島正憲氏) | 清話会

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杉原千畝の「失われた50年」

小島正憲氏 ((株)小島衣料オーナー ) 


杉原千畝は、6,000人のユダヤ人の命を救った外交官として、世界でもその偉業が讃えられており、それは日本人の誇りとなっている。また杉原千畝は、私と同じ岐阜県人であり、私の誇りでもある。

しかし数年前、彼に関する本を、心躍らせながら読んでいたとき、ふと、「なぜ、杉原千畝の存在そのものが、1947年に外務省を依願退職してから、2000年にその名誉が回復されるまで、50年余に渡って、歴史上から消されてしまっていたのか」という疑問が湧いてきた。

ちょうど昨年末から、映画『杉原千畝』が全国上映されたので、私はその疑問を解くべく、正月休みを利用して映画館に足を運び、さらに「杉原千畝記念館」(岐阜県加茂郡八百津町)を見学してみた。しかし残念ながら、映画を見ても記念館を見学しても、その疑問は解明されなかった。近い将来、歴史学者などの手で、この問題の解明がなされ、映画「杉原千畝」の続編ができ、「杉原千畝記念館」の展示の補完が為されることを期待している。


                                               
    《 杉原千畝記念館 》 
 
杉原千畝の偉業などについては、私がここで、あらためて紹介するまでもないが、以下に簡単に触れておく。

杉原千畝は1900年1月1日、岐阜県加茂郡八百津町の地に生まれ、早稲田大学高等師範部英語科に進んだ。しかし学費が続かなかったため、外務省の官費留学生として、ハルピン学院のロシア語科で学ぶことにした。その後、猛勉強をして、ロシア語の他に、英語はもちろんドイツ語、フランス語、中国語も自由に操るようになった。卒業後、その能力を買われ、やがて満州国の対露外交部科長に任ぜられ、北満鉄道の売買交渉で大きな成果を上げる。しかしそのとき、軍人との感情的衝突もあり、それ以上の出世を望まなかった杉原は帰国してしまう。  
   《 杉原千畝の胸像 》

その後1939年、小国リトアニアへの赴任を命ぜられる。そこで、隣国ポーランドより、ナチスの手から逃れてきた多くのユダヤ人と会い、彼らの命がけの求めに応じ、彼らに日本の通過ビザを発給した。それは本国の外務省や参謀本部の訓命に反するものであったが、杉原は「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、独断でビザを出し続けた。

1か月余り続けられたその行為が、2,139家族分=6,000人余のユダヤ人の命を救うことになったのである。その後、杉原は、チェコやドイツの勤務に就くが終戦となり、1945年、ルーマニアで捕虜収容所生活を送ることとなった。

1947年帰国。その後、外務省を依願退職(強要されたという説が濃厚)し、1960年から、商社の駐在員として、念願のモスクワに赴任。1968年、モスクワにおいて、杉原が発給したビザで命を救われたユダヤ人の二シュリ氏と再会。1969年にイスラエル政府から勲章を受け、1985年、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。翌年、神奈川の自宅で死去、享年86歳。

1991年10月、鈴木宗男外務政務次官(当時)が杉原夫人に謝罪。2000年10月10日、河野洋平外務大臣(当時)が杉原の行為を高く評価し、それまでの外務省の非礼を公式に詫びた。これにより杉原千畝の死後における名誉回復がなされた。

映画『杉原千畝』は、戦後、ニシュリ氏が外務省を訪ね、命の恩人の杉原の消息を尋ねるシーンから始まる。そこで応対した外務省の役人は、「杉原千畝という人間は、過去においても現在も、外務省には存在していません」と完全にシラを切る。しかし映画の中盤では、戦前の外務省の様子が描かれ、当の本人が杉原の上司として堂々と登場する。つまりこの映画の脚本家は、これらの描写で外務省の不実な態度をえぐり出そうとしたのだろう。

しかし映画の終盤では、ルーマニアでの杉原の姿から、一足飛びにモスクワでのニシュリ氏との劇的再会まで進んでしまっており、依願退職の真相やニシュリ氏をすげなく追い返した事情については、なにも描かれていない。いや、諸般の事情から、描けなかったというべきかもしれないが。残念ながら映画を見ても、杉原の「失われた50年」については謎のままである。

「杉原千畝記念館」には、杉原の生い立ちから、「命のビザ」発給までの過程が、パネルでわかりやすく解説してある。もちろん「命のビザ」の現物のコピーやイスラエル政府からの勲章も展示してある。なによりも私が感動したのは、ユダヤ人たちからの厖大な感謝の手紙の展示である。

さらに、それらの展示とは少し離れて、「決断の部屋」がしつらえてあり、そこでは杉原の紹介影像を見ることができるし、肉声を聴くことができる。その部屋には、「あなたも決断してください」と題したパネルがあり、そのあとに「“ビザを出してもいいですか”。日本の外務省へあてた電報の返ってくる答えは“正規の手続きが出来ない者に、ビザを出してはいけない”というものでした。ビザを発給しユダヤ人の命を救うべきか、命令に従って外交官の輝かしい道を守るべきか。千畝は悩み、そして一つの答えを出したのでした。あなたはここでどんな決断をしますか」という文字が書き込まれており、見学者に当時の杉原の心境を深く感じさせるようになっている。

私もこの部屋で、杉原の肉声を聴きながら、「自分ならどうしただろうか」などと考えてみた。しかしその部屋を出ると、次の主な展示はニシュリ氏との対面の場面になっており、ここでも「失われた50年」の顛末については、まったく展示されておらず、かろうじて最後のパネルに、鈴木宗男氏や河野洋平氏による名誉回復のくだりが掲示してあるのみだった。

私は記念館からの帰路、私なりに杉原の「失われた50年」の謎解きに挑戦してみた。以下に、その推理結果を書いておく。

かつて私たちは、戦後の米軍の占領下で、戦前の社会体制が一新され、戦犯追放などによって戦前に権力を握っていた人たちは一掃されたと教えられてきた。つまり戦前に軍国主義に協力した人たちは末端の人に至るまで、その責任を追及され、職を解かれたと理解してきた。逆に戦後は、戦前の体制に反対した人たちの天下になったと思っていた。ところが杉原の場合は訓命に反したあの気高い行為がまったく評価されず、しかも依願退職を迫られ、その後50年間に渡って、その痕跡を消されてしまったのである。なぜこのような歴史に逆行するようなことが起きたのであろうか。

野口悠紀雄氏は、その著書『戦後経済史』(東洋経済新報社刊)において、「GHQは、日本経済についてはほとんどなにも知らなかった。日本のテクノクラートたちが占領軍の権威を利用して、改革を実現させた。農地改革も日本の官僚が立案して実行した政策であり、日本独特の企業別労働組合も、戦時体制下で準備されたものだった。戦後の復興期において最も重要だったのは、割当方式による資金の重点配分だった。市場を通じる価格メカニズムによる資金配分ではなく、政策的見地からの資金配分が行われたために、生産力が回復し、高度成長の準備がなされた。こうした過程を支えたのは、戦時期に作られた総力戦のための経済システムである1940年体制だった」と主張し、それを「1940年体制史観」と名付けている。

つまり野口氏は、戦前の日本のテクノクラート(官僚)がそのまま横滑りし、その権力を巧妙に維持温存し、戦後の社会体制やその後の高度成長の基礎を築いたと、主張しているのである。

まさに外務省においても、野口氏の言う通り、まったく同じ現象が起きていたと考えられる。戦前のテクノクラートが責任を取らずそのまま居残り、自己保身のため、本来高く評価されるべき杉原を邪魔物扱いし、その痕跡を消し、同時に自ら犯した不都合な行為を消し去ってしまったのである。これが杉原の「失われた50年」の真相だったのではないかと、私は考える。

また白石仁章氏は、その著書『戦争と諜報外交 杉原千畝たちの時代』(角川選書)の中で、同様のことを違う角度から、「戦前期の日本外交には、杉原のような優れたインテリジェンス・オフィサーを育てる土壌が存在したことは間違いない。しかしインテリジェンス・オフィサーが貴重な情報をもたらしても、その情報を活かせる体制が整っていなければ、貴重な情報が死んでしまい、最悪な事態に陥る。日本国民を戦争へ突き進む道から救おうとした杉原による必死の努力を無にしたのは、戦前期における日本の政治体制が抱えていた構造的欠陥に起因するといえよう」と書いている。戦前の日本の政治体制が構造的欠陥を抱えていたにもかかわらず、戦後もその体制や悪しき人材が維持温存されたことが、杉原の被害を増幅させ、長引かせたのである。

もちろん革命的転換期には、社会全般にわたって、決定的にスペシャリストが不足してくる。したがって旧体制のスペシャリスト=官僚=テクノクラートがそのまま横すべりし、新体制を支えることもあり得る。明治維新期でも旧幕臣の登用があったし、戦後の日本政治の立役者である吉田茂首相は戦前の外務官僚であった。革命期には、旧体制の人材とどこかで折り合いを付け、ひとまず新体制の基礎を築き、やがて完全に旧体制と訣別するという過程が必要なのは理解できないわけではない。しかし杉原の「失われた50年」は、余りにも長い。

今、ミャンマーは軍政から、民主政への革命的転換期の真っ只中にある。軍政によって長く大学が閉鎖されていたことなどもあって、この国でも決定的に行政のスペシャリストが不足している。スー・チー氏は、如何にしてこの難局を乗り切るのであろうか。
         


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清話会  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )

1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。