ありがと、大竹部長! | 逍遥録 -衒学城奇譚-

ありがと、大竹部長!

観たらハラがたつので、普段はあんま観ない「たけしのTVタックル」、今週はぽかんと時間が空いたので、後半だけちょいと観ました。

教育問題のコトですが、こ-ゆー問題がココロに響いたコトない。

いつだって、何やら納得のいかない想いをさせられて終わるのが常だったんですが、本日も議員の枡添(このヒト、嫌いじゃないんだけどね)やら、(アタマのネジの外れた)評論家三宅やら、それから後は教育再生会議のメムバやら元文化省の役人やら……「あぁ、どーせまた消化不良のまま、メディア内で議論したっつーアリバイ作りの実績が、いっちょ増えて終わりだね」とか思ってましたが、やはりそう。

現場の教師が出て、問題点をあげて、誰が悪いのかって騒いだり、現在までの公教育のあり方を批判して、やたらめったら「変えろ、変えろ!」って叫ぶばかりで、議論は噛み合わない。

ホントに議員や評論家自己宣伝の場でしかない番組ですねぇ。

あえてボクの意見を云うならば、ゆとり教育は悪いモノではない。

方向性としては決して間違っちゃいないと思います。

間違ったのは運用の仕方であって、何か問題があったら、方向性すべてが間違っているって極端に考えて、無茶な方向転換してしまうから、結局その狭いレィルに乗っかれないモノは振り落とされてしまう。

ゆとり教育を批判するモノは、声高に叫びます。

「子どものころ、詰めこみ教育をして何が悪い!」「ソレが必要だ!○○を知らないなんておかしい!」

ソレに対して、

「そんな考え方が、かつての受験戦争と云う弊害を生み出した!」

って主張するヒトもいる。

ま、ボクとしては、一概にどっちが正しいとか間違っているとかは云えません。

なぜなら、その両極端にみえる方向性には、それぞれメリット、デメリットがあって、判断する者によって、まったく評価が違ってくるからです。

あぁ、まぁたしかにどっちの云い分も、わからんコトはない。

ただ、はいはい、アンタらは偉いですよってな気分にさせられるだけです。

結局、そーゆー議論は、どうしてもボクのココロには響かない。悪りぃけど。

んで、最後。

教育再生会議のメムバが、学校を子どもが自由に選択できる制度(バウチャー制度っつったかな?)が必要だと云って、討論になった後、大竹まことが「悪い学校に入ったヤツらは、そんなレッテルを貼られてしまうじゃないか?」って云ったんですね。「社会に出る前にすでにそんなレッテル貼られて、子どもがどう思うか!」ってなコト。

その芸能人である大竹の意見に、評論家も議員も学者も教育の専門家も、誰も何も云えなかったんですよ。

そこではっと気がついた。

何かこのヒトたちの議論がおかしく感じたのは、このヒトたちは公教育によって“優秀な人間を創りあげる”コトを教育の目標にしてるんじゃないだろうかって?

ボクは公教育なんてモノは、社会生活で必要な知識や常識、社会ルゥルを学ぶモンだと思ってたんですよ。

だから公平性と選択肢の多様化が大切だと思ってたんですが、このヒトたちは違うんだ。

“優秀な人間を創りあげる”ために、それ以外の劣等なモノは、振り落とされてもやむをえないって思ってんじゃないだろうかって?

つまり子どものコトなんざ、たいして考えちゃいないんじゃないかな?

だからあんな「詰めこみは必要だ!」なんて云ってるけど、そりゃ評論家や大学の先生みたいにアタマのよいヒトなら可能かもしれない。ボクみたいな劣等生は、ンなコト云われたって、ムリなもんはムリだってぇの。

でも先生方は、できて当たり前って思ってる。

だからできない方が悪くって、そんなヤツらにお金や時間をかけるのはムダだって思ってるんだ。

つまり結局、あーゆーヒトたちは、自分を基準に世の中を考えてるんだね。

そうか、そうか……

ま、アンタら、子どもたちを教育しようなんて無謀なコトは思わん方がいいよ。

「何で子どもたちは、自分の計算どおりに勉強しないんだッ!できないんだッ!」って喚き散らして、ノイロォゼになるのがオチ。

学者や評論家や議員って、たいそうお偉いのかもしれないけど、ボクはアンタらから何か得ようなんて、あんまり考えないな。たいして価値なさそうだし。

芸能人の方が、世の中のコトは、案外的確に見ているモノかもしれないね。

うわ~何かスッキリしたよ。

ありがと、大竹部長!