「自我と防衛」、A・フロイト(7) | 精神分析学講座 (nakamoto-masatoshi.com)

「自我と防衛」、A・フロイト(7)


   Ⅹ.愛他主義

 Ⅸ章においては、健全な超自我が形成されるまでに経過しなけれなならない葛藤が問題とされてきたのに対し、本章では、そのような強い葛藤なしに、表面的に道徳的な愛他主義が形成される過程が取り上げられる。ここで問題となるのは、同じような機制、同一視と投影が組み合わせられても、まったく違った現象が生じるということである。だから特定の機制と特定の行動や症状が因果関係にあるというのではなく(それを明らかにしようということではなく)、特定の防衛機制を必要とさせる心理的事態を、考慮しなければならない。

投影

 投影の働きは、抑圧のそれと良く似た性質がある。危険な衝動の興奮を意識するとき、その危険を自我とは無関係なものにするのが投影である。抑圧においては、問題となる観念表象がエスの中に押し込められるが、投影においては外界に移し変えられる。

 イギリス学派の精神分析学者によると、まだ抑圧の生じていない生後数ヶ月の頃に、幼児はすでに最初の攻撃的興奮を外界に投影する。いずれにしても、乳幼児期には、自他の区別がハッキリしていないから、投影が利用されることに不思議はない。その結果、自分自身と他人(自分の代理者、自分を投影した人物)を区別することになり、その代理者に過酷な判断を下す。

愛他的譲渡~投影と同一視

 投影により、自分の嫉妬や攻撃を他人のせいにすれば、人間関係は損なわれるだろう。しかしもっとましな結果になることもある。自他の人間関係を積極的に結び付け、強固にするような場合がある。それほど顕著ではないが、このように害の少ない投影は、自分の衝動興奮を愛他的に譲渡したものであるといってよい。例としては、「シラノ・ド・ベルジュラック」がある。シラノ,クリスチアン,ロクサーヌの物語の中で、クリスチアンはシラノの作った詩や手紙を使ってロクサーヌの愛を勝ち得る。主人公・シラノと、物語の作者ロスタンの運命には、共通点がある。モリエールやスウィフトといった詩人たちは、ロスタンの知られていない著作から引用して名声を高めたのである。

 自分に禁じられている衝動興奮を他人に投影する、譲り渡す→自分の代理となって衝動を満足させてくれる人物との間には距離を作らず、その代理人と自分を同一視し、自分自身とその代理者との間に強い結びつきを感じる→代理者の願望に対しては寛容を示し、自分のそれには極刑の判決を為す→代理者の満足の分け前をもらって自分の願望を満足させることができる、云々の過程は投影と同一視によって可能となる。

 この機制には、愛他的な意味と、利己的な意味が、色んな程度で混じり合っている。他人の衝動を満足させようと努力している点だけから考えれば愛他的であるが、その代理者が投影している自分の願望を満足させてくれそうになくなると、強引となり、利己的な面が露呈する。

 この防衛機制は、2つの面で目的に適っている。一つは、他人の願望に対して寛容な態度を持つことができるようになり、さらに超自我から禁止されている自分自身の衝動を間接的に満足させることができる。また、同時に人間の願望を満足させるために必要な攻撃性を解放することもできる。

 こうした防衛の過程は、ある種の願望衝動を満足させるために、両親の権威と闘っていた幼児期に由来するものである。例えば、母親に対する攻撃は、自分自身の願望衝動を満足させようとするものであるなら禁止される。しかし、誰か他人の願望を満足させようとしているかのように見えるなら許される。最も知られているこの種の典型的な人物は慈善家である。その種の人は、非常な攻撃性を持ち、ある群の人々からお金を集め、他の人々に与える。もっとも極端な例は、被圧迫者の名のもとに圧迫者を攻撃する場合である。解放された攻撃性が集中されるのは、決まって幼児期に衝動の満足を断念させた権威者の代理である。

愛他主義と死の不安

 最後に異なった観点から、愛他主義を検討する。すなわち“死の不安”の観点から。自分の衝動を、いつも他人に投影して譲り渡している人は、死の不安を体験しないで済む。

第4編.衝動の強さにもとづく不安の防衛 ―思春期を例として―

XI.思春期における自我とエス

XⅡ.思春期における衝動の不安