「自我同一性」 E・H・エリクソン(1) | 精神分析学講座 (nakamoto-masatoshi.com)

「自我同一性」 E・H・エリクソン(1)

自我同一性


 Identity and the Life Cycle :EH・Ericson 1959 )

第Ⅰ部.自我発達と歴史変動

第1章.集団同一性と自我同一性

Ⅰフロイトの集団心理に関する研究(「集団心理学と自我の分析:1921」)は、人間達の集まり multitude についての精神分析的論議に大きな影響を及した。フロイトはその心理学的考察に当たって、ル・ボンの「大衆」の概念を引用している。しかし、社会学的な観察と、精神分析的な方法によって確証された資料との間には隔たりがある。つまり後者は、二人きりの治療状況の中の、転移/逆転移の現象から再構成された個人史であるからである。方法上のギャップは、「家族内-個人(あるいは、あたかも外界に対する家族状況の投影によって取り囲まれている個人)」と、「大衆内-個人」との漠然とした人工的な区別を存続させることとなった。その結果、「社会」の概念もその現象も、そしてそれらが個人の自我に与える影響も、見過ごされることとなった。

 そもそも自我ego)の概念は、二つの対立者、生物学的概念であるエス( EsId)と、社会学的な大衆Mass)についての定義を用いて記述されている。そこでは、自我は、その個人が自らの経験を組織付け理論的な計画を立てる中枢であり、原始的な本能の無秩序さと集団精神の無法さの双方からの危険にさらされていた。フロイトは自己の内なるエスと、自分を取り囲む群衆との間に、恐れおののく自我をおいたと言える。そしてフロイトは、群衆の中の個人の不確かな道徳性を説明するために、自我の内部に自我理想 ego Ideal もしくは超自我 Super ego を設定した。

 こうした初期の概念モデルは、精神分析における実践や検討の目標を設定し続けてきたが、研究の焦点は、発生的な問題genetic problemに移行し始めた。今や我々の研究は、組織化された社会生活の中での幼児の自我の起源の問題に向かっている。その中では、社会組織が子どもに何を否定するかを強調する代わりに、むしろ、社会組織がどうやって幼児の生存を保証し、特有なやり方でその欲求を管理し、その社会固有の生活様式の中に幼児を取り込むのか、そのために社会組織は幼児に何を容認するのか、を明らかにしたい。エディプスの三位一体説の代わりに、社会組織が家族構造をどう規定するのかを追求したい。

Ⅱ.

 フロイトは、性が誕生と共に始まることを明らかにした。同時にそれは、社会生活が、各個人の出生と同時に始まるという事実についても、それを証明する視点を提供したこととなった。そうした視点を、研究家達は、原始社会の研究に適用した。原始社会では、子どもの躾が、境界のハッキリした経済システムと社会的標準型social prototypeの中に統合されているからである。そうした躾は、その集団同一性group identity = その集団が経験を組織づける基本的なやり方)を、まず乳児の身体的経験に伝達し、さらにその経験を通して自我の萌芽に伝達する方法である。

Ⅲ.

 成長途上の子どもは、経験に対処する彼独自のやり方(自分自身による自我統合)が、自分の属する特定の集団同一性の一成功例であるという自覚を通して、そしてまた、その集団同一性の空間・時間と自分の人生設計が互いに一致しあっているという自覚を通して、生き生きとした現実感を獲得しなければならない。

 ※発達による達成と社会との共存

 例えば、直立歩行が可能になった子どもは、歩くという行為を繰り返し達成しようという衝動に駆り立てられるだけの存在ではない。身体の支配と、文化的な意味とが一致し、機能(身体を働かすこと、この場合は歩くこと)の喜びと社会的な承認とが一致する経験を通して、より一層現実的な自己評価を高める数多くの子どもの発達段階の一つである。この自己評価は、幼児的な万能感の自己愛的確認ではない。それは、自我が、特定の社会的現実の枠組みの中に“定義されている自我”へと発達しつつあるという確信である。

 私(エリクソン)は、この感覚を、自我同一性と呼びたい。自我同一性とは、時間的な自己同一( self-sameness)と、連続性continuity)の直接的な知覚と、他者がそれを認知しているという事実の同時的知覚である。

Ⅳ.

 フロイトが、当時の物理的エネルギーの概念を心理学に応用したのは大きな一歩であった。その結果生まれた、結果、本能エネルギーの転移,置き換え,変形などについての理論は、物理学におけるエネルギー恒存の原理からの類推によるものであった。しかしその理論立てだけでは、観察データを検討するのに十分ではなくなってきた。

 自我の概念は、それを補わなければならない。社会的なイメージと、身体の力の結び付きを探求しなければならない。この二つの結び付きは、ただちに互いに関連し合っているという以上に、エトスethos と自我の、すなわち、集団同一性と自我同一性の、相互的な満たし合いが、より大きな共通の潜在力を、自我の統合と社会組織双方に提供することを意味している。

 ※社会の重視、身体(性,労働,遊び…)の重視、その相互承認の重視

 任務や仕事に従事している人や成長途上の子ども、その時その場所で、自分のとっている役割と自分とを一体に感じている全ての人々の間で維持されているのは、フロイトの記述した中間段階に類似した何かである。我々は、その、何か、を自分の患者達が自我の総合機能を回復させる際にも獲得させたいと願っている。

 ※“中間領域”…これも「集団心理学と自我の分析:1921 ~ⅩⅠ.自我の一段階」から。ここでフロイトは、「出生→外界の知覚→対象の発見→睡眠」という幼児のサイクルについて述べている。また、「祭りによる周期的なタブーの打破」と「躁的な昂揚」を論じ、躁とうつの自然発生的な気分の変動について述べている。その中間ってことか?エリクソンは、人間は漠然とした不安を伴う抑うつから、フロイトのいう、一定の中間段階、を経てより良い状態へと向かい、そして再びまた元に戻るという気分変動のサイクルの中に、恒常的な葛藤を、ささいな情緒や観念の変化を通して露わにするという。そしてそのかすかな徴候を探し求める。中間段階とは、自我とエス,超自我の間に一時的な休戦が成立しているとでも定義できるような状態なのか?フロイトの思索を辿りながらも、エリクソンもハッキリとは言明できないようである。