湯女の魂 | 不思議なことはあったほうがいい

  「ゆ」……ねえなあ。「行き逢い神」?ちょっと幅が広すぎるなあ。「百合若」?時期尚早かな。「指きり」?資料がねえなあ。しょうがねえ、とうとう聖域からタイトル頂戴しよう……


 我が48聖人・泉鏡花の短編小説「湯女の魂」は、お気に入りの作品の一つなり。明治三十三年(1900年)五月の作品。

 ネタバレ注意(^O^)


 北陸を旅した主人公・小宮山は、山へと分け入った小川温泉の柏屋にあえて宿泊する。それは親友の篠田が贔屓にしている「お雪」といういい湯女の存在を聞いていたからで、どうやら二人はいい仲でもあるらしい。ひやかしに顔を拝んでやれと思ったのだ。ところが、柏屋についてみるとかんじんのお雪はこのところ「ぶらぶら病」で寝込んでいるという。柏屋のお鉄さん曰く、

 「まあ、申せば、何か生霊が取着いたとか、が見込んだとかいうのでございましょう。何でも悩み方が変なのでございますよ。その証拠には毎晩同じ時刻に魘(うな)されましてね……病人は薬より何より、ただ一晩おちおち心持好く寐て、どうせ助らないものを、せめてそれを思い出にして死にたいと」。

 おまけに近所では毎晩のように「百万遍」の念仏をとなえる家があって柏屋一同困り果てている。

 そこで一晩、小宮山はお雪を傍に寝かして看病することになった。

 お雪は「下に浴衣、上へ繻子の襟の掛った、縞物の、白粉垢に冷たそうなのを襲ねて、寝衣のままの姿であります、幅狭の巻附帯、髪は櫛巻にしておりますが、さまで結ばれても見えませぬのは、客の前へ出るというので櫛の歯に女の優しい心を籠めたものでありましょう。年紀の頃は十九か二十歳、色は透通る程白く、鼻筋の通りました、窶れても下脹な、見るからに風の障るさえ痛々しい、葛の葉 のうらみがちなるその風情」、鏡花の得意とする衣装描写の細かいこと!

 お雪は、小宮山に胸のうちを明かす。

 ようするにもともとは篠田に対する恋わずらいでショボンとしていたわけなのだが、彼女を毎夜苦しめいているのは実はそれではない……

 「久しくそんなに致しております内、ちょうどこの十日ばかり前の真夜中の事でございます。寐られません目をぱちぱちして、瞶めておりました壁の表へ、絵に描いたように、茫然(ぼんやり)、可恐しく脊の高い、お神さんの姿が顕れまして、私が夢かと思って、熟と瞶めております中、跫音もせず壁から抜け出して、枕頭へ立ちましたが、面長で険のある、鼻の高い、凄いほど好い年増なんでございますよ。それが貴方、着物も顔も手足も、稲光を浴びたように、蒼然(まっさお)で判然と見えました。……ちゃんと私の名を存じておりまして、(お雪や、お前、あんまり可哀そうだから、私がその病気を復(なお)して上げる、一所においで。)……、いつの間にやら私の体は、あの壁を抜けて戸外(おもて)へ出まして、見覚のある裏山の方へ、冷たい草原の上を、貴方、跣足ですたすた参るんでございます……」

 見たこともない小さな小屋へつれられて、そこでオカミサンから世にも恐ろしい責めを受ける。うまくダイジェストできますかどうか。

「お神さんがね、貴方、ざくりと釘を掴みまして、(この釘は丑の時参が、猿丸の杉に打込んだので、呪の念が錆附いているだろう、よくお見。これはね大工が家を造る時に、誤って守宮(やもり)の胴の中へ打込んだものじゃ、それから難破した船の古釘、ここにあるのは女の抜髪、蜥蜴の尾の切れた、ぴちぴち動いてるのを見なくちゃ可けない。…お雪、お前の体に使うのだ、これでその病気を復してやる。)…お神さんは落着き払って、何か身繕をしましたが、呪文のようなことを唱えて、その釘だの縄だのを、ばらばらと私の体へ投附けますじゃありませんか…お神さんは、棚の上からまた一つの赤い色の罎を出して、口を取ってまた呪文を唱えますとね、黒い煙が立登って、むらむらとそれが、あの土間の隅へ寛がります、とその中へ、おどろのような髪を乱して、目の血走った、鼻の尖った、痩ッこけた女が、俯向けなりになって、ぬっくり顕れたのでございますよ。(お雪や、これは嫉妬で狂死をした怨念だ。これをここへ呼び出したのも外じゃない、お前を復してやるその用に使うのだ。)…突然(いきなり)袖を捲って、その怨念の胸の処へ手を当てて、ずうと突込んだ、思いますと、がばと口が開いて、拳が中へ。……そのまま真白な肋骨を一筋、ぽきりと折って抜取りましてね。(どうだ、手前が嫉妬で死んだ時の苦しみは、何とこのくらいのものだったかい。)と怨念に向いまして、お神さんがそう云いますと、あの、その怨霊がね、貴方、上下の歯を食い緊って、(ううむ、ううむ。)と二つばかり、合点々々を致したのでございますよ。
(可し。)とお神さんが申しますと、怨念はまたさっきのような幅の広い煙となって、それが段々罎の口へ入ってしまいました。…」

 その悪夢が毎晩毎晩繰り返される。それは熱のせいだよ、自分の知り合いにもそういう経験の話があるよと小宮山は慰めて、やがてお雪は安心して寝息をたてる。

 夜中に便所に起きた小宮山だが…「廊下の一方、今小宮山が行った反対の隅の方で、柱が三つばかり見えて、それに一つ一つ掛けてあります薄暗い洋燈(ランプ)の間を縫って、ひらひらと目に遮った、不思議な影がありました。それが天井の一尺ばかり下を見え隠れに飛びますから、小宮山は驚いて、入り掛けた座敷の障子を開けもやらず、はてな、人魂(ひとだま)にしては色が黒いと、思いまする間も置かせず、飛ぶものは風を煽(あお)って、小宮山が座敷の障子へ、ばたりと留った。これは、これは、全くおいでなすったか知らんと、屹と見まする、黒い人魂に羽が生えて、耳が出来た、明かに認めましたのは、ちょいと鳶くらいはあろうという、大きな蝙蝠であります」、これこそ噂に聞く妖怪「飛縁魔」か!と思ううち、お雪はコウモリに引っ張られるように、狭い戸の間をスーと抜けて裏山へゆらゆら・ひらひら飛んでゆく。南無三宝!追いかける小宮山「おうい、おうい、お雪さん、お雪さん、お雪さん」、折から周囲には百万遍念仏の「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…」が怪しく響く。

 件の小屋へと突入しバシと襖を開けはするが、そこにも部屋。バシンバシン、開けても開けても部屋ばかり(「野衾 」)…!。「騒々しいじゃないかね」と登場したのが「鼻の尖った、目の鋭い、可恐しく丈の高い、蒼い色の衣服を着た。凄い年増。一目見ても見紛う処はない、お雪が話したそれなんで。」小宮山はすっかり戦意喪失。

 「「雪や、苦しいか…今夜は酷い目に逢わしやしないから、心配をする事はないんだよ。これまで手を変え、品を変え、色々にしてみたが、どうしてもお前は思い切らない、何思い切れないのだな、それならそれで可いようにして上げようから。…お客様(小宮山のこと)、お前は性悪だよ、この子がそれがためにこの通りの苦労をしている、篠田と云う人と懇意なのじゃないか、それだのにさ、道中荷が重くなると思って、託(ことづけ)も聞こうとはせず、知らん顔をして聞いていたろう。…その換り少しばかり、重い荷を背負わして上げるから、大事にして東京まで持って行きなさい」。」

「それから女は身に纏った、その一重の衣を脱ぎ捨てまして、一糸も掛けざる裸体になりました。…女はまた一つの青い色の罎を取出しましたから、これから怨念が顕れるのだと恐を懐くと、かねて聞いたとは様子が違い、これは掌へ三滴ばかり仙女香を使う塩梅に、両の掌でぴたぴたと揉んで、肩から腕へ塗り附け、胸から腹へ塗り下げ、襟耳の裏、やがては太股、脹脛、足の爪先まで、隈なく塗り廻しますると、真直に立上りましたのでありまする。……そう致して、的面(まとも)に台に向いまして、ちちんぷいぷい、御代の御宝と言ったのだか何だか解りませぬが、口に怪しい呪文を唱えて、ばさりばさりと双の腕を、左右へ真直に伸したのを上下に動かしました。体がぶるぶるッと顫えたと見るが早いか、掻消すごとく裸身の女は消えて、一羽の大蝙蝠となりましてございまする。
 例のごとくふわふわと両三度土間の隅々を縫いましたが、いきなり俯けになっているお雪の顔へ、顔を押当て、翼でその細い項を抱いて、仰向けに嘴でお雪の口を圧えまして、すう、すうと息を吸うのでありまする。…二度三度、五度六度、やや有って息を吸取ったと見えましたが、お雪の体は死んだもののようになってはたと横様に仆れてしまいました。喫驚仰天はこれのみならず、蝙蝠がすッと来て小宮山の懐へ、ふわりと入りましたので、再びあッと云って飛び上ると同時に、心付きましたのは、旧の柏屋の座敷に寝ていたのでありまする。」

 ‥ぐったり寝ているお雪を残し、小宮山は急ぎ汽車に乗り、後ろから車屋さんに「おい姉さん」なんて声を懸けられるなどぞっとして、東京本郷の篠田の家へ。土砂降りの中、声も懸けないのに篠田が家の外へと出迎える。

 「君が連れて来て一足先へ入ったお雪が、今までここに居たのに、どこへ行ったろう。」
 ‥後日、小川温泉より、お雪が亡くなったとの報せが届く。


……引用長すぎだが、削れるわけなし、口調が大事なぜなら、これ怪談だから。

小宮山の体験談を、作者じしんが口演しているという風情で、これは当時流行の怪談会という器に入った入籠物語でもあるということ。鏡花も当然怪談会の常連であった(じっさいこの「湯女の魂」も同門の眉山の家で鏡花が実際に語った話をもととしているという)。


 タイトルの「湯女(ゆな)」というのは江戸時代には、銭湯でお客の垢すりをしたりマッサージをしたり、終わると座敷でいっぱいやりながら三味線弾いたり小唄を歌ったり、おまけに○○○なサービスもしてくれるという、本来はトルコ風呂の三助が、今で言うソープランド嬢みたいなことをしていた、そういう存在で、幕府によってたびたび禁止をされていた。吉原以外での性遊はご法度だが、ようするにいろいろ隠れて私娼窟のようなところはあった。今でもサラリーマンが出張にいくとき奥さんが「一泊なのになんで換パンツ2枚ももつのよ」なんてギャグにもされるが、おそらく旅先の田舎旅館なんかでもそういうところもあったであろう。作中でも小宮山は柏屋を尋ねた茶店のおやじに「へへへ、好い婦人が居りますぜ」なんていやらしく笑いかけられているのであった。その柏屋では「お背中を流しましょう」といって浴場へ入ってきた女があったが(お喜代かお美津か?)、お雪が部屋へ来ると決まったときわざわざ「しかし姐さん、別々にするのだろうね…何その、お床の儀だ」なんて訊いているから、一緒に寝るとなると、そういうことになるのが、前提になっていたのだろうかな。

 (まったく日本列島反対側を舞台としてしかも大正時代だが、川端康成の『伊豆の踊子』、どうしても吉永小百合がどうした山口百恵がどうしたと目がいってしまうが、石川さゆりとか後藤久美子とか保田圭とかの演じた役柄(おきみちゃん?)って、そういうカンレンありますよねえ)

 

 それは、まあ、どうでもいい。


 今回、アッと思ったのは、怪談には旅先の宿にまつわるものがけっこうあるんだなあ、ということの再認識であった。

 道に迷ってどうしようと途方にくれて、あれうれしや明かりが見える、人のよさそうなばあさんがいて、一晩休ませてもらうことに…すると夜中にキーコキーコと包丁を研ぐ音と障子越しの影…ギャー! 人食い鬼婆ダー! そのままストレートに話が運ぶ場合もあれば、「はんごろしにしてやろう」系ギャグ落ちがあったり、鬼婆が殺した相手は娘だったとかバリエーション豊富な山奥の宿怪談(まあ宿屋ではないが)。

 泊まった宿屋におかしな霊が住み着いている話は枚挙に暇がない。よくあるのが旅行添乗員とかバスの運転手が、お客とは別の「特別室」に泊まることになって、誰かいるような気配を感じたり、ドンドンドンと戸を叩くので出たらだれもいない、突然シャワーや洗面所がジャーとなったり、7階とか8階なのに、窓の外に人がいた! とか。

 旅行というのは、普段とは違うところを見て歩くという楽しみがある反面、なれない道、不安、肉体的疲れというものが、宿についたら一気にでてきて、見知らぬ寺院や碑になにやらあやしげないわれがあるとどきどきして(珍しい・不思議なイワレ話があっても、現地の人には別に珍しいことではない普通のことだ)、身体の疲れと精神のコーフンがアンバランスな状態になりやすい。そんなときの、睡眠にかかわる時間帯に怪奇現象は起こる。


 人間の脳派にはおおまかに4つの種類があって、そのうちフツーにしているときに「β派」、目を閉じて安静にしているときに「α派」、疲れてダラーフニャーとしているときに「θ派」、完全に寝ているときは「δ派」という。あとになるほど脳波の振幅はゆるくなり、波の数は増えてゆく。睡眠というのは一定ではなく、深い眠り(ノンレム睡眠=δ派の時)と浅い眠り(レム睡眠=θ派の時)の繰り返しがおこなわれるのであるが、「夢」を見るのはノンレム時よりも脳の働いているレム睡眠時、このとき「意識」は感じていても身体は<眠っている>状態なので、それでもθ派のダラフニャ状態、すなわち記憶と現在意識とがまぜこぜになっている状態、ヘンナ夢をみて起きよう・動こうとしても動けない=金縛りとなる。無理に動くと寝違えたりつったりして、霊障ではないかと不安になる。

 余談だが、禅を極めた人になると、半眼のままα派を出すことができるという(通常、目を開けたコーフン状態でα派が出ていると痴呆症や鬱を疑われるという)。さらに修行をつむと、起きながらにしてθ派がでるという。禅の境地を長い修行抜きで簡単に経験しようとして、LSDとか大麻に手を出すというブームがヒッピー文化の時代、60年代ごろのアメリカにあったそうだが、そこで得られる恍惚とはすなわち、脳波がグチャグチャになっているということになるわけだ。

 修行や薬を用いずとも、ムチャや無理をすれば人間の脳波をグチャグチャにすることは出来るということであるが、これを科学的にどうこういわれても、経験した人間には通用しない。だって、光の中に入っていいったんだもの、世界がグチャグチャとしたんだもの、奇妙なオカミサンが釘投げつけてコウモリになって口から生気を吸い取ったんだもん!!

 

 時、場所、人の状態(肉体的・精神的・経験的・思想的……)、それぞれの絶妙のタイミングが怪談を生むのである。


 ‥…それはお雪と小宮山の経験の話。

……ところで本郷界隈での「憑いてきた魂」の話はどう説明する?? 『雨月物語』「菊花の契り」をもちだすまでなく、そういう話も多い。現代では「タクシー幽霊」にありがち。だからまたそのとき…… 

「飛んだ長くなりまして、御退屈様、済みませんでございました、失礼。」