「織田信長は、何故、石山本願寺を攻め続けたのか…?」 | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。



【信長はなぜ石山本願寺を攻め続けたのか…?】




◾【石山本願寺の謎】



信長は1570年~80年の11年間、
各地の一向宗と血みどろの戦いを
繰り広げた。

この一向宗の本山が
大坂の石山にあったので
石山本願寺 戦争と呼ばれた。

この戦いには2つの謎がある。
なぜ、
信長はあれほど石山本願寺に
こだわったのか?

なぜ、
あれほど戦いが長期に泥沼化したか?
である。

信長の石山本願寺へのこだわりは
尋常ではない。

この理由に関しても諸説ある。
即ち、信長は一向宗の財力に目をつけた。
信長は自分が神になりたかった。
一向宗は各地で大名を支えていた……
等々の説である。

しかし、信長はあやふやな因習、伝統、
宗教などを嫌い、
当時としては珍しいほど
合理的な思考をする人間であった。

石山本願寺へのこだわりが
このようなものであったら、
この戦いはあまりにも不合理である。

石山本願寺は独自の領土を所有しては
いなかった。

領土を持たない宗派を根絶やしにしても
領土はいっさい増えない。

これは一向宗 討伐を命ぜられた
武将にとってはたまらない。

戦国の世で一番大切だった
領土という戦利品がなければ、
戦いは単なる殺生になってしまう。

いくら絶対君主の信長といえども、
不毛な殺生を武将たちに
続行させられるわけがない。

武将たちも
信長についていくわけがない。

そこには何か、
重大な理由が存在していたはずである。

戦いが11年も長引いたのも不思議だ。
相手は所詮、
僧侶と老若男女の民衆の集団である。

戦いの専門集団・信長軍団の敵ではない。


「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」を
唱える
一向宗信徒が捨て身だったとはいえ、
信長軍は敗退の連続であった。

なぜ、
信長はこの戦いにこだわったのか?

なぜ、
この戦いがこれほど長引いたのか?

その答えは地形に隠されている。





◾【絶対の上町台地】



信長は一向宗にこだわったのではない。
「石山」という土地にこだわったのだ。

石山とは大阪市中央区の上町台地を指す。

縄文時代この上町台地は
大阪湾の海に突出した半島であった。

戦国時代の海面は既に下がっていたが、
満潮には海流が淀川・大和川の奥まで
逆流し、
雨が降れば一面水浸しの湿地帯であった。

浪速、難波は名前のとおり
海の波にさらされていて、
大坂の河内もまさに「河の内」であった。

当時の大坂、摂津地方で
唯一この石山の上町台地だけが
乾いた高台であった。

更に当時の物流を担っていたのは
船運であった。

その船の行き交う要所が
この上町台地であった。

この上町台地は
淀川の河口に位置していて、
京都の朝廷を牽制できた。

更に此所は貿易港・堺への通過点であり、
西国大名を討伐する最前線基地でもあった。



「石山」、つまり上町台地は
戦国の世を平定するため
絶対的に重要な地であった。

信長はこの土地を何が何でも
手に入れたかった。

信長の武将たちも
この上町台地の重要性を
十分知っていたからこそ、
11年間も辛い戦いを継続できたのだ。

戦国の天下を制するのが上町台地であり、
信長の石山本願寺戦争は
この地を得るためのものであった。

この事を痛いほど知っていた
西国大名がいた。

安芸の毛利輝元であった。
毛利は村上水軍と手を結び
一向宗の側に立った。

村上水軍は中世、
戦国時代を通して瀬戸内海を制覇した
一族である。

室町時代には幕府から
海上警固の特権を得ていたほどである。

村上水軍は
中国東海岸、台湾、南アジアまで
進出し、
海外の情報と技術と物資の輸入を
握っていた。

島の多い瀬戸内海で神出鬼没する
不敗の軍団であり、
動く関所でもあり、海賊でもあった。

この村上水軍を味方につけた毛利水軍は
大坂湾の制海権を握り、
上町台地の石山本願寺へ物資を補給した。

そのため石山本願寺への
攻撃ルートで残されていたのは、
上町台地の南端の天王寺囗だけであった。

本願寺側はその狭い天王寺口を
固めるだけでよく、
僧侶や民衆の力でも容易に防御できた。

信長がこの本願寺を攻めあぐね、
戦いが11年も長引いたのは
この為であった。

石山本願寺戦争の謎は、
全て上町台地の地形にあった。





◾【世界海戦史上初の戦術】

石山戦争勃発から6年目の1576年、
浅井、朝倉、武田氏を破った余勢で
信長は毛利水軍に戦いを挑んだ。

信長水軍は長篠ノ戦いで大成功した
鉄砲の三段撃ちで臨んだ。

しかし、
長篠ノ戦いで通用した鉄砲三段撃ちは
毛利水軍には通じなかった。

毛利水軍の戦艦はひるまず
織田水軍に接近し、
焙烙(ホウロク)と呼ばれる
火薬を詰めた焼夷弾や火矢で
信長水軍を次々と焼き払った。



信長は生涯何回も戦いで負けている。
しかし、これほど完膚無きまで負けた
戦いはなかった。

「信長 敗れる」の報は、
一旦、治まりかけた戦国の世を
再び動揺させた。

信長は身をもって
毛利水軍、村上水軍の強さと恐ろしさを
知った。

信長の強さ、天才性はここから始まる。
信長は自分の弱さを知ると変身していく。

無敵艦隊の毛利水軍を破るには
どうするか、
信長は考え抜く。

そして、
誰も考えた事のない
戦術を編み出していった。

それは鉄製巨艦の製造であった。
長さ12間(約22m)、幅7間(約13m)の巨船を
鉄板で覆ってしまったのだ。



前の敗戦から2年後の1578年、
鉄で囲まれた艦隊7隻が
伊勢を出港した。

信長水軍は再び大坂湾で
毛利水軍と激突した。

この鉄製艦隊は焙烙、火矢攻撃に
ビクともせず
毛利水軍を圧倒し、
毛利水軍はちりぢりに
瀬戸内海へ逃げ去った。

海上からの補給路を断たれた
石山本願寺は、
朝廷による和解斡旋を受け入れざるを
得なかった。

信長の和解条件は「石山をよこせ」であり、
本願寺はこの条件を受け入れ
この地を信長へ明け渡した。

大坂、上町台地は信長のものとなり、
いよいよ天下布武が目前に迫った4年後、
信長は戦国の舞台から去ってしまった。

上町台地の後日談は語るまでもない。

豊臣秀吉は山崎ノ戦いで
明智光秀を破り、
翌年に柴田勝家を討ち破ると、
直ちにこの地に大坂城を築造した。

信長執念の石山の地は
秀吉が引き継いでいった。

信長の傍らで仕えていた秀吉は、
信長がこだわった上町台地の地形の
重要性を知り尽くしていたのだ。

そして今度は、
上町台地に建った大坂城は
大坂ノ陣で落城するまでの約30年間、
徳川家康を苦しめていく事になった。