らーめん一番 | 死んでも言わない、誰も知らない、私のこと

らーめん一番

小さいときに食べた、本当に酷い味のラーメン。それでも母のどの料理よりも美味しかったのを覚えている。

母がいつも仕事で帰りが遅かった。私や兄が幼稚園や学校から帰る午後~夕方はいつも決まって家政婦さんがいた。そのおばさんが自分の本当の家に諸々の準備をしに帰る頃、入れ替わりにシッターの大学生が来た。母が直々に近所の大学の学生課に掛け合って「家庭教師」の名目で呼び集め、自ら面接をしてふるいにかけた「精鋭」だったらしいのだが、私たちは一度も勉強をしたことがなかった。
最初は吉岡静流さんという絵の上手なお姉さんが月曜日と水曜日だけやって来た。そのうち母が「ギャラを増やすからもう1日お願いできないか」と頼んだので、静流さんと私は週3日遊べることになった。その後イラストレーターとなった静流さんは、私とは専ら「りぼん」やら「なかよし」やらの模写に親しみ、兄からはスラムダンクを借りていた。

そのうち母は「あともう1日」と頼み込んだ。例によって法外な額の昇給を就労学生の鼻先にちらつかせた。しかし静流さんはそれを断った。表向きは「掛け持ちしている蕎麦屋のバイトが抜けられないから」と言っていたが、付き合いきれないというのが本音だったのだろう。母の帰りは11時を過ぎることも稀ではなかった。静流さんは責任感が強く、「子どもだけにはしておけない」と、あすなろ白書やら何やらの月9ドラマに夢中になる私たちのそばにいつだって一緒にいてくれた。

自分が1日増やせないかわりに、と静流さんはサークルの友達の森田奈々さんを紹介してくれた。静流お姉ちゃんとは全く違うタイプで、アクティブな人だった。私のドッジボール大会に向けての特訓にも付き合ってくれたし、少年野球チームのピッチャーだった兄とはキャッチボールをした。私たちは彼女を「森田さん」と呼んだ。下の名前で呼ばなかったのは、ボーイッシュさ故と「ナナおネェちゃん」というナ行の並びに幼い私が対応出来なかったためであろう。とにかく、私たちは森田さんともすぐに仲良くなり、彼女のシフトもすぐに増えた。

母は羽振りだけは良かった。帰宅と同時に彼女らにギャラを手渡すのだが、「こんなに頂けません!」という攻防をよく耳にした。封筒に入れる暇もないときに財布から直接出していたのは2~3枚程度だったが、5時間という数字と労働内容、そして千円札の類が1枚も混ざっていないことを考えると、水商売並みの支給であるのは明白だった。

それぞれのお姉さんと、兄と私との夕食は専ら出前か外食だった。出前は食器を返す必要のないピザが圧倒的に多く、ジャンケンで様々な役割を決めた。勝った人はメニューを選ぶ権利を得て、負けた人は電話をする義務を負い、その真ん中の人は物が届くまで何もせずに悠々自適に過ごせば良かった。
私は兄の勝利を防ぐことを徹底した。何かこだわりがあるのか馬鹿の一つ覚えなのかは知らないが、いつも決まってベーコンビッツポテトを注文するので、いい加減私はうんざりしていたのだ。
お姉ちゃんたちはそこまで飽きてもいないようで(私より兄といる時間が少ない分、宅配ピザは勿論、ベーコンビッツポテトにも慣れ親しんでいないのは当然と言えば当然である)、兄の連敗が長引く中、自分が第一勝者になると気を遣ってベーコンビッツポテトを注文するのだが、私はそこまで出来た人間ではなかった。
兄のジャンケンの癖を見抜くため、毎回の手の出し方を繰り返し観察し、遂にある結論に達した。
彼は最初に必ずチョキを出す。そしてグーを出すことを知らない。つまり私は初めにグーを出し、その後チョキを出し続ければ永遠に兄に負けることはなく、彼にメニューの決定権が渡ることもないのだ。電話云々は大した手間ではないので、大学生がグーで勝つのを見届けると、私は兄に第二勝者の座を譲ってやった。兄はスネると何かと面倒くさい、ちょっと気難しい子供だった。

天気がいいときや見たいテレビがない曜日、そして何よりチーズとトマトはしばらくいいやという気になると、私たちは外食するため夜道を少し歩いた。一番近かったのは、マンションの前の公園の角を左に曲がり、駅の方に少し進んだところにある白いラーメン屋だった。白いというのは壁と屋根の色のことで、日中前を通るとペンキがところどころ剥げているのが分かるのだが、夜目遠目では気にならなかった。白が闇に映え、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
この件についてヘンゼルとグレーテルと議論したことはないが、深い森の中にお菓子の家を見るのはあんな感じじゃないかと思う。少し怪しげで美しい店に灯りがぼうっとついているのが目にはいると、何だかわくわくしたものだった。
味は事実怪しかった。しかしスーパーの市販品と比べても遜色のない味だったので、ヘンゼルで取った特製スープでないことは明らかだった。婆さんが料理をしているのもグレーテルの話と一緒だったが、他に怪しい点をあげるとすれば、ラーメンのメニューよりも漫画や本が充実していて、「本当は怖いグリム童話」も置いてあったという程度で、それ以上でもそれ以下でもない。
怪しいというよりも寧ろいい加減な店だった、という方が正確かもしれない。24時間のうちの殆ど時間が準備中で、1週間の殆どの曜日が臨時休業だった。一階の店舗の上には住居があり、どら息子が毎日違う女を連れ込んでいた。派手な女たちは店の隣の駐車場に止めた赤いフェラーリから降りてきて、黄色いランボルギーニに乗ってどこかに消える。車からはいつも大音量の音楽が聞こえた。
国道16号線をこれ見よがしに爆走する彼らを私たちはよく噂した。田舎で粋がってるなんて悪口めいたことをも言った。しかしそれは、よい子でいることにのみ価値を付される幼稚園児と小学生がもつアウトローへささやかなの憧れであり、真っ当な社会人までの残り少ない時間を惜しむ大学生の擬似逃避であったのかもしれない。

母の不在は天国だった。私たちは好きなだけテレビを見ることが出来た。森田お姉ちゃんは大ファンだったチェッカーズの解散を私たちと見ていたミュージックステーションで知り、人目をはばからずに号泣した。おそらくあのラーメンは罪の味だ。そして罪深いものは常に甘美な味がする。

しかし享楽は永くは続かない。暴君の帰宅とともに優しいシッターは給料を手に去り、私たちはまた圧制のもとにまた恐れおののくことになったのだ。