昨日、カミさんは勤務先に「退職願」を提出しました。
「願」とは言っても年明けで65歳になるので、勤務先の規定では「自動的に退職」という扱いになるワケですが、定年であろうと依願であろうと労働者が退職の意向を表明し、雇用者がそれを受理したと明確な形として残すには有効な行為だと思います。
退職期日は今年の12月15日。誕生日の一ヶ月と数日前ですが、そこには社会保険的な色々があるワケで、それらが諸々カミさんに有利になるようにと考えてのことです。
カミさんは高校を卒業してから地元医師会立の准看護学校に入って2年間学び、准看護師(当時は「師」ではなく「婦」でした)の検定試験(国家試験ではありません。都道府県知事の認定試験です)に合格して「准看護師」資格を獲得。引き続いて当時は知多半島の半田市にあった高等看護専門学校で3年学び、その後国家試験を経て「看護師(俗にいう正看護師)」となりました。
ここまでの5年間は言わば勤労学生の立場であり、特に初めの2年間は医療資格を何も持たない助手さん(便宜上「看護助手」と呼ぶことが多い)でしかなかったわけですが、それでも妊娠と出産・育児にかかわった2年ほどを除くと、18歳から今日までずっと医療の現場に立ち続けた人です。
カミさんが看護助手時代から高等看護専門学校を卒業(+約1年間)するまで勤務したのは、その頃私も在籍していた整形外科病院。個人病院ですが、当時その地域で整形外科単科の看板を掲げ、救急指定・労災指定にもなっており、ほぼ毎日のように救急車がやって来る病院でしたし、小児の先天性股関節脱臼の治療では高い評価を得られていた院長には、市民病院からも紹介があるほどでした。
それなりにヘビーな整形外科診療に携わりつつも、当時の看護基準では高等看護専門学校卒の看護師の存在が必須ではなかった私立の整形外科病院でしたから、私との結婚を契機にお世話になったその病院を辞し、私と移り住んだ県内でも大きな街で厚生連の病院に職を得、カミさんの看護師としての天性と努力で看護スキルは着実にアップしていきます。
3年後に長女を得るに際して厚生連を退職。休職中に現住所へ引っ越すことになり、幸いにもすぐ当市内№2の病院に職は得られましたが、「もう少し高いレベルの看護をしたい」ということで隣市にあるトヨタ自動車系の病院の門を叩いたところ、これまたすんなりと採用して頂けました。
この施設では今まで培ってきたスキルを評価して頂けると同時に、これまで少し関わりの薄かった第三次救急医療現場にも入ることで、カミさんの看護師としての能力はさらに磨きがかかりました。
元々本人は「外科系が好きだ」と言っていましたが、第三次救急に携わるうちに「外科というより救急全般が好き」となり、どんなに忙しくても救急や外科系に忙殺されるなら「楽しい」とまで言ってのける力量を付けるようになっていました。
そこでの勤務が続くうち、ある時期から存在は分かっていた婦人科系疾患が少しずつ悪化していき手術の運びに。高卒後から夜勤も厭わず看護業務に邁進し過ぎていたためか、術後の経過が芳しくなく長く痛みなどに悩まされ、残念ながらこの病院も辞することになりました。
退職後も体調がスッキリすることはなく、「それでも看護はしたい、収入も得ないと」と仕事を辞める気はなく、以後は開業をメインに「多少の夜勤はやります」というスタンスで幾つかの病医院を転々とした時期もありました。
2003年に私がバイクで転倒して右上腕にかなり重い骨折をし、3ヶ月ほど入院したものの右肩の運動機能は殆ど失われたままで、それはつまり私の放射線技師としての業務が遂行できない状態であり、勤続することにも無理が出てしまいました。
それは結構な挫折感であり、かつて自身が「理由の如何に関わらず、業務に間に合わない者は去れ」と言っていた対象に自分がなってしまったので、その職に留まることはできませんでした。もちろんスタッフたちは慰留してくれましたが、現場作業が何一つできず、ただ出勤して帰るだけで飛び回っている若い技師より高い給料が出てしまう。これを潔しとはできませんでした。
それなりの失意で自宅に籠っている中、急速に認知症が進行し出した母親との軋轢も増加。兄より近くに住まいしているからと介護に関わるわけですが、子供の頃から何かと折り合いの良くなかった母親との関わりは私のメンタルを更に痛めつけたようで、カミさんから「もうちょっと無理があるよ」、兄からも「あとはオレがやるから」と母から遠ざけてもらいつつも、暫くはパニック障害と強い抑うつ傾向との付き合いが続くことになりました(これらは母の死をもって全て解放されました。肉親の死でやっと…というのは悲しいことではありますが)。
「これでもう夫が収入を得ることは不可能になった」と判断したカミさんは、その頃には日勤のみの開業医に勤務していましたが、縁あって現在勤務している病院に勤められることに。夜勤は平均して月に7回強、通勤にも片道1時間を要するため負担は小さくありませんが、私がダメになった分まで稼ぐためにと、この10数年勤めてくれた次第です。
そんなふうに、思春期から今日までの人生をほぼ看護に費やしてきた人です。それだけに空いた時間をやりくりしてバイクの免許を取り、特に山登りではどのガイドからも「文句なしのエキスパート」と認めて頂けるまでにもなっています。
退職すれば時間は売るほどの余裕ができますが、反面収入は公的年金と夫婦ともに保険会社にかけておいた個人年金(受給期限はどれも10年間)だけになります。できた時間分思い切り山登りに行っておいでとはならないのがもどかしいですね。
18歳から47年間。本当にご苦労だったと思います。特にこの10何年。私が早々と現役からリタイヤしてしまうなんてことはカミさんの生涯設計図にはなかったはずですし、その後の我が家の経済をカミさん一人の肩に背負わせてしまったことは、私としても痛恨ではありますが、特殊な職能はいわゆる「潰しが利かない」代表のようなものでスポット的な収入しか得られず、カミさんをして「父さんに家事に専念してもらって私は楽してますよ。父さんは私が食べさせてあげますから」と、無理に仕事を探すことから放免してくれました。
働き詰めだったカミさんにも数ヶ月ほどで暇ができます。お互い暇すぎてボケないように刺激し合っていかないといけないですね。