SEABAT 深々度潜航中

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既に現場を離れた診療放射線技師

11月26日にカミさんがお遍路に出かけてから一週間が経ちます。総予定は12月17日までの三週間。まだ行程の2/3が残っています。

「お遍路に行きたい」と言い出したのは彼女が還暦の前後だったように記憶してますが、何故かは聞いていません。

当然何かしら思うところがあるからに他ならないとは思いますが、それにはカミさんの幼少からの経験もあるからかも知れません。

 

カミさんは小学5年生になった頃にお母さんをリウマチとその合併症で亡くしており、いよいよ思春期というナイーブな時期を父親と兄という男性陣のみに囲まれて成長したわけです。そこここで「お母さんがいてくれたら」と思う場面は多々あっただろうと思います。そうしたお母さんへの思慕か、時期を選ばず実家を訪れるたびに必ずお母さんの墓前には赴きます。

 

 

高校を出る頃には一旦は保育士を目指そうとした時期もあったと言いますが、やはり病で早くに亡くなったお母さんのことが影響したのか、いつしか自然と看護師の道を選んでいたそうです。

 

いつも身贔屓に過ぎるかな?と思うような書き方をしますが、その生い立ち故にか懸命に努力し、看護師としての技量と知識は私が夫という身内の贔屓は差し引いても称賛して良いレベルにあると思っています。
が、有能且つ志向が故に配属は外科系が多く、特に20代後半から30代にかけて救急部門に回ることも多く、救急という部門ではその性格上、命の灯が消えてゆく患者さんを多く見送ってきた人です。

 

その後も昨年65歳の定年を迎えることになった名古屋市内の病院でもやはり多数のお見送りは続いたわけで、お母さんの死を始めとして数多の命の終焉を見送り、そうした日々が自身の老いも感じ始めた還暦の頃になって「手を合わせて祈りたい」と思うようになった切っ掛けなのかも知れないと考えています。

 

 

あと二週間ほど巡礼は続く予定です。八十八ヶ所の全てを三週間では回れないと思いますから、また来年も残りの巡礼に出かけるのでしょう。
ただ、左膝を傷めて本格的登山こそずっと見合わせてはいますが(「中止した」とは一言も言ってないw)、歩く分には完全に復調しているので、その健脚を発揮して三週間で全山踏破しかねないとも・・・思うなぁ。。


想いは貴女の内に秘めておけばいいけど、とにかく無事に帰っていらっしゃいと念じています。

 

 

昨日、カミさんは勤務先に「退職願」を提出しました。

 

「願」とは言っても年明けで65歳になるので、勤務先の規定では「自動的に退職」という扱いになるワケですが、定年であろうと依願であろうと労働者が退職の意向を表明し、雇用者がそれを受理したと明確な形として残すには有効な行為だと思います。

 

退職期日は今年の12月15日。誕生日の一ヶ月と数日前ですが、そこには社会保険的な色々があるワケで、それらが諸々カミさんに有利になるようにと考えてのことです。

 

 

カミさんは高校を卒業してから地元医師会立の准看護学校に入って2年間学び、准看護師(当時は「師」ではなく「婦」でした)の検定試験(国家試験ではありません。都道府県知事の認定試験です)に合格して「准看護師」資格を獲得。引き続いて当時は知多半島の半田市にあった高等看護専門学校で3年学び、その後国家試験を経て「看護師(俗にいう正看護師)」となりました。

 

ここまでの5年間は言わば勤労学生の立場であり、特に初めの2年間は医療資格を何も持たない助手さん(便宜上「看護助手」と呼ぶことが多い)でしかなかったわけですが、それでも妊娠と出産・育児にかかわった2年ほどを除くと、18歳から今日までずっと医療の現場に立ち続けた人です。

 

 

カミさんが看護助手時代から高等看護専門学校を卒業(+約1年間)するまで勤務したのは、その頃私も在籍していた整形外科病院。個人病院ですが、当時その地域で整形外科単科の看板を掲げ、救急指定・労災指定にもなっており、ほぼ毎日のように救急車がやって来る病院でしたし、小児の先天性股関節脱臼の治療では高い評価を得られていた院長には、市民病院からも紹介があるほどでした。

 

それなりにヘビーな整形外科診療に携わりつつも、当時の看護基準では高等看護専門学校卒の看護師の存在が必須ではなかった私立の整形外科病院でしたから、私との結婚を契機にお世話になったその病院を辞し、私と移り住んだ県内でも大きな街で厚生連の病院に職を得、カミさんの看護師としての天性と努力で看護スキルは着実にアップしていきます。

3年後に長女を得るに際して厚生連を退職。休職中に現住所へ引っ越すことになり、幸いにもすぐ当市内№2の病院に職は得られましたが、「もう少し高いレベルの看護をしたい」ということで隣市にあるトヨタ自動車系の病院の門を叩いたところ、これまたすんなりと採用して頂けました。

 

この施設では今まで培ってきたスキルを評価して頂けると同時に、これまで少し関わりの薄かった第三次救急医療現場にも入ることで、カミさんの看護師としての能力はさらに磨きがかかりました。

 

元々本人は「外科系が好きだ」と言っていましたが、第三次救急に携わるうちに「外科というより救急全般が好き」となり、どんなに忙しくても救急や外科系に忙殺されるなら「楽しい」とまで言ってのける力量を付けるようになっていました。

 

 

そこでの勤務が続くうち、ある時期から存在は分かっていた婦人科系疾患が少しずつ悪化していき手術の運びに。高卒後から夜勤も厭わず看護業務に邁進し過ぎていたためか、術後の経過が芳しくなく長く痛みなどに悩まされ、残念ながらこの病院も辞することになりました。

 

退職後も体調がスッキリすることはなく、「それでも看護はしたい、収入も得ないと」と仕事を辞める気はなく、以後は開業をメインに「多少の夜勤はやります」というスタンスで幾つかの病医院を転々とした時期もありました。

 

 

2003年に私がバイクで転倒して右上腕にかなり重い骨折をし、3ヶ月ほど入院したものの右肩の運動機能は殆ど失われたままで、それはつまり私の放射線技師としての業務が遂行できない状態であり、勤続することにも無理が出てしまいました。

 

それは結構な挫折感であり、かつて自身が「理由の如何に関わらず、業務に間に合わない者は去れ」と言っていた対象に自分がなってしまったので、その職に留まることはできませんでした。もちろんスタッフたちは慰留してくれましたが、現場作業が何一つできず、ただ出勤して帰るだけで飛び回っている若い技師より高い給料が出てしまう。これを潔しとはできませんでした。

 

 

 

それなりの失意で自宅に籠っている中、急速に認知症が進行し出した母親との軋轢も増加。兄より近くに住まいしているからと介護に関わるわけですが、子供の頃から何かと折り合いの良くなかった母親との関わりは私のメンタルを更に痛めつけたようで、カミさんから「もうちょっと無理があるよ」、兄からも「あとはオレがやるから」と母から遠ざけてもらいつつも、暫くはパニック障害と強い抑うつ傾向との付き合いが続くことになりました(これらは母の死をもって全て解放されました。肉親の死でやっと…というのは悲しいことではありますが)。

 

「これでもう夫が収入を得ることは不可能になった」と判断したカミさんは、その頃には日勤のみの開業医に勤務していましたが、縁あって現在勤務している病院に勤められることに。夜勤は平均して月に7回強、通勤にも片道1時間を要するため負担は小さくありませんが、私がダメになった分まで稼ぐためにと、この10数年勤めてくれた次第です。

 

 

そんなふうに、思春期から今日までの人生をほぼ看護に費やしてきた人です。それだけに空いた時間をやりくりしてバイクの免許を取り、特に山登りではどのガイドからも「文句なしのエキスパート」と認めて頂けるまでにもなっています。

 

退職すれば時間は売るほどの余裕ができますが、反面収入は公的年金と夫婦ともに保険会社にかけておいた個人年金(受給期限はどれも10年間)だけになります。できた時間分思い切り山登りに行っておいでとはならないのがもどかしいですね。

 

 

18歳から47年間。本当にご苦労だったと思います。特にこの10何年。私が早々と現役からリタイヤしてしまうなんてことはカミさんの生涯設計図にはなかったはずですし、その後の我が家の経済をカミさん一人の肩に背負わせてしまったことは、私としても痛恨ではありますが、特殊な職能はいわゆる「潰しが利かない」代表のようなものでスポット的な収入しか得られず、カミさんをして「父さんに家事に専念してもらって私は楽してますよ。父さんは私が食べさせてあげますから」と、無理に仕事を探すことから放免してくれました。

 

働き詰めだったカミさんにも数ヶ月ほどで暇ができます。お互い暇すぎてボケないように刺激し合っていかないといけないですね。

 

 

さて、ルビー婚式とは結婚何年目のことでしょーか?

なんと40年ですよ、40ねんっ!。

 

1981年12月12日の12時という、半ば悪乗りのような12揃いで婚姻届けを提出。

それ以来の40年ねぇ・・・

良く持ったなぁ。もうひとえにカミさんの努力と忍耐のおかげです。

なんたって亭主がこのワタシなんですからねぇ。

 

 

実際この40年間には山あり谷あり、嵐のような時期もありました。

でもカミさんがよろずのことに寛容で、強い嵐が吹いたとしてもそれをしなやかにかわしつつ、でも折れたり切れたりしない強くて穏やかなメンタルで日々接してくれること。これに救われない者はいないですよ。

「嫌な顔をしない」とはまさにこの人のためにある言葉です。

 

金ピカ婚式にはまた10年の歳月がかかります。その頃には私も77歳ですから、今ですら脚の具合が・・・と言っているくらいなので、果たしてその日を揃って迎えられるかは分かりませんが、可能であるならカミさんと「今日で半世紀だよ」と言いたいですね。

 

 

ルビー婚式だからと言って特別なことはしませんし、カミさん自身は今日も夜勤で住まいには私一人です。
いつもと変わらない様子で淡々と時間は流れていきます。

 

唯一今年の12月がスペシャルだとしたら、クリスマス直前に東京二泊の旅行に出ることでしょう。

若い頃からずっと言っていた「ステーションホテルに宿を取り、丸の内から皇居へと行ってみたい」を、やっと実現できそうです。

 

 

そろそろ老い先の見えてきた夫婦です。お互いに、今後も生あるうちは宜しくお願い致します m(_ _)m

 

 

何かといえば、調子の悪くなってきたラッセルホブズのガラストースターの後釜として購入した『山善 スリム ポップアップトースター ブラック GUD-R130(B) 』という製品。

 

先回の報告でも焼きムラが出ると書きましたが、実は結構ひどいんですよね。初期の当たりが取れれば改善するかも、と思って期待してたんですが、今朝あたりは「何だよこれ・・・」と溜め息の出るレベル。

 

せっかくの新品、それで朝一番から不愉快な気分にさせられるというのも、ねぇ。

 

 

密林サンの返品期限が11月2日まででしたので、少し使ったからいくら掃除してもパンくずは取り切れないけれど、返品を受け付ける商品というのですからお返しすることにしました。

 

で、いま改めて鎮座しているのは最古参のElectrolux by TOSHIBAのトースター。あまりに古く使い込んでいたものなので製品型番や製造年ラベルが落ちちゃって、いつから我が家にいるのか不明なほど。もしカミさんと所帯持った時に買ったんだとしたら39年!!。

 

まぁそこまで古いはずもないですが、試しのカラ焼きをしてみたら、ヒーター線はほぼ均等に赤くなってました。今どきの工業技術ならブランドの差なんてそう大きくないと思ってましたがやはり違うのか、はたまた数十年前の製品がとても丁寧に作られていたということなのか。ニューカマーのふがいなさに、ちょっとガッカリしています。

 

 

明日の午後、黒いネコさんが受け取りに来てくれます。

 

 

 

なぜか訪問者の多い投稿 ↓

長く使ってきた「ラッセルホブズのガラストースター」ですが、パンを焼くためにガチャンコと押し下げるセットレバーが固定できないことが多発するようになり、そろそろ年貢の納め時だと判断しました。焼きムラも目立つようになってましたしね。

 

 

で、次に用意したのは『山善 スリム ポップアップトースター 80秒高速トースター acorde 6段階焼色調節 2枚焼き 4~8枚切り 冷凍パン対応 投入口用カバー付き ブラック GUD-R130(B) 』と、長~い名前の付いたトースター。『密林』サンで4000円少々でした。

1300ワットのヒーターを搭載していて、標準的な焼き加減なら実質90秒(表示は80秒と書いてるけど)ほどという振れ込みです。

 

ラッセルホブズが何ワットだったか覚えてませんが、今まではラッセルホブズと電気ケトルを同時に使ってもブレーカーが跳ねることはありませんでした。

 

が、今回はこれ単体で1300ワット・・・ちょっと他の電気製品を同時に使うのはまずいかも知れませんね。キッチン周りとは別系統に繋げばいいんでしょうけど、それだと利便性が落ちるし。。

 

 

で、山善というと、我が家では廉価な扇風機はこれだった時期が長かったんですが、いつの間にか入れ替わってまして、「ちょっとご無沙汰だったわね」な感じがします。

山善サンには失礼でしょうけど(当時は)廉価な扇風機しか知らなかったので、この製品を見て「年月重ねて進化したなぁ」などと偉そうに思っています。

 

まだ使用回数はほんの数回。この程度で良否を言って良いのかどうかですが、極端ではないものの両面で少し焼け具合に差は出ます。価格から見ればまぁそのくらい、なのかな?
ラッセルホブズの使用中も、ピンチヒッター要員として残しておいたElectrolux by TOSHIBAのトースターもありますから、イザとなれば交代選手は控えてるんですけどね。

 

山善のトースターが到着する前に試したらちゃんとしっかり機能してくれてましたから、カミさんには「じゃ新しいの要らないじゃん」と呆れられましたが、ま、新し物好きなトーチャンなのでねww

 

 

というワケで、ラッセルホブズのガラストースターは第一線から引退させました。

処分しちゃうかどうかはまだ決めてません。但しもう出番はないと思うのに、手元に置いておくのもね。

 

近いうちに粗大ゴミを市の施設に持ち込む予定があるので、その際に引導を渡すことになるのでしょう。

 

9年半ほど。お疲れ様でした。

 

 

ちょうど1年前。
コロナによる緊急事態宣言の発出に絡んで、カミさんの登山についての方針を考えていた時の書き込みでした。

 

丸一年過ぎ、今も所によっては緊急事態のさなかにありつつも延期となったオリンピックは開催される運びです。

 

市中の人々も良くない意味で「慣れ」てしまい、出歩くことにさほどの配慮もないように見受けられます。

 

だからというワケでもないのですが、当地は今年一時的に喫緊度を高めたことはありましたがワクチンのお蔭なのか何なのか、油断してはいてけないのでしょうがまずまずの様相で推移しています。

 

 

カミさんの山行きも雪山のシーズンは例年より少し手控えましたが、ほぼ平年並みのペースに戻っています。と言うより状況が許すなら少しペースは上げ気味。

 

それには一つ理由があり、カミさんは今年度で64歳になりますが、そろそろ月当たり最大8回にも及ぶ夜勤が堪えるようになっており、少し時間外勤務手当も知らず削られている気配もあるようだしということで、「1月の誕生月=64歳で退職することを考え始めている」と言うんですね。

 

仕事を辞めると我が家の収入は公的年金のみになります。現在のカミさんの給与と私の年金での月平均額から50%近くの減収になり、それは日常の支出についてもかなりの緊縮化に繋がります。

 

そうした経済事情では登山にかかる経費の捻出は厳しくなるのも当然で、ゼロにすることはないとしても回数の半減を頼んだり、一回当たりのガイド料も頭の痛い問題になります。

 

ガイド料が~と言うより、もうガイドを頼まず一人で行って来られるルートしか行けないかも知れないという不安もあり、ならば行けるうちにと、少し登山のペースが上がっているのではないかな?と思って見ています。

 

またタフがウリのカミさんとて押し寄せる年齢には逆らい難い所もあるようで、今週前半に出かけた難ルートは今なお膝に来ているようで、階段を下りる姿はヨチヨチ歩きに近い姿で、日本アルプスを筆頭に3,000m級の山々や険しいルートの登山には見切りをつけるという判断に迫られる時も近いように感じます。

 

 

さて、その時期はいつ頃になるのだろう。可能ならずっと行けたら良いのですけどね。。

 

 

 

先日挙げた記事は削除しました。

 

ソコソコ熱くなって怒りにまかせたところもあったし。

その怒りをぶつけても何の足しにもならんし。

 

ま、元医療職と、現医療職を身内に持つ者として、いささか腹が立ったということです。

 

 

もうコロナを巡っては、ありていに言えば自分の家族と数少ない大切な人たちが無事であるなら、ワクチン嫌だとか何とか言ってる人はどうなっても別に構わんしね。

 

私らはほどなく感染抑制90%以上の体になるから、反ワクな方々が感染しないといいね~と思うのみです。

 

どちら様もお健やかに m(_ _)m

『思い出はモノクローム。色を付けてくれ』とは、大瀧詠一さんの「君は天然色」の一節です。少し前はビールのCMで、今はダイハツ自動車のCMでカバーされていますね。

 この曲、作詞は松本隆さん。制作については長い期間を要した曲です。
 
松本さんがこの曲の制作依頼を受けた頃に、元々心臓に問題のあった妹さんを亡くし、松本さんは酷く落ち込んだそうです。
 

そのため暫くは作詞どころの状況ではなく、再びこの曲の作詞のためにペンを持つまで長い月日を要したと言います。
  

曲自体はアップテンポの明るく軽いものだし、スタートの「くちびるツンと尖らせて」というくだりでは若い女の子の可愛い仕草を描いていますから、今でいうアオハルのラブソングかと思ってしまいます。 

 

事実そんなイメージで長く聞いていましたが、冒頭にも書いた「思い出はモノクローム。色を付けてくれ」という部分は、正直「失恋してガックリしている。誰か楽しいことを教えてくれよ」みたいな意味かとすら思っていたのだけれど、いつだったかその真意を読んだ時には心が激しく揺さぶられたものでした。

 
松本さんが妹さんを失い、妹さんにまつわる記憶の全てが色を失ってしまうほどだったと。だからその記憶に再び色を取り戻したい、取り戻せたら。そのような意味で描かれた言葉であると知りました。

 


実は対外的ににしたことのない話題に初めて触れますが、私自身も中学3年の時に、当時中学1年なったばかりの妹を失っています。その妹の死については私にも少なからず原因に繋がるものがあると言えるので、私も当時は酷く自分を責めたし、本当に世界の全ての色が消え失せると言えるほどの悲しみに打ちひしがれていたものです。

良いことなのか悪いことなのか、人の心の傷は時間と共に少しずつ癒されてゆき、やがてはおおよその日常を取り戻していきます。ですから私も暫くののちにはほぼ以前と変わらないような様子だっただろうと思います。
 

それでも、半世紀以上過ぎた今ですら、その頃の心情や情景に繋がるような言葉・映像などに触れてしまうと不意に目頭が熱くなり、時には涙してしまうことがあります。


妻は「夫も年老いて涙もろくなった」程度にしか思っていないようですが、確かに歳とともに涙腺は緩くもなっていますが、過去の、妹のみに限らない様々な悲しみの反芻は容易に涙を誘います。



ビールのCMではこの曲の冒頭部分が使われていたので、あれこれ思い出すことはあっても心を激しく叩かれるにまでは至らなかったので平静を保っていられましたが、今TVから流れるのはまさに「思い出はモノクローム」のくだり。

 

妹さんの死を嘆き悲しむ松本隆さんの姿が、我がこととして嫌でも浮かんできます。

 

それでも流れた年月は、まだまだ幼かったと言って構わない年頃だった妹の姿に色を付けてくれています。妹の中学への初の通学日から毎日行き帰りを共にして、季節の移り変わり、妹自身の中学への馴染みが進む様子など、いくつもの思い出を映像として、音声として振り返ることはできています。




自分に限らず、巷にも様々に悲しみや辛い記憶をとどめている人たちは少なくないと思います。中にはきっと色を失くした思い出を抱えていらっしゃる人もいるでしょう。

 
そんな人たちにも、時間は何よりも自身を慰めてくれると思っています。悲しさそのものは変わらなくても、いつか、失われている色は戻ってくると信じています。私のように。

思い出はモノクロームのままでは流れていかないと信じています。 


 

 

 
(前回の書き込みで「触れるのはやめる」としましたが、その直後に出向きましたので今回を最後として掲載しました)

本日休みのカミさんと交代で運転しながら、午前3時過ぎに愛知・三河を出て安曇野市へ。

夜明け頃に到着、一息ついて(と言っても3時間近くは滞在)トンボ帰りしました。

例年±一ヶ月の幅で出かけていますから、今日ならそれほど叱られはしないだろう時期だと思いますが、いつものように鎮魂の祈りを捧げて参りました。


この安曇野詣でも45年。少しのちに私のもとに嫁いでくれたカミさん共々年齢も重ねて来てますから、そろそろ区切りにさせて頂いても怒りを買うことはないのではないかな?とも思い始めています。

キリがいいのは50年だよねぇ・・・。あと5年くらいは安曇野への「行き帰りが辛くてたまらん」とはならんだろうから、そこまでは通いましょうかね。あなたと見上げた常念岳を仰ぐために。

 



 
毎年、10月10日は私(と妻)にとってはとても大切で重い日です。

それは45年前のこの日に端を発します。そのことで大体この時期になると安曇野に出かけ、そのシンボルである常念岳を見上げつつ祈りを捧げることが習いとなっています。


最近では10月10日が休日ではなくなったため、その日に行く上で激しい渋滞に巻き込まれることはありませんが、きっちりとこの日に行くというのも難しい場合もあるため、概ねこの時期のあたりで、ということにして長くなります。

TwitterやFacebookで「どこそこに行きました」と書くことが多いし、以前はそれらやこのブログでもこの日のことを触れていましたが、ここ数年くらいかな?わざわざ触れることはしなくなっています。

時に「なぜ?」と聞かれても少し答えに詰まること。それをお伝えしても、伝えられた方が返しに困ることなどが分かりますから、もうこのことについては私と妻の間だけで粛々と続けていこうと。

今年はまだ出かけていませんが、そろそろ行って来ようと思っています。いつもの場所になるんでしょう。そこには逝って4年半余りになる愛犬も何度か連れて行きましたしね。



45年・・・。そろそろ区切りにしても良さそうな年月ですね。少し半端だからあと5年、半世紀というのもキリが良いとも思いますが。

おかげさまで私は元気です。私を支えてくれる妻はもっと元気です。
近々行きますよ。待っててください。