珍説13・日本軍は中国軍には負けていない | 誰かの妄想

珍説13・日本軍は中国軍には負けていない

【珍説】
日本軍は中国軍には負けていない、というのは反中バカに限らず、よく聞かれる言説です。


http://www.seki-hajime.net/01jihyo0029.html
以下述べることは、戦史を読めば簡単に分かることだが、旧日本軍はどこかの軍と違い兵器を安易に遺棄したりはしない。負けて敗走し、軍としての統制がとれなくなった場合に、遺棄した例はある。しかし、旧日本軍は中国大陸では負けていない。小戦闘で負けた例はあるが、大きな戦いでは一度も敗れていない。中国大陸では、旧日本軍は健在だったが、ポツダム宣言の受諾による東京からの命令で、敗戦を受け入れたのだ。「天皇陛下をお迎えし、大陸で戦争を続けよう」と言った将軍さえいたという。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~aso-org/page112.htm >
中国は結果的に戦勝国になった。では中国軍が日本軍に勝ったのかというと、そんなことはない。中国軍は負けて負けて、広い中国大陸をずっと逃げ回っていたにすぎない。昭和12年12月、日本軍は首都南京を陥落させた。普通なら、ここで日本軍勝利で戦いは終わるはずだ。しかし、中国政府は停戦協定に応じず、重慶に逃げて生き延びた。結局、日本がアメリカに負けたから終戦になったというだけで、中国軍には負けたわけではない。

(軍事学的考察上の必要性に鑑み,引用権の範囲内で引用しています)



【事実】

まあ、伊藤正徳あたりの戦記物に限らず、戦中経験者の戦記物だとやたらと日本軍を美化というか正当化する傾向が強いのは確か。

戦争を全般的に見れる立場の将軍・参謀や一部記者たちの視点からすれば、アメリカにボコボコにされた印象が強く、中国には勝っていた印象を持つのもやむをえないところかもしれない。
内地の国民一般の感覚でも中国戦線からは勝った勝ったの報道ばかりで、あとはアメリカに空襲された記憶の方が強いだろう。前線の兵士にしても、中国戦線から南方へ転用されたような場合は、中国軍に苦戦した経験を得る機会がなかったわけだし、部隊によってまちまち、というのが実際だろう。

また、中国軍の戦略・戦術も、例外はあるものの勝ち目のない戦いは避ける傾向が強く、簡単に後退するので、攻めた日本軍からすれば勝ったという印象のみ強く残る。さらに中国軍は、日本軍の補給路や後方地域に対する遊撃戦を多用するので、日本軍兵士一般の印象からすれば「中国軍は正面で戦ったら簡単に負けるくせに卑怯なことをする」というものになる。いうまでもないが、敵の弱点を狙うというのは基本戦略なのだが。



さて、そういう戦略の問題以前に、日本軍は中国軍に何度か負けている。
無論、最終的には日本軍が無条件降伏しているわけだが、それ以外の事例として。



・平型関の戦い
これは1937年9月の華北・山西省に侵攻した日本軍と中国軍との戦いで、全体としては太原攻防戦の一部である。山西省の中心都市・太原防衛のための防衛ラインの一番東にあるのが、平型関であり、ここには中国軍第2戦区の麾下として中国共産党の八路軍が第18集団軍として配備されていた。といっても兵力はわずか1個師団(115師)、平型関全体を守る防衛部隊としては、山西省軍閥である閻錫山系の部隊があり、八路軍はその一部に過ぎない。
平型関正面では日本軍第5師団麾下の第21旅団が、閻錫山軍と戦っており一進一退の状況。八路軍は日本軍の後方に密かに展開し、まず日本軍に対する補給部隊を包囲殲滅。さらに前線日本軍の後方を封鎖し攻撃している。これに気づいた日本軍後方部隊が前線部隊救助のため前進し、八路軍と交戦。
日本軍補給部隊は全滅したものの、前線部隊は西方に脱出し、さらに西方で別の日本軍により防衛線が突破されたため、平型関を守る中国軍は撤退した。

最終的には中国軍は撤退したのだが、別戦線崩壊による後退であって敗走ではないし、補給部隊とは言え日本軍部隊を全滅させ、また第21旅団前線部隊を敗走させてもいる。平型関防衛戦としては中国軍勝利と言ってもそう過言ではなく、その中でも補給遮断・後方封鎖を行った八路軍の功績は大きい。
まあ、太原攻防戦としては中国軍の負けだが。


「ただの局地戦じゃねーか」とか言う人もいそうなので、もうひとつ。


・芷江会戦
こちらは戦争末期、1945年4月から6月にかけて戦われた戦い。会戦の名の通り、日中両軍が正面から激突した戦いです。中国では湘西会戦と呼ばれます。日本軍第20軍が中国軍の航空基地のある芷江に向けて侵攻しますが、芷江まで全く辿り着けないどころか、中国軍の重包囲下に陥ってしまい、第116師団などは壊滅的な損害を蒙って撤退しています。中国のインパールと呼ばれるくらいの惨敗です。
この芷江作戦、伊藤正徳に言わせると、「早期撤退は明断」(「帝国陸軍の最後〈5〉終末篇 (光人社NF文庫)/伊藤 正徳 」)となってしまいます。なんだかなぁ。

あと、この芷江作戦は、ネット上ではあまり取り上げられません。なので知らない人も多いみたい。


この他にも、徐州攻防戦の一部である台児荘の戦いや、南寧攻略戦の一部である崑崙関の戦い、長沙の攻防戦(第4次を除く)などで日本軍は敗退しているし、武漢占領後の討伐作戦(江北、江南、常徳)では、かなり痛撃を受けている上に、占領地を増やしたわけでもないので勝敗が判定できない戦いも多い。

華北や長江河口の戦場では、小規模な遊撃戦や討伐が多いので目立たないが、日本軍や傀儡軍小部隊が全滅させられる話がよく聞かれるし、最終的に中共の解放区が広がったことを見ても、日本軍が勝ったとは言えない戦況だったと言える。
百団大戦は評価が微妙なところだろうが、その後も遊撃戦が続いたこと(討伐などにより低迷したとは言え)を考えると、これも日本軍の勝利とは言えないだろう。


さらに戦争末期になると、奥地に展開した部隊への補給補充も困難になり日本軍は撤退を開始している。江西省桂林などに展開していた部隊は敗戦間際次々と撤退を開始し占領地を放棄していった。もちろん中国軍の追撃などによる損害も少なからず出ています。同じく華北の戦場でも八路軍が大規模反攻を開始し日本軍傀儡軍に撤退を強いてます(安陽戦役:1945/7)


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