ネトウヨの南京事件否定論をおさらいしてみる。 | 誰かの妄想

ネトウヨの南京事件否定論をおさらいしてみる。

まあ、レベルが低いというか、結論先にありきと言うか、その辺は言わずもがななのですがね。

言うまでもないことですが、南京事件の全体像について考察している歴史家は、日本軍が作成した資料・日中の関係者証言、その他当時発行された公式・非公式の資料などを基にその規模や犠牲者数を推定しているわけです。この際、写真などはあまり重要視されていません(撮影者・撮影日などが明確であれば使えますが、そういったものは占領者のプロパガンダ以外残りにくい)。


一方、否定論者は主に3種類。
Type I .全て捏造、虐殺どころか殺害そのものがなかった。
Type II .殺害は全て合法であって、虐殺ではない。
Type III.戦争なんだから虐殺があって当然、日本だけが悪いのではない

この他に「30万人という数字が誇張だと言いたいだけ、虐殺がなかったとは言ってない。」とかもあります。


否定論者は基本的に節操のない人が多いので、上記Type I~TypeIIIを好き勝手に行き来します。

・TypeIの典型的主張
「南京には20万人しかいなかった」「だから30万人は殺せない」「それどころか人口が25万人に増えている」

数字には諸パターンありますが、まあこんな感じです。
言うまでもないですが、20万人と言うのは南京特別市の一部である南京城の中のさらに一部である安全区の人口に過ぎず、一方で犠牲者30万人が発生したという地域は南京城の外、南京特別市の広い範囲に及びます。
この指摘に対して、「安全区以外の人は全員、避難して無人だった」とか言い出しますが、どんどん矛盾が発生します。

矛盾:安全区に20万人、安全区以外が無人だったのなら、増えた5万人はどこから出てきたのか?
 日本軍は、南京占領後に5万人の人間を創造でもしたんでしょうかね?あるいは反魂の術でも使ったか?





では、今回はこのサイトを見てみましょう。

http://www.wdic.org/w/CUL/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA

南京大虐殺
辞書:文化用語の基礎知識 政治国際編 (LPOLIW)
読み:なんきんだいぎゃくさつ
品詞:名詞 2007/10/14 更新

1937(昭和12)年12月、日本国と中華民国との支那事変(日中戦争)で南京が陥落した翌日から5~6週間の短期間に、日本軍によって無抵抗な南京市民や支那軍兵士、あわせて30万人が殺害されたとされる、有名な捏造事件。いわゆるアサヒストリーの一つ。

★まあ、最初から捏造と決め付けてますな。この後にちゃんとした論拠が示されているならこういう構成はありですが、さて。


更に昨今では40万人、あるいはそれ以上などという珍奇な説も飛び出している。

★それ、産経が出している「蒋介石秘録」がソースでは?
★それにそもそも、南京軍事法廷で主張された犠牲者数は34万人以上であって、簡単に30万人と言うことが多いけど、40万と言っても別段「珍奇」と言えるほどでもありませんね(東京大空襲や原爆被害者の数の幅を知っていれば、不思議ではないです)。


支那共産党の主張
支那共産党はこの事件を事実と主張するが、もしこれが事実だとすると、避難地区が設置され、そこに日本軍が食料を提供していた人口20万の都市で40万人が虐殺されたことになるが、その3週間後には人口が22万人になっていた

★最近ネットでよく見かける「支那」と言う言葉は、ネトウヨの脳内中国を指す言葉ですが、以降中国を指すものとみなして考えます。
★「日本軍が食料を提供していた人口20万の都市で40万人が虐殺された」・・・こんな主張を中国国民党も中国共産党もしていません。やっぱり脳内中国か・・・。
★何度も言うように、20万人は安全区の人口で、30万と言われる犠牲者は主に安全区のある南京城の外で殺された、と中国側は主張していますし、南京事件を研究しているまともな歴史家もほとんどその認識だと思いますがね。
★「3週間後には人口が22万人に」ここでは差分は2万人ですがこの2万人はどこから湧いて出たのでしょうかね?


虐殺現場に次々と人が押しかけたというのであろうか。そもそも、殺される方も殺される方である。殺されるまで待っていたのだろうか。

★・・・だから「押しかけた」人たちは押しかける前はどこにいたの?
★産経症にかかっていない普通の思考が出来る人なら、南京城外の日本軍による虐殺・暴行が行われている地域から、安全区に逃げ込んできて、安全区内の人口が増えた、と考えるでしょうね。


主な論者別の虐殺数の推移
1938(昭和13)年の安全区委員会は49人
1938(昭和13)年のスマイスで15,760人
1938(昭和13)年のベイツで42,000人
1941(昭和16)年のスノーも42,000人

★ベイツを引用したと思われるスノーを除けば、事件発生直後の全体像が把握できない状況下での人数にすぎませんね。阪神大震災で、当日午前中に報道された犠牲者数は数百人でした。
★また、安全区委員会が49人と報告・認識していたわけでもなく、後世の否定論者が、安全区委員会作成の資料の一部のみを抽出してカウントしたの49人だということに過ぎません。例えるなら、阪神大震災で神戸市長らが直接見た死者の数だけを阪神大震災犠牲者とみなすようなものです。


1943(昭和18)年のスメドレーで驚きの200,000人

★これは原典がよくわからんのですが、スメドレーは太平洋戦争開戦までは中国国内で色々動き回れたでしょうから、実態に近い推計を出せた可能性がありますね。


1946(昭和21)年の南京検察処で何と340,000人

★はい、日本の敗戦によって、中国国民党が南京を支配下においてようやくまともな被害調査ができるようになって算出された数字です。事件発生から8年も経った後で正確さには疑問符がつくのはやむを得ないでしょうが、南京軍事法廷での被告は管理責任を問われていたわけなので、人数の正確さはあまり重要ではありません(だから判決で34万人”以上”となっている)。国家レベルで被害調査された唯一の結果ですが、資料が公開されていないので現状では検証のしようがありません。


1948(昭和23)年のいわゆる東京裁判で200,000人

★南京軍事法廷と同じく、被告の管理責任を問う裁判なので犠牲者数の正確さはそれほど重要ではありません。これも20万人”以上”と表現されていますので、「34万人以上」も20万人以上の部分集合であることがわかります。


1972(昭和47)年の台湾国防部史政局で100,000人
★これは資料を見ないとわからない。


1995(平成7)年の支那共産党で遂に300,000人
★中国国民党による南京軍事法廷判決を踏襲しただけです。簡単のため34万以上をきりよく30万と言っているにすぎません(南京軍事法廷判決内で既に「30万人以上」と表現している)。

つまりは、データをその導出方法・背景を知らずにただ並べて、違う違うと言い張っているだけの、”非常に”低レベルな主張なわけです。


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・TypeIIの典型的主張
「便衣兵は国際法違反のゲリラ」「ゲリラを殺しても合法」「民間人が誤認されたとしてもそれはゲリラの責任」

怪しい国際法認識と法の支配という概念がわかっていない人の主張です。
まず、便衣兵の定義自体あやふやです。


1.中国軍正規兵が民間服で戦闘を行う場合
2.中国軍正規兵が民間服で逃亡している場合
3.中国民間人が戦闘を行う場合
4.ただの中国民間人
5.前線が不明瞭になった戦場にいる中国軍正規兵(軍服)


このうち、便衣戦術を使うと言う意味で便衣兵と呼べるのは、「1」か「3」だけです。「1」を捕虜とした場合、ハーグ規約に照らして処刑することはある程度の正当性はありますが、捕虜とした後の殺害にはこれが「1」か「3」かを判定する必要があります。
なぜならば、「3」はハーグ規約第2条に基づき、交戦者資格を有する可能性があるからです。「3」を捕虜とした後、法的根拠なく殺害すれば、それは捕虜の虐殺です。


要するに、一番違法性が高いであろう「1」の捕虜にしても、何らかの裁判に類することを行わずに処刑することは虐殺として非難されうる行為なわけです。もし日本軍が何らかの裁判の結果処刑したという証拠(裁判資料)が出てくれば、反論の余地もありますが、現在までそのようなものは見つかっていないようです。


さらに問題は「5」、これは既に便衣兵とは呼べませんが、これを混同しているのが多いです。ぼろぼろであれなんであれ、公然と武器を傾向し雑多とは言え軍服と認識できる服装をしているなら、それを捕らえれば間違いなしに捕虜として扱うべきです。
幕府山事件(中国軍捕虜を1万人規模で虐殺した事件、南京事件の一つとされる)では、民間人も混じっていたものの大勢の中国軍正規兵が投降してきたわけですが、日本軍はこれを武装解除後に殺害しています。

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当時の南京情勢
ゲリラ
当時、戦時国際法に違反し、民間人のふりをして行動するゲリラ兵(便衣兵)に日本軍は悩まされていた。支那共産党軍が、女・子供をもゲリラ戦に参加させたからである(なお便衣とは普段着のことである)。

★第一次上海戦(1932)では便衣兵(ハーグ規約第2条の群民兵)が活躍しましたが、第二次上海戦(1937)では後方での輸送などに協力したなどの話はあるものの実際に交戦したという話はあまり聞きません。南京城内ではまるっきり証拠も見かけません(上海から南京に向かう途上では散見される)。肯定派に対して厳格な証拠を求める否定派は自身の主張には証拠を提示できないのが現状です。


南京ではゲリラの処刑、ゲリラと間違われた一般市民の処刑、一部の部隊の逸脱行為、支那兵の一般市民の殺害などが行なわれたが、これらが区別されずに扱われているのが今の南京大虐殺であると思われる。それでも30万人などというのは妄想に過ぎた数値である。

★たとえゲリラであっても裁判なしの処刑が問題なのは上述したとおり。正規兵捕虜と民間人の殺害を区別していないと言う指摘は無意味です。南京軍事法廷どころか、1938年初頭に報道された内容でさえ、最初から軍人・民間人に対する虐殺としているのですから。
★民間人だけで30万人という主張は、ネトウヨの脳内中国以外、まともな研究者で主張している人はいないでしょう。
★「それでも30万人などというのは妄想に過ぎた数値」全く根拠を示さずにそう言い切るのがネトウヨクオリティ。


作られた事件
支那はハーグ陸戦法規に違反しているので、日本軍の行為は虐殺とは言わない。

★まさにTypeIIです。このサイト主は、最初にTypeIの主張をしています。
★矛盾:南京の人口が20万人から22万人に増えたのなら、殺害された人数は0以下のはずです(-2万人?)。しかし、このサイト主は「南京ではゲリラの処刑、ゲリラと間違われた一般市民の処刑、一部の部隊の逸脱行為、支那兵の一般市民の殺害などが行なわれた」と言います。
★一体、人口は減ったのか増えたのか
?全く矛盾した主張を何の疑問も感じずにしていますね。

★要するに、南京事件否定派の論理は、この程度のレベルと言うことです。


そして、市街戦では市民が全員避難しない限り戦闘に巻き込まれるのものなのである。だからこそ日本軍は南京に安全区を作ったのであり、その安全区でゲリラ活動をしたのは支那であった。

★どんどん、おかしな話になってますな。ちなみに安全区を作ったのは国際委員会であって日本軍は黙認しただけです。そして、安全区内でゲリラ活動があったなどという話はありません(武器が置いてあった、というのをゲリラ活動と拡大解釈するならありましたけどね)。


こういった歴史的な一つの事故を取って拡大解釈と歪曲捏造により、現在の30万や40万などという突飛な数に至ったものと思われる。

★「思われる。」要はろくに根拠もなく、信じたくないから信じないだけですね。



事件の捏造性の証明

事件が真実であるならば、南京の発掘調査で人骨が大量に出てくるはずである。

★南京の博物館では実際に人骨が展示されているそうですが、こういった人たちは30万人分出てこないと認めないのでしょうね。ちなみに南京軍事法廷判決では、ほぼ半分が事件後埋葬され(記録あり)、残りは長江に流したり、燃やすなどして隠滅が図られた、と主張しています。


日本は南京の事実を検証したいところだが、支那は南京の調査を拒んでいるためできない。調べれば、捏造だとバレるのは自明だからである。

★例えば、昭和天皇は死んでないと誰かが主張したら、それに反論するために墓を暴かねばならないのでしょうか?墓を暴くなんてことはできない、と言ったら、昭和天皇死亡は捏造なのでしょうか?ネトウヨの論理は、これと同じです。単純に言えば、馬鹿です。


南京大虐殺が事実であるなら、証拠の捏造は必要がない。捏造などせずとも、事実は覆らないはずからである。しかし、南京大虐殺肯定論者は、みな例外無く、証拠の捏造をしている。これが何を意味するかは、常識的な人間なら自ずと分かるであろう。

★「捏造などせずとも、事実は覆らないはず」。なので、今現在も覆っていません。ネトウヨ的に言うなら「事実だからです。」
★「南京大虐殺肯定論者は、みな例外無く、証拠の捏造をしている。」拠もなく決め付けるのはネトウヨの本能のような物ですね。


証拠は一つもない

★ネトウヨが知らないだけです。無知を自慢する珍しい生き物がネトウヨです。


南京大虐殺の証拠とされている写真は全て捏造である。現在、証拠能力のある写真は一枚もない。写真だけでなく、被害者の骨や遺体、あるいは使われた銃や刀、それを記した書類のたぐいの一切が見つかっていない。

★写真が重要な証拠でないことは上記で指摘済み。
★写真の捏造にしても、その(主に東中野の主張)指摘内容自体、疑問符のつくレベルのお寒い指摘に過ぎない。
★被害者の骨、一部展示されていることを上述。
★銃や刀、それを持って兵士が移動しているからねえ・・・。
★書類・・・、ありますよ。歩兵第66連隊の命令書が残っています。

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12/13 14:00 歩兵第66連隊
連隊命令
イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
  其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何
ロ、兵器は集積の上別に指示する迄監視を附し置くへし
ハ、連隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり
  貴大隊の任務は前の通り
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』P567
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http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%c2%e866%cf%a2%c2%e2%cc%e4%c2%ea%a1%a1%c5%ec%c3%e6%cc%ee%c0%e201


真実であれば、一つくらいは証拠が出て来るものである。事実は隠しきれないからである。しかし、既存の「証拠写真」なるものは、全てが捏造である。

★だから、写真なんて重要な証拠じゃないんだってば。
★実際、隠しきれない事実だったから、捕虜殺害を命じた連隊命令のある戦闘詳報が出てきたんですよ。


いわゆる東京裁判で提出された証拠写真は全て無関係または合成写真だった。ここで南京大虐殺を「見た」と答えた者は二名だが、そもそも証言以外の証拠は無い。

★東京裁判で、写真を根拠として判決を下したわけじゃありません。証言以外の証拠(日本大使館員の報告など)もありました。
★証言したのが2名であったことを少ないと思わせようとする意図を感じますが、そもそも東京裁判は南京事件だけを取り扱っているわけではない。


他の大量虐殺との比較
一つの参考として、B-29を300機以上を投入した東京大空襲で死者約10万人、原爆の死者でさえ約20万人である

★これも典型的な否定論です。
★東京大空襲にしろ、原爆にしろ、その被害は、一発の爆弾、一晩の空襲での被害者ですが、南京事件は1ヶ月以上続いています。この時間の差を否定論者は意図的に無視します。意図的じゃないなら相当の間抜けです。


当時の日本兵の主力兵器はボルトアクションの三八式歩兵銃や、2~3人斬れば刃こぼれする刀。これで短期間のうちに大量虐殺は不可能である。

★どこの誰が「短期間」などという主張をしたのか?多分のネトウヨの脳内中国でしょう。東京裁判でも「6週間」と主張していますが、多分読んでませんね。
★ちなみにルワンダではナタで100万人が殺されたといわれています。
★大体、殺害した相手は、武器を持った戦闘員ではなく、武装解除した捕虜や民間人です。
★さらに日本軍の装備には、機関銃も砲もありました。歩兵銃には銃剣があります。持っていた刀も(低品質の)支給品ばかりでなく、自弁してきた将校も少なからずいました。このサイト主は、南京事件を否定したいがために、日本軍の能力を低く評価しているわけです。自虐的です。


また日本軍が事件を隠蔽したということなので、それだけの遺体をどこかに埋めたことになるが、その場所も暇も現実には存在しない。

★南京で外国メディアが活動でき、ある程度の治安が回復するのは1938年2月から3月くらいです。事件開始後、既に2~3ヶ月が経過しています。暇は十分にありました。
★3月には南京に日本の傀儡政権が出来ています。つまり遺体処理の労力もありました。


そもそも、30万人も40万人も楽々殺せるなら、日本は戦争に負けるはずがない。

★「武装解除した捕虜や民間人」すら殺せないほど低能なら軍隊として機能していません。
★要するに何の根拠にもならない駄文です。


東京大虐殺(1945(昭和20)年3月10日) 300機以上のB-29での大空襲で、死者約10万人
広島大虐殺(1945(昭和20)年8月6日) ウラン型原子爆弾実験により、死者約14万人
長崎大虐殺(1945(昭和20)年8月9日) プルトニウム型原子爆弾実験により、死者約7万人
⇅超えられない壁

南京大虐殺(1937(昭和12)年12月) 百人斬り競争などで死者30万人


★こんなので否定できるのなら、ルワンダやポルポト、文化大革命などの被害も否定できますね。
★これで根拠になると思っているのが救い難い知能です。


啓蒙しているのは誰か
日本では、朝日新聞、毎日新聞、日教組などのサヨク団体が、過去の様々な証拠や情報を隠滅し、教科書まで捏造して、積極的に南京大虐殺は存在したと日本人の洗脳に勤しんだ。

★これもまた、不思議な論調です。否定派の言うように何もなかったのなら、「過去の様々な証拠や情報を隠滅」する必要なんてありません。何を隠滅したというのでしょう?
★南京事件の存在は、報道統制されていた日本以外では1938年には知られていましたし、日本でも敗戦後の1945年には知れ渡っています。「洗脳」とやらに勤しむ必要などありません。


なお、現在の社会科の教科書では、南京の虐殺があったと書かないと検定を通らない。歴史教科書の中でもまともな部類に入る扶桑社の新しい歴史教科書でさえ、仕方なく言葉を濁しながら、あったと嘘を書いている。

★「検定を通らない」・・・与太話を書いた教科書が検定に通ったらその方が異常。
★「歴史教科書の中でもまともな部類に入る扶桑社の新しい歴史教科書」・・・ギャグか?
★なんというか、何がまともかについての判断基準が全く示されておらず、推察するにネトウヨが信じたいことかどうか、で「まとも」かどうか判断しているとしか思えないですね。


現在南京大虐殺についてまともな報道を行なっているマスメディアは、産経新聞や日本文化チャンネル桜だけである

★ここは渾身のギャグなんでしょうね。
★なかったという根拠を何も提示できていない以上、単にネトウヨと産経新聞、チャンネルサクラとが波長が合うという独白に過ぎません。


情報戦争
中共
中共は、南京陥落70周年となる2007(平成19)年に、対日工作として南京大虐殺に関する映画を大量に作り世界に流すという手段に出た。

★自分と認識の違う主張を全て陰謀とみなすネトウヨ脳全開ですな。


こういったものは、先に始めた方が勝つものである。後から攻勢するには、嘘を証明するという困難な作業をせねばならないためで、それを実現するまでに敵は、次の攻撃を準備できるからである。

★この辺は同意。南京事件は捏造、という嘘を証明するのは面倒な作業ですよ。全く。いい加減にしてください。


つまり、無かったことを「あった、あった」というのは簡単である。言うだけだからである。が、無かったことを無かったと証明することは難しい。これは悪魔の証明と呼ばれる。

★「”捏造が”あった、あった」と言うネトウヨはお気楽な物です。言うだけだし。証明を求められたら、「アクマノショーメー」を連呼するだけだし。
★とりあえず、「知らない」=「なかった」という変換をするネトウヨ脳はなんとかした方がいいと思いますよ。


日本はこういった情報戦争に今まで負け続けてきた。大東亜戦争に負けたのも、情報戦争に負けたからにほかならない

★産経とかの右翼メディアが世論をあおり、こういう馬鹿なネトウヨが乗っかってしまうから、情報戦争に負けるんだよ。


南京の真実
しかし指を加えて黙っている訳にもいかないため、日本文化チャンネル桜の社長、映画監督である水島総らが、対抗して映画「南京の真実」を作る旨、発表した。2007(平成19)年12月頃に公開予定である。

また、これに協力する形で非公式(半公式)で、南京ペディア - 映画「南京の真実」まとめサイトが作られた。


★同サイトの掲示板は、Apemanさん一人に全く反論できていませんけど・・・


実在した南京大虐殺
中共のプロパガンダは嘘・捏造だが、以下に示すのは実在した「南京大虐殺」である。

1913(大正2)年 第一次南京事件。張勲軍が南京に乱入し、虐殺、強姦、略奪
1927(昭和2)年 第二次南京事件。国民党の国民軍、南京占領。
1937(昭和12)年 第三次南京事件。
1949(昭和24)年 第四次南京事件。中共軍による、南京制圧と資本家虐殺、財産強奪。
実在した「南京大虐殺」を示すためには、第何次のものであるかを明確にせねばならない。

★この「第何次」という言い方も頭悪い。
★通常、連続したキャンペーンの中で、複数回起こった事象について、「第何次」という言い方をするもの。第1次・第2次・第3次ソロモン海戦とかね。でも、キャンペーンが断絶している場合は「第何次」なんて言い方はしない。例えば、黄海海戦。日清戦争でも日露戦争でも同名の海戦があるけど、第一次黄海海戦なんて言い方は普通はしない。同じく、関が原の合戦。1600年の他に、壬申の乱でも関が原は戦場になっている。だからと言って、1600年のを第二次関が原の合戦なんて言い方はしません

★そのあたり、馬鹿丸出しなのか、南京事件だけを目立たないように工作したいのかどちらかでしょう。

★ちなみに、「中共のプロパガンダは嘘・捏造」だと決め付ける一方で、提示したその他の「南京事件」が事実であることを証明していないのも笑える。

★もうひとつちなみに、1927年の南京事件での中国人以外の犠牲者数は「日1人、英2人、米1人、伊1人、仏1人」(WIKI)の6人である。「南京”大虐殺”」ですか、そうですか。それなら「南京では(略)ゲリラと間違われた一般市民の処刑、一部の部隊の逸脱行為」も立派に?大虐殺といえると思うんですけどねぇ・・・。
★否定派が提示したもっと少ない数字は「1938(昭和13)年の安全区委員会は49人 」ですけど、1927年の南京事件犠牲者の8倍ですな。



まあ、こんな感じで、そもそも否定派は南京事件の全体像を描くことを最初から放棄しているので(肯定派の粗探ししかしない)、否定派の意見をまとめてみてみると、”粗”だけで構成されていたりします。
なので、論の全体的な統一性は皆無に等しく、アルコールでも入らないと出来ないような与太になっています。


20万人が25万人に増えた、日本軍によって治安が良くなった証拠!とか質の低い否定派は言うわけですが、その5万人がどこから現れたのかを語ることはありません。

普通に考えれば、当初は安全区以外の南京城近辺にいたと考えられます。
そもそも、100万都市だった南京が20万にまで減ったというのが事実なら、よほど日本軍が怖かったわけです。なのにすぐ5万人戻ってくるなんてことがおかしいのです。日本軍が怖くて逃げたのだからむしろもっと奥地に逃げるはずです。日本軍の統治が安泰だというのなら、逆に20万人にまで減る前に上海方面の日本軍占領地を目指すはずですが、そんなことを示す資料もありません。

・上海から迫る日本軍が怖くて都合よく人口が100万から20万まで減った。
・南京に着いた途端日本軍は菩薩のように善良になって人口が5万人が増えた。

安っぽい映画でももう少し考えますよ。
あ、決して「南京の真実」が安っぽいとかいうつもりはないですよ、・・・まだ。