産経症・都合のいい証言は盲目的に信用する | 誰かの妄想

産経症・都合のいい証言は盲目的に信用する

コメント欄から、慰安婦の話。


「1942年 - 1974年まで大日本帝国陸軍少尉であった小野田寛郎氏は慰安婦についてこう述べています。コロコロ変わる慰安婦の証言とどちらを信じますか。」


はなっから慰安婦証言を貶める表現を使うあたりがネトウヨ・クオリティですが、小野田証言は面白いので見てみましょう。


大体、個人の体験談として、

・酷い目にあった慰安婦を見た
・酷い目にあった慰安婦など見なかった

両立可能であって、一方が事実としても他方が虚構になるわけではありません。


つまり。

「酷い目にあった慰安婦もいたし酷い目にあわなかった慰安婦もいた」
と言う場合、二つの体験談は両方とも事実になります。


こんなの基本的な論理です。
いちいち説明するのも恥ずかしいくらい。


一部を観察した結果を全体に適用するには、細心の注意が必要であって、それを無視した論は信じるに値しません。これも推測統計の基本です。


私自身の認識としては、日本軍慰安所で慰安婦として就労した女性には、もともとの職業的売春婦もいたであろうし、騙されたり、人身売買の犠牲者であった女性もいたであろうし、軍人などに強要された女性もいたであろう、というものです。
軍が利用し軍が管理した慰安婦が、人身売買の犠牲者でないことを軍や政府は保証しなければならないし、そうしたことが起こらないよう最大限の努力を払う必要があったわけですな(実際には未成年慰安婦がビルマまで渡航している(国際条約違反)ので、努力のかけらも感じられませんけど)。
もっと根本的には、そもそも犯罪行為につながる可能性の高い慰安婦の募集を、軍・政府が行うこと自体間違っていると言えます。


で、小野田証言です。


前知識として知っておくべき?なのは、この人は中野学校出身だと言うこと。中野予備校じゃないですよ。


知らない人のために説明しておくと、中野学校とは、日本陸軍のスパイ養成所のことです。

つまり小野田氏は、ネトウヨレッテルとしての「プロ証言者」と比べるべくもない、紛れもないプロの工作員です。(もっとも小野田氏が出た中野学校二俣分校は、情報戦よりゲリラ戦を専門としていましたが)

慰安婦証言を疑う基準を持ってすれば、当然小野田証言も疑ってかかるべきですが、さてどうなんでしょうね。


一応、小野田氏が嘘をついていないことを前提として、以下の文章を検証してみましょう。



小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」

「正論」平成十六年一月号より

 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。


★1930年代まで廃娼運動が進んでいることも事実です。公娼の存在自体に疑問符を投げかける世論もあったわけですね。小野田氏は1922年生まれなので、1937年当時は15歳。廃娼運動の存在自体、どの程度理解していたか・・・。
★しかし、「治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火」といいつつ、南京事件を否定するのは理解に苦しむところです。


 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従堰慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。


★言葉の問題は言いがかりですな。昭和時代に昭和天皇と呼んだ人間はいないでしょうが、かといって昭和天皇がいなかったわけじゃありません。


 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。

 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。


◆漢口の「慰安所」を見学

 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。


★察するに1939年3月くらいですかね。当時の中国戦線は日本軍優勢で進んでおり、比較的安定してました(武漢でほぼ攻勢限界に達して、これ以上の奥地への侵攻がほとんど出来なくなっていきますが・・・)。


 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。


★この辺からも戦況が安定していることがわかります。つまり、前線の兵が交代され後方(といっても武漢だが)で休暇が取れるようになっているわけです。戦況が厳しくなると、兵の交代制が取れなくなっていきます。


 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。


★ネトウヨのコメント「いくら15歳でも普通は何かいかがわしい仕事だと察するよなあ、普通。」
★そんなことを言ったら、17歳で慰安所を餅・饅頭・うどんがサービスされる場所だと思っていた小野田氏の立つ瀬がないじゃないですか。

★要は30過ぎのヒキコモリ感覚で判断するな、ということで。




 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。


★こういう商社にとっては、戦争はいい飯の種、ということですね。


 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働げば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。


★後に日本の軍票は、インフレで紙切れ同然になりますが、1939年時点の中国戦線では価値を維持してました。理由は単純で、蒋介石政権が正規の中国通貨である法幣を発行しているため、その対抗上、日本は軍票の価値を落とすわけにはいかなかったわけです。
★そういったことを考慮して、娼妓の内地と戦地の利益を比較すれば、戦地の方が儲かったのは確かでしょう。需要が多い分。ただし、通貨の安定、ひいては戦局の安定が前提条件となるわけですが。



◆どこにもいなかった「性的奴隷」

 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。


★さて、17歳の小野田氏が読心術を使えるのでなければ、これが本音かどうかはわからない。
★経営者が、単に薄給でこき使える朝鮮人を多く雇っていた言い訳ともとれるのでね。



 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。


小野田氏自身、公娼自体が事実上の人身売買であることは認めてますね。それに奴隷や女郎だって、一時も楽しい時がなかったわけではないでしょう。
★何より、上記の記述は、1939年には戦線後方の安定した武漢のこと、に過ぎないことは重要です。


 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。


★これに至っては、小野田氏自身、騙された女性の話も強かな女性の話も聞いているわけです。一方だけを信じ、他方を無視するのは何故でしょうか?
★そもそもネトウヨ基準では”伝聞証拠”として切り捨てられるべきところのような気もしますが・・・。



 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

 当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。


★この当時の貯金はほとんど強制で、事実上の税金に等しい様子がわかります。親のすねをかじっているネトウヨには関係のない話でしょうけど。



 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約4円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。

 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。


★ちなみに平均的なサラリーマンの月給は87円程度の時代。
★この辺、恣意的としか思えないのだが、では慰安婦は何人いたのか?これが述べられなければ132万円が多いのかどうかは判断できない。


 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。


★慰安婦の人数を把握せずに132万円が多いと言っているのなら、商社マンとしては失格だろうし、これでよく中野学校に行けたものだと思う。


 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。


★金を払ったから商行為だと言うのなら、強姦後に金を叩きつけても商行為なわけだが・・・。この程度の問題認識能力でよく中野学校に行けたものだと思う。


「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。


★1939年の漢口(3年半いたのなら1942年までだが、「一般在留邦人が入れない場所」なので頻繁に行ったとも思えない)の慰安所を述べただけで1945年まで中国ほぼ全土からビルマ、マレー、インドネシアと極めて広範囲にわたった日本軍占領地に多数作られた慰安所の実態を把握できたと本気で考えているのならおめでたい話である。よく中野学校に行けたものだと(以下略)。


◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

 次に、軍関与の暴論について証言する。私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。


★では、少なくとも1942年時点での慰安所については、何の実体験もないことになりますな。


 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。


★この時点でかなり不思議な状況ですね。武漢は大都市であり既存の売春宿もあったでしょうし、民間人の進出も早かったでしょうが、南昌から30キロ離れた田舎には既存の売春宿などなかろうし、民間人が進出してきたとも考えにくいです。軍として慰安施設が必要なら南昌で求めるという選択肢もあったはずです。この時期は既に太平洋戦争に突入し、前線の兵を交代で休ませるという交代制が機能していなかったのではないかな。
★そう考えると、田舎に駐屯する連隊本部内に慰安所があったことの説明がつきます。


 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。


★そういう視点も確かにあるでしょう。しかし、医師や病院もない、しかもゲリラの襲撃があるかもしれない田舎になぜ慰安所を作らなければならなかったのでしょうか。それに対する視点が欠けている。よくこれで中野学校に(以下略)。



 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。


★経営者が慰安婦が酷い目にあってるなどと言うと思ったのだとすれば、小野田氏はセールストークにも騙されやすいことになるが、元商社マンがそんなことにも気づかないとはね。よくこれで(以下略)。


 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。


不完全なのは小野田氏の認識であると思われるが・・・。17歳の商社マンが見学した1939年の武漢の慰安所。20歳の初年兵が警備した慰安所経営者との立ち話。これだけで従軍慰安婦の何を語れるのだろうか?
★言い換えてみる「すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更慰安婦問題はでっち上げと騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそしらばっくれていれぱ、なかったことにできると狙っているということだ。」
★大体、証拠が不完全なのは、旧日本軍が破棄し、現日本政府が公開しないからなんだけどね。



 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。



★・・・「周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れない」。えーと、宣撫工作に思いっきり失敗してたってことですな。正直でよろしい。
★で、そんなところに民間人女性が自由意志で売春婦として大挙押し寄せた、と。なんかすごい不自然なんですが。



 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。


★じゃ、なんで連隊本部内に慰安所があるの?後方の治安の安定した都市部において、兵に休暇を与えて行かせればよかったんじゃない。


「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。


★まあ無理だから「兵士による強姦と略奪・放火」がおこったわけですが(南京とかで)。

★前線勤務の兵に休養を与えるだけの余力がないことが問題なんですけどね。
★どうして、兵のために女を与えろとは言うのに、休暇を与えろとは言わないんだろう?



 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。


★何が証明されたのか、さっぱりわからん。兵にとっては「有り余った金ではなかった」でしょうね。だから、「兵士による強姦」は絶えなかったんでしょうけど。


「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。


どうも、小野田氏は戦争や徴兵・出征、身売りを天災と勘違いしているようですが、これらは人災です。ま、政府には国民を守る責務などない、とお考えなら何も言いませんけど。


「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。


「軍の弱み」ときた。小野田氏の頭の中の日本兵はボッタクリ・バーで金を巻き上げられるサラリーマン並みに弱かったらしい。それこそ自虐史観だと思うが。


***


で、総評として、小野田氏の証言が全て正しいと仮定しても、1939年の武漢の慰安所と1942年の南昌郊外の田舎の連隊本部内の慰安所の話に過ぎないわけですね。しかも本人は慰安婦の境遇について直接慰安婦と話をしていません(少なくとも上記中では)。言ってしまえば、自分が子供の頃に見た芸妓・酌婦と同じと思い込んでいるだけです。
他の時期・場所ではどうだったのか?どころか実際に見た慰安所の実態がどうだったかすら正しく認識されていない様子が見て取れます。

あまり価値の高い証言とは言えませんね。


正直言って、中野学校を出た将校にしては分析能力に疑問符がつきますな。


興味深い点は、1939年と1942年の慰安所の形態が異なっている点。

1939年時点では、慰安所を利用するに際し前線から後方の武漢まで戻っている(休暇か交代かはわからないが)。これに対して1942年時点では、前線に近い連隊本部内に慰安所がおかれておりゲリラに襲撃される危険すらある。

慰安所設置の基準が3年間のうちに大きく変わっていることをうかがわせる記述と言えよう。


まあしかし、概して具体的な内容に乏しく、少なくとも慰安婦の実態を考える上で慰安婦証言と比較することすら馬鹿馬鹿しいほど参考にならないと思われます。


で、ネトウヨさんは、これがどういう根拠になると考えているんでしょうか?

そもそも文章をちゃんと読んでますか?