産経症・正月から何かを飛ばしている | 誰かの妄想

産経症・正月から何かを飛ばしている

年末年始とネットから離れていたので久しぶりの更新。


今年も、戦前回帰 の産経は絶好調の様子。正月から(頭のねじとか理性とか人間にとって大切な何かをいろいろ)飛ばしている。
お年玉をもらうような(精神)年齢のネトウヨの皆さんも大喜びだ(って、本当に20過ぎてお年玉もらっているようなネトウヨがいたら面白過ぎだが)。


(産経新聞2007/1/1コラム)
【産経抄】
 あけましておめでとうございます。元旦だから、新年のあいさつから始めたいが、本来は人間同士でかわす言葉ではない。読者の家に、そして小欄宅にもお迎えしている「年の神」への、祝福の言葉なのだ。

 ▼年神は農耕神であると同時に祖先神でもある。だからお盆の迎え火のように、松飾りを目印にしてやってくる。日本の神々を愛してやまなかった小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、松江で迎えた初めての正月には、羽織袴(はかま)姿であいさつ回りをしたという。

 ▼それなのに、神に供えたお下がりをみなで食べ合うものだったおせち料理は、デパートの目玉商品に成り下がった。神が宿る餅(もち)を食べて、その力をもらうのがお年玉だったのが、今や臨時の小遣い扱いだ。コンビニエンスストアは通常通りの営業だし、テレビ番組の多くは、常にもましてのばか騒ぎ。


★ま、とりあえず産経が神さま大好きなのは、よくわかった。神にも貧乏神・疫病神・死神と色々いるし。
「お年玉だったのが、今や臨時の小遣い扱い」そういえば、政党助成金は企業献金をなくす名目で導入されたのに、結局当の企業献金は復活、政党助成金はそのままとなって、今や政党の小遣い扱いですね。
「テレビ番組の多くは、常にもましてのばか騒ぎ」なるほど、身内のフジテレビを批判できるくらいの理性は辛うじて残っているらしい。


 ▼伝統的な行事が時代とともに変わっていくのはやむを得ないにしても、神様を迎えるのにふさわしい厳粛さが失われた正月は寂しい。平成12年、当時の森首相は「神の国」発言で袋だたきにあったが、全文を読むと実はいいことをいっている。


「全文を読むと実はいいことをいっている」全文の問題じゃなく、「”天皇を中心とした”神の国」が問題だからねえ(”天皇を中心とした”を省略したのは意図的か?)。


 ▼「人の命というものは、お父さま、お母さまから…もっと端的にいえば、神様から頂いたもの、神様から頂いた命はまず自分の命を大切にしなければならないし、人様の命もあやめてはならない」。金銭ばかりを拝んで、命を軽んずる風潮が強まるのは、日本人の多くが、現世を超越したなにものかに、畏怖(いふ)する心を失った結果ではないか。


「人の命というものは、(中略)神様から頂いたもの」+「天皇を中心とした神の国」、このあわせ技で読むと、”命は(神の中で一番えらい)天皇から頂いた物”となって、最終的には”天皇のために命を捨てるのは当然”となる。実際戦前は、子供が徴兵された時も”天皇から預かった子供をお返しする”という風潮があったわけだ。ちなみに教育勅語にも「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とあるように、国が戦争を起こした時は文句を言わず命を捨てろ、と言うのが戦前の思想。森や小泉・安倍らの右翼政治家や産経などの右翼新聞はそういう国が理想なのだろう。
★教育勅語はいいことも言っている(から復活しろ)等と言う言論は、一部だけを取り上げて褒め称えて都合の悪いところは隠そうとしているに過ぎない。まるで河豚は美味しいと言って、肝ごと食わせるかのような詐欺である。大体、「いいこと”も”言っている」なんて言い出したら、ほとんどのカルトは正当化されてしまうぞ。
★何にせよ、啓蒙思想以降の近代国家では考えられないような未開の思想にとらわれている様子。彼らの蒙を啓いてあげないと・・・


 ▼安倍首相のいう「美しい国」では、個人は両親や生まれた土地、さらに文化や伝統や歴史から、切り離せないものとして存在している。ゴタゴタ続きの新政権だが、その方向性は間違っていない。


「「美しい国」では、個人は両親や生まれた土地、さらに文化や伝統や歴史から、切り離せないものとして存在」江戸時代よろしく、納税者を土地に縛り付けるということかしら?
★それにしても、安倍政権での問題を「ゴタゴタ」の一言で片付けてしまう産経って・・・

(2007/01/01 04:59)