まさか自分ががんになるなんて・・・

日本人の二人に一人ががんになる時代とはいえ
自分はその一人には当てはまらない。
誰もが思うこと。

その一人にしかも一番の理解者の母が侵されるなんて
私も信じられませんでした。

その根拠は?と言われたら何も答えられませんが
とにかく私の母は頑張り屋という言葉の裏に
壮絶な過去がある人だったから。
そしてそれをみんな見て育ってきた自分。

こんなに苦労してここまで来たのに
またこんな苦しみを神様は母にあたえるのでしょうか?

母の娘に生まれましたが
私は母の真似は出来ません。

私の記憶を遡ると35.6年前、母は祖母の介護をしていました。
祖母といえども姑です。
私が1歳になったばかりの時
祖母は寝たきりになったそうです。
当時祖母は62歳。
母、32歳。
今みたいに福祉サービスはありませんでした。
そして紙おむつもない時代に
母は私と祖母のおむつを毎日毎日取り替え
毎日毎日三食のご飯を作り
そしてその上、自営業とあって仕事もしていました。
私は寒い冬に近くの川で母が祖母の布おむつを
凍えながら洗う姿を今でも覚えています。
雪の中も雨の日も欠かさずこのおむつ洗いは必須でした。

その介護生活、8年間。
昔の嫁の宿命だったのでしょうか?
だから今、こんなにも福祉が発達して
いろんなサービスがあることを目の当たりにするたび
母のあの川でおむつを洗う姿が切なく思い出されます。

祖母の介護はホンの序章で・・・
祖母がなくなってから間もなく
父の不祥事で我が家は奈落の底に落ちました。

博打に明け暮れた父の借金で
行方不明になり・・・
見つかった時には母は実家から勘当されてしまう有様。
父と別れたら母と私たち兄妹三人を母の実家で引き取るという
その提案も振り切り
自分の母親に迷惑かけたくないことと
当時まだ離婚はかなりの世間体が怖かったこともあり
母は父と離婚はせず
実家と離縁して・・・

そして世間からは「あの家は借金を抱えている」という
レッテルを貼られ
当時、子供の私たちも随分と世間にさらされました。
私はいじめにあっちゃったりで・・・
長男兄は高校中退という犠牲も。
お金、全くなかったんで。

でも子供たちのため!と
自営業をたたんで冷たい世間の目に耐えながら
パートに明け暮れ
そのときを乗り越えてくれました。

でもそれでは終わらなかった。

父はそれから何度も何度も同じように博打で借金を重ね
借金を返すために母はパートとアルバイト、
身体が許す限り働き続けていました。

その頃、まだ私たち兄妹は幼かったので
破産宣告とか全く思いつかず
母も無知だったのでひたすら働いては返済
働いては返済・・・エンドレスの生活が果てしなく続いていました。
父は当然、業界ではブラックリストの常連。
次男兄はそのブラックのおかげに
成績優秀でも就職を断られることもあり
母は本当に辛かったんだと思います。

私も長男兄も父のことでトラブルになり
結果、離婚しました。
でも縁あって私も兄も再婚して今がありますが・・・
母は父親のせいで結局子供に迷惑かけたことが
一番の痛手だと常々言っていたけど
ま、なるようにしかならないと私たちも強くなっていたし
父親は許せないけど
そう辛く思う母親にはいつもあっけらかんと努めました。

ようやく私たちも大人になって
父の不祥事を繰り返させないよう
次男兄が破産宣告して持ち家も手放し
無一文からのスタートをしたとき既に61歳。

今までの人生
これからで取り返すんだよ!と
無一文になった両親は田舎から突然
住み込みで働ける都会、神奈川県に越していき
7年間、働いていました。
早朝3時に起きて朝食とお弁当を作り
午後3時から夕食を作るという
結局貧乏暇なし人生を送り・・・

でもさすがに高齢ということで解雇されてしまう時を機に
次男兄が私が住む町に中古の住宅を購入してくれ
母はこの年にして念願の本当のマイホームを手に入れて・・・

こんな日が来るとは思っていなかった

それが口癖のようになっていた母。
その矢先にこの悪性リンパ腫に・・・

なんだろう、この人生。
母の苦労は結局報われないまま
この年になってこんな苦痛を味わせるのかって
母の人生を思うたび悔しくなります。

でも頑張り屋の母が存在するのは
この過酷な人生を乗り越えた自信なのでしょうか?

でも、不公平です。
苦労ばかりの母が不憫で仕方ないです。

・・・支離滅裂な内容にてゴメンなさい。


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