学白 gakuhaku

精神科医 斎藤学のコラム


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今回も引用です。性行動における女性の主体性に関して前回述べたことを補いたくなったので、前回参照文献として挙げたものを紹介しながら、そこに書けなかったものを付け加えます。引用するのは、最近翻訳版を出したクラウディア・ブラック著『性嗜癖者のパートナー』(誠信書房)に「あとがき・感想」として載せたものの後半部分。


乳児の「おしゃぶり」を「恍惚をともなう吸引」と呼んで手淫(性的自慰、自体愛)と結びつけたのはジグムント・フロイト(文献1)である。これを踏まえて、私(文献2)は指しゃぶりを原初の嗜癖と考えた。つまり嗜癖とは指しゃぶりから始まる一連の性自慰を指すというのが筆者の嗜癖論の根源である。物質摂取嗜癖者(例えばアルコール嗜癖者)の場合、薬物の作用下にある自己身体を他者とみなして愛着するという自体愛の存在を仮定しないと、あの「酩酊」への執着を理解しがたい。

そういうわけで私はあらゆる嗜癖には自体愛の側面があると考えている。従って自体愛を含む性嗜癖を正面から取り上げた著者(クラウディア・ブラック)の姿勢には敬意を払うのだが、性嗜癖が男性に特有なもの、その影響を受けるのが女性という書き方には疑問を感じる。確かに暴力を伴う性的襲撃や一連の性倒錯の加害者の殆どは男性であるが、性嗜癖そのものの頻度には性差が認められないのではないかと考えている。頻度の差は無いが、表現形には大きな男女差があるというのが性嗜癖の特徴なのではないか。このように考える理由のひとつは最近急速に目立つようになった女性自体愛のための道具(「大人の玩具」)の普及である。

イギリス映画『ヒステリア』(2011)は1890年代、表面上の性的禁欲主義がはびこっていたビクトリア朝のイギリスで、女性の間に抑うつ、悲嘆、心身不調を訴える女性が激増するようになり、婦人科治療の道具として所謂「電動バイブ」が誕生したエピソードを描いている(映画の冒頭で実話であると強調されているが、真偽不明)。舞台こそ120年前の昔だが、現在では日常一般的な生活道具と化しているという主張を前提に女性監督(ターニャ・ウェクスラー)によって作られており、エンドロールでは各時代を代表する世界の名器が実物写真として次々に紹介されている。それらのうち、1970年代を代表する名器として登場するのは我が日立社のHitachi Magic Wandであった。

アメリカ映画『Friends with Money(邦題[セックス&マニー]』(2008)では大学時代の仲良し4人組の中で一人だけ落ちぶれてメイドをしているヒロイン(ジェニファー・アニストン)が日に何軒も掃除して歩くのだが、どの家の引き出しにも電動バイブがあって、彼女はそれを時々使う(シーンは音だけ)。それが当たり前のように描かれていて、これも女性監督(ニコル・ホロフセナー)の作品だ。

これらは決して卑猥な作品ではない。それどころか、女性の視点から鋭く社会の陰翳を削ぎ取った「女性のための」作品になっている。そこに単なる小道具として無造作に登場する自体愛のための道具は何を意味するのか?

今を生きる女たちにとって上品ぶった男たちに性衝動を押し込められてパニック発作を起こしたり、泣いたり、まして性愛の主体性を男に奪われるなんてあり得ない。そんなものは日用品でどうにでもなる、ということなのではないか?

つまり自体愛は今や男の専有物ではなく、話題にしてはならないものではなくなっている。少なくとも一部のリーダー役の女性たちの間では。

性嗜癖の形態が男女によって違うという点で重要なのは共嗜癖(嗜癖者を過剰にケアすることによって嗜癖者の自立能力を削ぎ落とすこと)を嗜癖的性愛の一型と考えることである(文献3)。そう思うことは、「聖なる母」の神域が存在していた時代には禁忌だったのだが。共嗜癖に絡め取られた母親が、精液まみれの15歳や性的パートナーのいない35歳や妻との性交渉が絶えて久しい55歳を世話しようとしてまとわりつく気色悪さの正体は、これが生殖器抜きの性愛であるためだろう。性器だけは使わないという理由で共嗜癖を性愛から遠ざけるのはむしろ不自然だ。

このように女性自体愛の普遍化を認め、共嗜癖もまた女性という性別に固有の性愛と認めると、性的嗜癖の頻度にそれほどの差はないのではないかという私の推測も理解してもらえるだろう。ということで、さて、自分の妻やパートナーが女性同性愛に溺れていたり、手早い自体愛で満足していたり、自分たちの息子を世話焼きと統制で縛り上げることに熱中していたら、夫たちはこの本の中に描かれている「ロッジの女たち」のように「問題に気づいて愕然としたり、今までの配偶者の不自然な嘘の本質を見極めたり、『真実を語れ』と妻たちに迫ったりする」のだろうか? そして、この方面に理解のあるカウンセラーを捜し歩き、同性のカウンセラーのもとで「真の回復への道」を探るためのシェアリング(分かち合い)グループに参加するのだろうか?

アメリカ映画『Thanks for Sharing(邦題[私の恋人はセックス依存症]』(2012)では、性嗜癖者のためのシェアリング・グループにせっせと通う男(マーク・ラファロ)が描かれている。彼は5年間にわたって禁欲しているというのだが、なんとその禁欲には性的自慰が含まれるのだ。このハンサムがパーティで長身の金髪美女(グゥイネス・バルトロー)に出会う。この女性は癌で片方の乳房を失い再建術をおえたところ、という設定がいかにも「今」らしい。身も心も整った女性は新しいボーイフレンドを求めていて、禁欲男に接近し、すぐに親しくなるのだが、そこからが大変。性自慰を含む全セックス禁断中という男が理解できない。以前、ドラッグ嗜癖男のことで苦労していたこともあり、セックス嗜癖と聞くとおののいて去ろうとするのだが~、という設定。ここで私はヒロインと一緒に引いてしまった。シェアリング風景そのものは嗜癖治療に必須で、私にもお馴染みなのだが。

筆者の運営するセックス嗜癖者プラス性倒錯者(主として痴漢と窃視症者たちで、弁護士や司法機関を通じて来院する)のグループ(男性限定)では性自慰を禁じていない。それを避けようと努力するのは勝手だが、禁欲を守れないことで生じる罪悪感が倒錯的性行為を促進することを知っているからだ。

セクサホリックス・アノニマス(SA)では、「配偶者とのセックス以外のいかなる性行為も(性的自慰も含めて)しない」ことを「sexually sober(性的にしらふ)」と呼び、この状態を保つことを仲間たちに勧めている。この方針は日本(SA-Japan)においても変わらない。

それはそれで良いと思う。しかし治療者としての私は、この方針を私の手がける治療ミーティング(シェアリング・グループ)に採用しようとは思わない。配偶者とのセックスだけを他の性行為から区別するという考え方は、極めてキリスト教的な家族聖域論に過ぎないと思う。そのような意見を排除はしないが、彼らの言う「性的しらふ」が性倒錯や衝動統制不全や性的嗜癖に悩む者たちの治療ゴールになり得るとは思わない。私たちは勝手に湧いてくる性衝動や渇望に意識的であって良い。ただしそれを行動に表現して自分自身の社会的評価を下げる必要はない。偽善者になる必要はない。だから我が内なる性的な欲求という健康な生命力を自覚するだけで自己卑下に陥るのはナンセンスだ。内なる生命力は私たちを創造的にする。そしてその変化が他者と繋がるきっかけを作る。

いずれにせよ、性を語ることは難しい。これを書いていて、改めてそう思う。


文献
1)フロイト,S.『性欲論3編Ⅱ小児の性愛』フロイト著作集5,人文書院, 1968(原著1905)
2)斎藤学『嗜癖の起源、およびその暴力との関係』「アルコール依存とアディクション」     誌11巻2号,99-108頁,1994
3)斎藤学 『エロティシズムとアディクション;現代人の恋愛、共依存、親密性』「アディクションと家族」誌, 26巻1号, 27-43頁, 2009


(追記)
以下に上の引用が言及していないことを指摘しておく。

女性に固有の自体愛の一つは化粧や衣装による変身である。女性の場合、男根のように目立つ標識を持たないことから、性的関心が性器に統裁されることが比較的少ない可能性がある。この「可能性」は「女性は、その全身が性器」と言えることにまで及ぶ。

露出狂(exhibitionism)の場合、男性では男根露出が多いが、女性では全裸でのストリーキング(streaking)の形を取るのは、その例証のように思う。「女性は全身が性器」という仮説を許容すると、女性が外出にあたって行う衣服選びも化粧の工夫も、他者の視線という性的刺激を前提にした性的行為ということになる。男性にこうした側面が皆無とは言えないが、切実さという点では女性ほどではないのではないか。

男性性を維持したまま、化粧と衣装だけで身のうち女性性を顕在化させようとすると異性装(transvestite)と呼ばれるものになる。女性の場合、衣装選びや化粧は身体そのものの痩せ・肥りに及び、過度の痩せや著しい肥満は自らが性的存在であることを否定しようとしているのではないかと思う。
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ここに暫く戻れなかったのは大急ぎで「意見書」を書いていたからだ。意見書というのは、私の精神科医としての仕事のひとつで、弁護士からの依頼を受けて、特定の人物の精神状態について記すこと。
似た仕事に「精神鑑定」があり、これは裁判所の判事からの要請で書く。指示ではなく、要請なので、断ることも出来る。現に1週間ほど前にも断った。関心をひく殺人事件ではあったが、前に来た仕事が終わらなかったので諦めた。
その仕事は「不倫を働いたある女性がセックス依存か否か」について判断して欲しいというものだった。以下はその考察の一部。

そもそも不貞とセックス依存とは関係ない。不貞は倫理、道徳(特に婦徳)の問題であり、一部の国では法律の問題でもある。セックス依存は欲求昂進(渇望=精神依存)という医学生理学的問題である。

所謂不貞は、結婚生活に伴う退屈、拘束感、空虚感、寂しさからの脱皮を図るものであり、当事者にとっては跳躍である。極めて主体的な行動であって、依存症者(嗜癖者、アディクト)が生理的要求に屈服して行為表現するような「生理的・心的欲求への隷属」ではない。

セックス依存(アメリカ精神医学協会は「依存dependence」の語を、「嗜癖addiction」にもどすことを決定し、2013年5月から実施されているので、現在の精神医学論文では「セックス嗜癖」ないし「セックス・アディクション」と書かれる)は、他のアディクションと同様、有害で貪欲な欲求充足行動であり、ひとつの欲求充足行動が更なる欲求を求めるという「充足パラドクス」(斎藤学『嗜癖』、土井健郎他編・異常心理学講座第5巻、みすず書房1989)を中核障害とする強迫反復行動である。

その基本形は自体愛(性的自慰 masturbation)であり、ジグムント・フロイト(フロイト・S.『性欲論3編Ⅱ・小児の性欲』〔原著1905〕、懸田克躬他訳、フロイト著作集・5、人文書院)が指摘したように「乳児・幼児のおしゃぶり」から始まる始原的衝動行動である。これは後年、異性ないし同性の性対象との性交渉にまで発展することもあるが、成人同士の性的接触は実際のところ、極めて多大な労力ないし代償を必要とするので、実は、こうした成人対象性愛そのものの占める割合は、成人生活の中で極めて少ない。多くは成人に達してからも自体愛ですませており、近年は電子通信機器の発達により、いわゆるアダルト動画の配信が有料無料で行われたり、スカイプ画像を介した疑似性交渉で、数日のうちにかなりの時間と大金を浪費したりする社会現象も見られ、一部の青年、中年はこれによる借金が原因になって筆者の外来患者となる。彼らはセックス嗜癖者である(クラウディア・ブラック著、斎藤学訳「性嗜癖者のパートナー;彼女たちの回復過程」誠信書房、2015.特に斎藤学による「訳者あとがき・感想」)。

こうした自体愛に充足できない者の中から発生するもののひとつはパラフィリア(paraphilia性倒錯)で、これには異性(殆どは女性)の靴や下着にのみ固有な執着を見せるフェティシズムや電車内などでの痴漢行為、更には窃視狂や露出狂が含まれ、これらもまた警察に拘束されるなどの難儀に駆られて筆者の外来患者となり、筆者の意見書を求める。彼らもまたセックス嗜癖者であり、受刑後ないし執行猶予中に、その治療を命じられる。

パラフィリアの中には成人の性愛対象を避けて小児(同性も異性も)を狙うペディアトリック(小児性愛者)がいて、その被害者は疫学的統計よりはるかに多く、この隠れた被害者たち男女が成人期に達して、性倒錯、境界性パーソナリティ障害、難治性うつ病などの罹患者として精神科外来に登場してくることが希でない。かくして成人性愛対象からの逸脱は次世代の成人精神障害者を産む。

繰り返すが、異性の性愛対象と性交渉を持つのは難しい。婚姻とは社会から適正を保証された異性対象性愛(heterosexuality)の制度であり、結婚した二人は様々な性的タブー(その代表は近親姦タブー)が張り巡らされた家族の中で、かろうじて「安全な異性対象性愛」を成就する。だからこそ、この暗黙のルールを無視する不貞(adultery)が一大スキャンダルとして位置づけられてきたのである。

しかし実際に行われている性交渉の多くは、婚姻関係にある配偶者以外の人々との間で行われており、その多くには金銭の授受が伴う。売春である。昨今、セックス・アディクションを主訴に筆者のもとを訪れる人々の多くは、この種の売春異性愛による借金によって、あるいは、その実態を知った配偶者等の怒りによって、筆者への受診を強制された人々であり、彼らもまたセックス・アディクツと呼びうる。このような人々と本件の当事者との相違を以下に述べる。(略)

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毎日の外来で相変わらず多いのは、40歳だの38歳だのという良い歳をした「我が子」たちに家を乗っ取られたという親たちの訴えである。所謂「ヒキコモリ」だが、中には兄弟そろって大卒で、数年の職歴があるのに引き籠ったままという場合もある。私を頼られても魔術があるわけではないが、憔悴した老婦人たちと会話すること自体に意味がないわけではないと考えているのでお話を伺っている。そのうち話題のヒキコモリ当人が自分の悩みについて相談してくれるようになるかも知れない。事実、私の外来を訪れる男性の多くは、当初母親の相談に応じていた人々である。ただ、母親に会ってすぐに当人が登場という場合は、今回紹介する例のようにうまく行かない場合が多い。何事も「好機」という時があるもので、これは無理をして作れるものではない。

ヒトは婚姻して家族を作り、その中で子生みし、子育てし、そして我が子たちを社会にランチする(launch=新造船を海に向けて進水させる、ロケットを発射する、新製品を市場に出す、産み育てた子を社会に出す)。こうして私たちはこれまでの歴史を紡いできたのだが、
20世紀に入って、こうしたヒト固有の次世代作りが滞りはじめた。日本の場合、戦後30~40年たって、親にあたる世代がそれまでに無いほど豊かになった頃から、その豊かな親が子どもたちのランチを焦らなくなってきたのだ。

ヒキコモリは20世紀型市民社会の基盤であった核家族が産み落とした奇形児である。彼らが増殖すると社会からは新婚さんや新生児が居なくなり、結果として核家族社会の解体が促進されることになる。その結果今や、両親と彼らの血を分けた子どもからなる核家族世帯は日本の全世帯の3分の1以下になった。代わりに急増しているのは高齢単身世帯や中年単身世帯で、これらの一部はヒキコモリのなれの果てである。

彼らの多くは少年期ないし青年期に生産者ないし生活者としての訓練を受けていないので、一人前の稼ぎがない。そのため親の年金を横取りするか、生活保護を受けるしかないから、消費者としての価値も低い。とは言え、我々の社会の一定割合は彼らに占められているのだから、彼らを活用するしかない。これという単一の解決法はないので、事例に合わせて工夫してみるしかないだろう。職業訓練のシステムを使ったりして。

今朝来たのは60代前半の母に連れられた30代半ばの男。母親とは以前に数回会っていて、当人がその気になったらお会いしましょうと伝えてあった。しかし直接会った息子は、治療の必要も感じていなかったし、そもそも現状を危機的なものとは考えていなかった。サラリーマンと聞いていたが、どことなくだらしなく、全体の雰囲気がすさんでいた。数年にわたってIT系企業数社を渡り歩いてから退職して引き籠もり、ここ3週間は横浜だか川崎だかのキャバクラでボーイを務めているそうで、「今の仕事は充実しているし、自分に合っている」と言った。要するに彼は困っていない。医師は困っていない人に対応出来ない。

この辺りから隣に座った母親が口を挟むようになったので、当人にはいったん退席して貰って母親の言い分を訊くことにした。ところが彼は明らかに母親を一人にするのをいやがった。母親とだけ話してみてわかったことは、彼女が息子の行動を殆ど把握していなかったことである。キャバレーのボーイ(というより客引きと思う)をしていることも知らなかったし、息子につきまとう「危険な感じ」にも無頓着を様子だった。「息子さんの将来は危ういでしょう」と言ってみたら、さすがに母親は動揺した。「息子さんは薬物か交通事故が犯罪か、何か問題があると思いますが、ご存じですか?」

「え!まさか」というのが母親の反応だったので、私は「治療の好機は今ではないと思います。そのうちやってくるから、じっくり待ちましょう」と言った。息子の行状に関する母親の無知は不思議だったが、そのうちわかるだろうということにして、次に息子さんとだけ会った。

前に述べたように彼の顔、というか全身から「気だるく、投げやりな感じ」が漂ってくる。口角には正体不明なニヤニヤ笑いがあった。違法薬物の使用歴について聞いてみると、「それはないが私は悪いことをいろいろしてきたんです」という。高校2年で部活を引退すると、3年からはコンビニでのバイトに精を出したが、この頃から万引きが常習化したそうだ。どういうわけかこのことを母親は私に言わなかった。知らないのだろうか。

「それだけ? 前科はないの?」と会話を揺さぶってみた。「あぁ、ありますよ。酩酊運転で。前科一犯です」。「あぁ、やることはやってるんだね。でも酩酊運転だけ? 万引きにしたって10代終わりの頃のことですよね。20代、会社員になってからのことを聞きたいんだけど」。この質問は無視され、彼は母親と私との面接がいつから始まったのかを問い始めた。そして「先生は母に何回か会ってるンですね?今日が始めてじゃないんですね?」。「だから言ってるでしょ。お母さんが、あなたのことを心配してここに来たの。それで、あなた自身に会ってくれないかと言われたので、〈いいですよ〉ということで今日の面接になったわけ。それより、あなた、今なにか困っていることないの?」「私は今の生活が合っていて、別に困ってないんですよ」。

話が噛み合わない。というか噛み合わせないようにされている。で、私はこう言った。
「あのさ、さっきから話が通じないで困っているんだけど、私は別に警察じゃないから、あなたに関する事実なんて知らなくてもいいの。ただ、あなたはそのうち私を必要とするようになるから、それがどんな形になるのか知っておきたいと思ったわけ。でも、あなたの方はこの会話を今日限りで打ち切りたいんでしょ。じゃ、止めるよ。ただ、〈あなたはそのうち自分でここへ来るようになる〉と私が言ったことを覚えておいてね。では、今日は終わりにしましょう。ここに来たいと思ったら予約の電話を入れてね」。

この後もう一度母親と会うつもりだったのだが、息子の方は母親と私が今日初めて会ったわけではないことを、もう一度確かめる質問を挟んだので、それを否定して退室させた。診察後の受付では母親が次の予約を取ろうとするのを阻止しようとしたそうだ。

ヒキコモリ症例への介入の初期には、この種の会話が多い。治療者側からみた会話の要点は、いずれ私(治療者)がヒキコモリ当人にとって必要な人になるという断言(予言)を照れずに入れ込むところにある。
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先々週土曜日(2015/6/27)早朝8時過ぎのANA広島行きの飛行機に乗ろうと13番入口から入って69番ゲートに向かっていた。15分はかかりますよとグラウンド・スタッフに警告されていたのでなるべく早足で歩いていたら、荷物運びのカートを操車している初老の男性に「乗りませんか?」と声をかけられた。

一泊二日のこぢんまりしたワークショップと聞いていたし、朝の支度も面倒だったので、いつも使っているバーバリーの書類鞄をそのまま提げて出ようとしたのだが、洗面セットに最小限の下着を入れたズタ袋がもうひとつ欲しくなって、振り分け荷物のヨタヨタ老人と見破られてしまったようだ。お声をかけて頂いたのは有り難いことだが折角の運動のチャンスなので丁重にお断りして歩き続けた、と言っても動く歩道を乗り継いだだけだが。

年に数回の広島ワークショップのうち、空港隣接のホテル内コッテージを使うものはアドバーンスドコースというか、数年来私との会話が連続している方々なので、各自との対話には摂食障害などの症状行動の話題など出て来ない。「そんな時代もあったねと、いつか笑える時も来る」と中島みゆき風の「時代」がきてしまっているのが、私たちの言語空間だ。

例えばある男性(20代)は血まみれの臓器と解体した四肢という自己像を直視できるようになってから、急速に自己意識の統合が進んでいる。このあたりの「自己意識の統合」問題については他日、ゆっくり話したいので今回は省略。とにかく今の彼は、その身体を東京に運んで私(「まとまった自己」のモデル)と日常的に接するための工夫(職業と住まい)を具体的に考えられるようになっている。

他の女性(主婦)は、ここ数年来の文章教室での努力をついに恋愛小説への挑戦へと進めた。いよいよ小説なるものを書いてみたところ、文章教室での評価は散々だった。というのも、ヒロインが愛の対象とした男との出会いがきちんと書けていなかったからだ。ヒロイン、つまり自分の性衝動に直面するとひるんでしまうので、男と出会うあたりの話しに現実味が欠ける。

その主婦の話を聞きながら、一昨日会ったばかりの村山由佳さんのことを連想した。村山さんは今や当代きっての恋愛小説の名手だと思う。その彼女の比較的長いロマンス小説を読み終えたばかりだったこともあって、素人と玄人の間にあるのはスキルの問題だけなのだろうかと考えてみた。要するに、人を小説家という「病人」にするのは何か?ということだ。

村山さんはその日、私に呼ばれて私の集団精神療法の場へやってきたのだった。その場にいた所謂患者さんたちは、いつもより多く50~60名くらいか。時々このようにゲストを呼んで来診している皆さんと交流して頂いている。以前お招きした際は、彼女の著書『放蕩記』が話題になっていた頃で、私たちの話の中心も「母親問題」だった。今回の話題は更に絞られて「愛とセックス」。

後日、この日会場にいた女性が「彼女のアルトの声には癒やされる」と言った。なるほど、そう言われればそうだ。はっきりした標準語(実家の神戸のことを話すとき以外は)。話の内容に緩急はあっても、落ち着いたゆっくりした発音で、舌足らずになることがまったくない。この会話法で、かなり具体的なセックスの話をするから、意外性がある。刺青を入れているから華がある。以前は3カ所だったが、背中の方に増えたと笑うからショックを受ける。その日の出で立ちは地味な黒に見えたがシースルー。ミーティング終了後舞台にいる村山さんを取り巻く女性たちの注文に応じて、胸と背中のタトゥーの一部をごく自然に眺めさせていた村山さん。

人の顔というものには好みがあるだろうが、彼女の顔から悪意、ひねくれ、憤りのようなものを読み取るのは難しい。嘲り、冷笑、皮肉の類いも似合わない。頽廃、疲弊、荒廃とは無縁。というと惚れただけだろうと言われそうだが、そういうわけではない。というか、惚れるというより、親戚縁者の中のケナゲな娘と思えてしまう。私、老人だから。

ケナゲな勉強少女が汗をかきながら、「小説家」になっている。それがうまくいって無邪気に笑っている。夜の9時過ぎまで私たちの酒に付き合い、素面のままジープに乗って去ったかっこいい村山さん。





で、彼女が「作家」とすれば、小説は書けないと言いながら、結構達者なエッセイで日常の鬱屈をブログに載せたりしている人々とどこが違うのだろう。作家と言ってもいろいろいるし。

決定的な差は視点や手法といったところにあるのではなくて、覚悟の質量というか根性にあるのかも。私のところへ患者としてきていた人の中で、歴としたプロの作家と言える人は3人。うち一人は「中村うさぎ」のペンネームで有名な人で、今よりずっと名の出ていなかった頃にショッピング・アディクトとして来院なさっていたが、そのことを人前でも堂々と言うので私もここに書けるわけだ。

後の二人のウチの一人は残念ながら病没なさった。他のおひとかたとは、ここ何年かお会いしていないが、「なぜ作家は作家なのか?」という問いにスッキリと答えて下さった、と今になって思う。その人はプロの作家として多産であった頃、貧乏だった。一息ついたところで結婚した相手はお金持ちで、しかも「好きにお書き」と言ってくれる素晴らしい男性だった。で、結婚して数年たってみると、彼女は気力を喪い作品を出せなくなってしまった。「うつ病にでもなったのではないか」と思ったから、私のところを訪ねてくださったのだ。その彼女から「書けるようになりました」とか「書くっきゃないんですよ」とか言う言葉が出て来たのは3年前くらいのことだった。

夫の会社が傾いて、豪邸を引き払いそれまでの何分の一かの狭さの家に移ってから、彼女は気力を取り戻し、再び多忙な作家生活に戻って行った。

病気というものの本質の一つは「その人から個性を奪うこと」だと思う。結核患者はドイツ人でも日本人でも変わらない。フランス留学中一番ほっとした寛げる場所はサンタンヌ病院の病棟の中庭だった。その庭にいた人々は日本でなじんでいたのと同じ病気・精神分裂病の人々だったからだ。

このことと関連する、もうひとつの病気の本質は「自由の喪失と選択肢の減少」だと思う。
病人になると、その人に固有の動作の幅が喪われて、病気に固有の動作が目立つようになる。

COPD(慢性閉塞性肺障害)の人や、SLE(全身性エリテマトーデス)の人は、病気の進行に連れて、その人の個性より、その病気の個性が顕著になる。私たちが嗜癖(アディクション)を病気と定義するときに念頭に置くのもこのことである。

アディクションは人の生につきまとう寂しさへの怯えに備える簡便でしかも強固な防衛法だが、その進行にともなってその人から個性を奪い、その人は姓名で呼ばれるより「ジャンキー」(アヘン嗜癖者)などと呼ばれる機会が多くなる。

作家と呼ばれる人は明らかに書くことを渇望し、淫している。しかも一つ書き終えると、次が書きたくなるようなのでアディクションに特有の「充足パラドクス」(渇望が充たされることで、かえって渇望が強まる現象)の定義に一致している。一見、書くことで個性を磨いているようだが、書かねばならないという強迫に取り憑かれている点に個性はない。その結果、生み出される作品は、作家業という病気がもたらす爛れや膿のようなものだが、その異臭が読者やファンを魅了するのだから、所謂「ポジティブ・アディクション」(プラスの嗜癖、例えばランニング、ワーカホリズム、ストイシズムなど)に属するものだろう。
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シャーデー・アデュのNo Ordinary Loveを聴きながら、村山由佳『ありふれた愛じゃない』を読み終えた。シャーデーのことなど全く知らなかったのだが、小説の半分過ぎのあたりからこの名前と曲名が出てきたので、アマゾンでCDを購入というかクリック。それが日曜の昼で、それから出かけたのが神田淡路町にあるCSPP(カリフォルニア・スクール・オブ・プロフェッショナル・サイコロジー)の東京キャンパス。午後5時半までそこで講義(アディクションとBPDとうつ病の遺伝性、など)して7時頃帰宅すると、昼に注文していたCDが届いていた。夕食の席に着こうとしたら、少量のステーキ(このところ肉食が苦手になった)があり、妻がワインを選んで、という。取りあえず貰いものの赤ワイン(Haut-MédocのChâteau Lanessan 2001)を選ぶと、ワイングラスを持ってきた妻が「父の日だから。私の父(故人)の代わりに飲んでね」と。我が娘たちからは電話も来ない。そんなことをしても機嫌を悪くさせるだけとわかっているせいかも。

で、食後はシャーデーを聞きながら、村山さんの小説を読んで過ごした。こんなに長い恋愛小説を途中で投げ出さずに読んだのは久しぶり。面白かった。特に終盤、ヒロインの真名が仕事を辞めてタヒチに永住しようとするところが。

前半、慎重な堅物として描かれていたヒロインは終盤で驚くほどに変わるはず。推理小説を当てた満足もあったが、それがタヒチの自然の変化と抱き合わせて描かれていて秀逸。小道具に使われるタトゥーも印象的で教えられた。これを読む人は筋書きでは説明出来ない面白さに酔わされるだろう。

このヒロインは小心に見えて実は「好奇心と冒険心が並みでない」と恋人に見破られている。この本の著者にそっくりだ。今週の木曜日、私のクリニックにお招きして、そこの利用者の皆さんと交流して頂くことになっている。楽しみ。

      村山由佳・斎藤学『「母」がいちばん危ない』(大和書房)

「母」がいちばん危ない


このところ、月に1 回くらいずつ私の運営する精神科デイケアセンターにゲストをお招きして講演や対談をして頂いている。2月は内田春菊さん。彼女が監督した『私の母ちゃんBitch!』のDVD版を皆さんに観て頂いた上で、私と対談して頂いた。5月は伊藤比呂美さん。

伊藤さんとは以前、一緒に摂食障害についての本を作ったことがある(『あかるく拒食、ゲンキに過食』、平凡社)。そのときから不思議な人と思っていたが、今回お会いして、その威風におののいた。何というか、今はもはや山姥。すっかり当てられ、あれからずっと説経節の世界にはまっている。その頭で村山由佳さんの小説世界を覗くものだから、奇妙な味わいにならざるを得ない。で、今読んでいるのが塩見鮮一郎『中世の貧民~説経節と廻国芸人』文春新書、2012年。こちらは未だ読了に至らず、ゾンビと化した「おぐりほうがん(をぐりほうがん=小栗判官)」が載せられた土車(つちくるま)は著者の蘊蓄に翻弄され、丸子(まりこ)の宿にも着いていない。

この他に読んでいる本がもう一冊あって、これは専らベッドサイド用。でも厚い。しかも堂々たる内容の本だ。山我哲雄『一神教の起源~旧約聖書の「神」はどこから来たのか』(筑摩選書、2013年)。

先日の「学白」で『人間モーセと一神教』に触れたが、この本は第1章で今までになされてきた様々な妄説・珍説が廃されており、そもそも出エジプト記を始めとする「旧約=歴史の反映」説が論駁されている。その中に「天才フロイトの珍説」というくだりがあるので、どうしてもよみたかったし、現在の考古学的エビデンス絶対主義についても知りたかった。といっても著者自身がそうした過激派というわけではなさそうだ。ただし、ダビデやソロモンの栄華については、そのようなものの実在がブリトンのアーサー王伝説程度の歴史的価値しかないことについては納得せざるを得ないようだ。ところで私はなぜこんなことにこだわっているのだろう。延々と。多分、精神療法的方法論が考古学と神話の関係によく似ているからかも知れない。
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