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精神科医 斎藤学のコラム


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来る9月11日(日)、「第11回日本家族と子どもセラピスト学会公開講座」を開催します。

テーマは「ジェンダーと性行動」です。

当日は、午前中は私の講演、午後からは内田春菊さんも加わっての対談とディスカッションの予定です。
ふるってご参加ください。

詳しくは、IFFのホームページをご覧ください。

以下は、講演の概要についてのコメントです。

 人は対象愛からの「すり替え充足」としてさまざまな形のアディクションを選ぶ。「すり替え充足」とは真の欲求や渇望を、あり合わせのもので間に合わすことを言う。あり合わせのものとは、例えば、アルコール・カフェイン等の薬物、ギャンブル、ショッピング、過食嘔吐、窃盗などである。当然ながら性器を使う自慰も「すり替え充足行動」である。また、恋愛や共依存と呼ばれる陶酔的人間関係もこれに含まれる。
 「すり替え充足」という概念を用いると、日常生活の細部にもさまざまな性的表現が隠されていることが見えてくる。
 男性器が外部に露出してわかりやすいのにひきかえ、女性の方は曖昧なので、性感覚は身体全般に広がり、男性の場合より象徴化され隠喩化され洗練されている。その結果、体形を整える、衣装を選ぶといった身体に関わる行為にはすべて性的メタファーが関与することになる。また、口紅をはじめとする化粧品やコスチュームの工夫なども、それ自体がある種の性行為である。
 このように考えることによって、ショッピング(買い物)・アディクションが圧倒的に女性に多いことの説明がつく。要するに、性的自慰とショッピング・アディクションとの間に明確な差異をもうけようとは思わない。
 この機会に、ジェンダーとアディクション、性行動のかかわりについて考えてみたい。
(斎藤学)

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前に紹介した映画『エル・クラン(血族)』は、家族の中で起こっている悪や非道を黒いヴェールで隠すという主婦の役割について述べた。

次に紹介する映画は『太陽のめざめ』(la tѐte houte)で、原題(フランス語)は「頭をまっすぐ上に」ないし「胸を張って」という意味です。この映画は、10代少年が周囲のルールを受け入れる過程を描いています。

以下、私のコメントです。



映画『太陽のめざめ』について


原題のla tѐte houteは「頭を上げて」とか「胸を張って」みたいな意味だろう。17歳のマロニー(ロッド・パラド)が何に対して胸を張っているかと言えば、自分が自分の攻撃衝動に勝てるようになったこと、そして、その結果として生まれた自分の子を誰かに見せてあげようとしているからだろう。

この映画には攻撃衝動が統制されてゆく過程が描かれている。子どもは母の胎内で満9ヶ月を過ごし、産み落とされてからの24ヶ月までに二足歩行と言語、視覚認識、排泄の統制といったヒトとして生きるための基礎技術を学習する。

この出産前後33ヶ月の課題になんとか合格できたものだけに課される次の発達段階があって、近親姦タブーの遵守を始めとする個体の社会化とそれに伴う罪悪感、排泄訓練の徹底による恥意識の強化と清潔意識の強迫化、家族を介した民族文化の継承などがこれにあたるが、攻撃衝動の統制もここに含まれる。

攻撃衝動そのものは生誕直後から「泣く赤ちゃん」や「噛む赤ちゃん」として観察される。ヒトの子は空中の酸素と親の愛(関心とケア)をあてにして生まれてくる。我々の子は生理的早産という無理を承知で生まれてくるので、周囲からの手厚いケアが無ければ生き残れない。赤ん坊の真っ赤な顔は周囲の関心を求める必死の救助信号、それはつまり「怒り」である。原初、怒りが私たちを救ったのだ。この救助信号が無視されたままに終わると、「絶望の静けさ」に移行する。その段階で助けられた乳児には「生存不可」の刻印が押され、例え思春期を越えて生き延びても、死がいつも隣にいる感覚から逃れられない。機会を見つけては死のうとするし、愛する者から差し出される救いの手にも懐疑的になる。所謂「育てやすかった子」、サイレント・ベビーが思春期になって死に向かう猪突猛進や、リストカットなどの自傷行為、売春、窃盗などの慢性自殺とも言える自己破壊行動に熱中するのはそのためだ。

一方、「噛む赤ちゃん」という概念はウィーン生まれでフロイトの弟子たちから教育分析を受けたメラニー・クラインがロンドンに定住するようになってから提示したものだ。これは既に「良いオッパイ」と「悪いオッパイ」という乳児期の妄想・幻想として一般にも知られるようになったことなので、ここではひとつのことを除いて省略する。

新生児は母親そのものという全体対象を把握できない。だから彼らの悪意や邪気も内発的なものであって、外界(母など)の悪意を反映したものではない生得のものだ。人は生まれつき邪悪な妄想を抱える存在。そこから他者への善意と思いやりを育てて行くもの。現代精神分析は、この「思想」から始まった。

人が邪悪な迷妄から脱するのは、生後1年を超えた頃とされている。それはオッパイ(部分対象)でしかなかった母が全体像としての愛着対象(全体対象)として認識できるようになり、それに伴って怒りとは異なる感情としての抑うつとに出会う。同時に母(全体対象)が自分を捨てるかも知れないという強烈な不安にも直面させられる。これを「見捨てられる不安」と言い、ヒトは生涯にわたって、これと対応し続けなければならない。

こうして2歳までの基礎作業の中で抑うつ感と見捨てられ不安を背負わされた幼児たちは次に「人倫(人の道)」というものを身につけるという課題に直面する。この課題を「社会化」と言い、その中核にあるのは「懲罰の受容」であり、懲罰する人の中に愛を見いだせるようになることだ。

この映画は、その道の険しさを描いている。人倫というルールに沿って歩くのは空中に張られた1本の綱を渡るようなものだ。この映画には綱渡りのメタファーのように細い廊下が何度も出てくる。監督(エマニュエル・ベルコ)は、この課題について肝心のことを掴んでいると思う。この映画のサンプル版DVDを何度か見ているうちに、筆者はこの映画の作り手と既に出会っていると感じた。それが間違えでないことがわかったのは、これを書いている途中、数十分前のことだ。

改めて与えられた資料を見直し、彼女が以前に『なぜ彼女は愛しすぎたのか』という切な過ぎる映画の作り手であったことを知った。それは30歳を越え、自分なりの仕事にも没頭できるようになった女性が、15歳くらいの少年に恋してしまうという映画だった。私たち観客は、この映画を通して未だ少年でしかないものの「何気ない(イノセント)」な残酷さに直面させられた。今回の映画に表現されるマロニーは、あの少年の「無邪気な残酷」を、よりわかりやすく造形し直したものだと思う。少なくとも筆者は「あぁ、あの人だから、この映画を撮れたんだ」と納得した。

で、その「処罰の受容」が身に入る条件とは、誰かに無条件に愛されるという体験を指す。普通なら母か母代理がこの役割を果たすのだが、あまりにも早くまだまだ男と遊んでいたい時にマロニーを産んでしまった彼の母にとって、この役割は重すぎた。代わってテス(ディアール・ルーセル)という謎の少女が、その役割を引き受ける。映画の中のテスは殆ど説明されていない。ただマロニーという暴力少年を愛するのだ。彼の子を腹に宿すほどに。

観客から見えるテスは女性というより、少年そのもので二人はゲイ・カップルみたい。むしろ指導員のヤン(ブノア・マジメル)が離婚することになったと言ったとき、マロニーがヤンに「ジュテーム」という場面にエロティスムを感じた。もしかしたらテスはヤンの女性版なのかも知れない。そのことを監督はテスとヤンの格闘技を介した絡み合いをマロニー(当時13歳)が羨ましそうに見ているという映画冒頭の場面で説明した、と筆者は思う。

少年拘置所を脱走したマロニーは、正に人工流産の措置を受ける寸前のテスを、手術室に乱入して助け出す。この瞬間、マロニーは17歳とは言いながら大人の男になった。

頭をあげて,誇らしく歩くマロニーの懐には赤ん坊がいる。泣いてはいないが困惑しきっている赤ちゃん。赤ちゃんにしてみれば、監督が演じて欲しい表情など作れないの。こうしたドキュメンタリー・タッチを時々挟むのもベルコ流なのだろうか。

いずれにせよ誇り高い17歳の男は赤ん坊を家裁判事フローランス(カトリーヌ・ドヌーブ)に見せに行く。判事は「かわいい」と言い、マロニーは「イノサン」と応える。字幕では「良い子だよ」となっていたはず。それにしてもなぜここで、カトリーヌ・ドヌーブなのか? それは多分、この役割に託された重さを表現するためだったろう。判事は人が人であるか否かを裁く人。この映画は「人に裁かれる必要」について描いているので、判事こそ、この映画の背後にいる主役なのだ。

8月6日(土)よりシネスイッチ銀座ほか、全国順次公開中
http://www.cetera.co.jp/taiyou/
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暫くの間、キーボードに向かって字を綴るのが億劫になっていた。でも、チョコチョコ書く仕事の注文は舞い込んでいて、大分たまってきた。それらを紹介するという省力型の書き方をして行くつもりです。

まずはここ数ヶ月の間にきた2本の映画についてのプレス・リリースやパンフレット用の原稿。こうしたものはここにでも載せないと読む人がいないだろう。私としては限りある時間の中でそれなりに一生懸命書いたものなので、皆さんに読んで頂きたい。当の映画を観る機会があれば観て欲しい。


これを書いたのは2016年6月14日。プレス・リリース用にということだったが、間に合ったのだろうか。ゲラを校正した記憶があるのでパンフレットの一部にはなっていたと思う。「エル・クラン」とはスペイン語で「血族」というような意味。以下、映画配給の会社宛に送った文章である。


「エル・クラン」という映画について

あっけにとられる映画だった。特にラスト、「その後の彼ら」の文字記述が強烈で、「ちょってまってよ」とか「嘘でしょ? 」とか叫びたくなった。思い出すのは『アメリカン・グラフィティ』(1973)という映画で、やはりエンドロールに出てくる「登場人物のその後」に心が動かされた。

この映画は1980年代前半(1982~1985)のアルゼンチンで起こった実話に基づくという。一見平和なブエノスアイレス郊外サン・イシドロ地区の豊かそうな家々、それぞれの中では健全な家族が平凡で少々退屈かも知れない日常生活を送っていそうだが、実はその中の一軒で拉致されたものたちがうめきながら殺されていったとなると怖い。

同じような事件が日本にもあった。それも同じ80年代に。東京の足立区綾瀬(神奈川県綾瀬市ではない)にあるその家は玄関側に南欧風のデザインを施した2階建て。当時の建て売り住宅の殆どがそうだったように隣家とは猫が這うのもやっとというくらい密着していたというのに、1989年11月以来、その家の2階から聞こえてきていたはずの「やめて、助けて」という叫び声に反応した近隣住民はいなかった。翌年春にボロキレのように捨てられた少女の遺体が発見されてから、近所の小学生(らしい)少年がその叫び声を何度も聞いたとカメラの前で言った。その時の動画は今でもYou Tubeで見られる。同じ声が隣人たちに聞こえなかったはずがない。まして、その家の2階を監禁場所として提供した子(高校2年相当の不登校児)の父や母が異変に気づかなかったと言い張るのは不自然だ。しかし彼らはサイレントなまま、そして世間もその沈黙を受け入れたかに見える。それが怖い。同じ1989年には、この事件に誘発されたかのようにして新潟県柏崎市での少女拉致事件が起こった。学校帰りの9歳少女が車に乗った20代無職男にさらわれ、以後9年間をそのヒキコモリ男のもとで暮らすことを強制された。この男にも逮捕当時70代の母親が同居していたが、家に拘束された女の子の存在に気づかなかったと言い続けたまま認知症になった。母親は危険だ。彼女たちは家族の中に起こる異変の全てに闇の衣を被せる魔女で、彼女たちによって「クローゼットの中の骸骨」が次々に作られて行く。多分、今もどこかで。

今回の映画の舞台になったブエノスアイレス市サン・イシドロ地区のプッチオ家の事件にしても犯人アルキメデス・プッチオの妻にして、同じく犯人アレハンドロ・プッチオの母でもあるエピファニアに訊かなければならないことが多かったはずだが、彼女は何事であれ語ることを一切拒否した。監督パブロ・トラペロはここで2つの選択肢のどちらかを選ばなければならなくなったはずだ。ひとつはエピファニアのコメントを創作すること、もうひとつはストイシズムに徹し、ドキュメンタリーの手法を維持すること。

2015年に公開されて興行収入の新記録を作ったという映画そのものを観ると、監督はドキュメンタリー化を避けながら、しかもストイックに振る舞って「魔女」の行動(言葉を含む)を創作しなかったとわかる。このように圧倒的な事実の洪水の前では、創作することに謙虚にならざるを得ないのだろうが。

上に挙げた日本のケースは2つとも少女や幼女たちだが、今回の映画が扱う事件の主犯アルキメデス・プッチオの拉致対象は格が違う。成人男女で、中には息子アレハンドロのラグビーチームのメンバーさえいた。このアルキメデスという人物、もともと軍事政権政府の秘密警察として、反政府勢力の市民を狩っていたということだから、単なる衝動犯ではない。戦前・戦中の日本にも特高警察というのがいて、左翼知識人の拉致や拷問を担当していたが、私たちが寛容すぎるせいか、戦後になって市民たちが彼らを糾弾するといった場面があちこちで起こるということはなかった。広島・長崎の体験の後、我々の父親は呆然としながらただただ食い物を探し回っていたと記憶している。

アルゼンチンの国民たちは我々の父親たちと大分違っていた。そもそも1976年のクーデターでイザベル・ペロン(あのエビータことエバ・ペロンの後妻)から政権を奪った軍事独裁政権の大統領ビデラ将軍のやったことが苛酷過ぎた。労働組合の指導者や支持者たちを中心とする反政府系と見なす人々を片端から拉致、監禁、拷問、虐殺し、1983年に政権を手放すまでの「汚い戦争」と呼ばれる8年間に3万人の市民を殺したり、行方不明にしたりしてしまった。最終的には経済破綻に直面し、体制挽回を企図して始めた英国とのフォークランド紛争にも負けて、ビデラは政権を手放した。民主化後の政府による当時の被害者の追跡や加害者(大統領を含む独裁政権幹部)の逮捕が未だに続いているというのがアルゼンチンで、民主化後も2回続けて財政破綻し、かつてGDP世界4位を誇った栄華の香りさえないというのが現状だという。

アルキメデス・プッチオは市民の拉致・拘禁あるいは暗殺を業とするシークレット・サービス(秘密警察)の一員として市民の中に埋没して暮らし、それによってブエノスアイレス郊外に住む中産階級としての生活が出来ていた人なのだろう。ビデラ独裁政権の崩落後、この種の人々は失業し、彼らの多くは貧者の生活に戻ったのだろう。アルキメデスはそうしなかった。拉致の対象を反政府主義者から裕福なご近所さんに変えただけで、中産階級知識人としての対面を保っていた。少なくとも民主化革命後の3年間それが可能だったというだけのことで、「でも普通はそれ出来ないよね」と問われても、「それが出来てしまう人」がいるのだとしか言いようがない。かつてナチスドイツの親衛隊員でユダヤ人300万人をガス室で「処理」したアドルフ・アイヒマンは自身の裁判で「私の欠点は命令に従順だったこと」と言ったそうだ。ドイツ出身のアメリカの哲学者ハンナ・アーレントはアイヒマン裁判の全てを傍聴して「悪の陳腐さ」と形容した。アルキメデスにもそうした「機械仕掛けの殺し屋」の側面があったと思う。

彼は秘密警察員という仕事に忠実で、軍事政権崩壊後も彼を庇護する勢力(「大佐」の名で会話に登場する)があったのだろう。しかし給料は来なくなったので、今までの生活を維持できなくなった。ここから彼の「家族愛」が全開する。妻子に苦労をさせたくない、それが家長の務めとせっせと誘拐業に邁進し、息子アレハンドロを巻き込んだ。

それにしても「この人プロかよ」と思うところはある。そもそも地声で人質の値段交渉なんてしたら、犯人が誰かなんてすぐにバレてしまうだろうに。

見終わった後にも重くのしかかる謎は息子アルハンドルがなぜかくも深く父の悪行に組み込まれたかという点だ。一家の希望の星でサン・イシドロ地区住民が大切にするラグビーチームのスター。アルゼンチン全体はサッカー強国だが、サン・イシドロ地区での人気はラグビーで、世界レベルでの強豪チームが二つもあるという。アレハンドロはそのうちの一つに属し、地域の人々を魅了していた。その彼がなぜ? と誰もが思うのだろう。事件後暫く経って、この映画の取材が始まったときにもアレハンドロが濡れ衣を着せられたと信じている人が多かったという。

映画の中で突然アレハンドロの弟がオーストラリアから帰国する場面がある。私が渡された資料によれば、この弟は彼の地へ「亡命」していたと説明されている。ということは、アレハンドロの前に父親の「汚い仕事」を手伝っていたのが弟で、ビデラ独裁政権が終わった時に亡命を余儀なくされたのではないか。そのために長男アレハンドロが父を手伝うことになったのではないか。その弟がなぜあの時期、つまりプッチオ家に警察が踏み込む直前に戻ってきたのか?「もうダメだ」というアルキメデスの連絡を受けて家族崩壊の前夜を見届けるかのように考えてしまうのは間違えだろうか?

家族の紐帯は強い。良きにつけ悪しきにつけ。真っ暗闇で凄惨なストーリーの背景に家族劇の温もりが観るものに届く。そのように作ってあるから、観客の心は引き裂かれる。それを強調するように流れるブリティッシュ・ポップスの、いかにも気楽な明るさ。監督パブロ・トラペロの作品はもっと観なければならない。

9月17日(土)より、新宿シネマカリテ、EBISU GARDEN CINEMAほか全国公開
http://el-clan.jp/
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今回も引用です。性行動における女性の主体性に関して前回述べたことを補いたくなったので、前回参照文献として挙げたものを紹介しながら、そこに書けなかったものを付け加えます。引用するのは、最近翻訳版を出したクラウディア・ブラック著『性嗜癖者のパートナー』(誠信書房)に「あとがき・感想」として載せたものの後半部分。


乳児の「おしゃぶり」を「恍惚をともなう吸引」と呼んで手淫(性的自慰、自体愛)と結びつけたのはジグムント・フロイト(文献1)である。これを踏まえて、私(文献2)は指しゃぶりを原初の嗜癖と考えた。つまり嗜癖とは指しゃぶりから始まる一連の性自慰を指すというのが筆者の嗜癖論の根源である。物質摂取嗜癖者(例えばアルコール嗜癖者)の場合、薬物の作用下にある自己身体を他者とみなして愛着するという自体愛の存在を仮定しないと、あの「酩酊」への執着を理解しがたい。

そういうわけで私はあらゆる嗜癖には自体愛の側面があると考えている。従って自体愛を含む性嗜癖を正面から取り上げた著者(クラウディア・ブラック)の姿勢には敬意を払うのだが、性嗜癖が男性に特有なもの、その影響を受けるのが女性という書き方には疑問を感じる。確かに暴力を伴う性的襲撃や一連の性倒錯の加害者の殆どは男性であるが、性嗜癖そのものの頻度には性差が認められないのではないかと考えている。頻度の差は無いが、表現形には大きな男女差があるというのが性嗜癖の特徴なのではないか。このように考える理由のひとつは最近急速に目立つようになった女性自体愛のための道具(「大人の玩具」)の普及である。

イギリス映画『ヒステリア』(2011)は1890年代、表面上の性的禁欲主義がはびこっていたビクトリア朝のイギリスで、女性の間に抑うつ、悲嘆、心身不調を訴える女性が激増するようになり、婦人科治療の道具として所謂「電動バイブ」が誕生したエピソードを描いている(映画の冒頭で実話であると強調されているが、真偽不明)。舞台こそ120年前の昔だが、現在では日常一般的な生活道具と化しているという主張を前提に女性監督(ターニャ・ウェクスラー)によって作られており、エンドロールでは各時代を代表する世界の名器が実物写真として次々に紹介されている。それらのうち、1970年代を代表する名器として登場するのは我が日立社のHitachi Magic Wandであった。

アメリカ映画『Friends with Money(邦題[セックス&マニー]』(2008)では大学時代の仲良し4人組の中で一人だけ落ちぶれてメイドをしているヒロイン(ジェニファー・アニストン)が日に何軒も掃除して歩くのだが、どの家の引き出しにも電動バイブがあって、彼女はそれを時々使う(シーンは音だけ)。それが当たり前のように描かれていて、これも女性監督(ニコル・ホロフセナー)の作品だ。

これらは決して卑猥な作品ではない。それどころか、女性の視点から鋭く社会の陰翳を削ぎ取った「女性のための」作品になっている。そこに単なる小道具として無造作に登場する自体愛のための道具は何を意味するのか?

今を生きる女たちにとって上品ぶった男たちに性衝動を押し込められてパニック発作を起こしたり、泣いたり、まして性愛の主体性を男に奪われるなんてあり得ない。そんなものは日用品でどうにでもなる、ということなのではないか?

つまり自体愛は今や男の専有物ではなく、話題にしてはならないものではなくなっている。少なくとも一部のリーダー役の女性たちの間では。

性嗜癖の形態が男女によって違うという点で重要なのは共嗜癖(嗜癖者を過剰にケアすることによって嗜癖者の自立能力を削ぎ落とすこと)を嗜癖的性愛の一型と考えることである(文献3)。そう思うことは、「聖なる母」の神域が存在していた時代には禁忌だったのだが。共嗜癖に絡め取られた母親が、精液まみれの15歳や性的パートナーのいない35歳や妻との性交渉が絶えて久しい55歳を世話しようとしてまとわりつく気色悪さの正体は、これが生殖器抜きの性愛であるためだろう。性器だけは使わないという理由で共嗜癖を性愛から遠ざけるのはむしろ不自然だ。

このように女性自体愛の普遍化を認め、共嗜癖もまた女性という性別に固有の性愛と認めると、性的嗜癖の頻度にそれほどの差はないのではないかという私の推測も理解してもらえるだろう。ということで、さて、自分の妻やパートナーが女性同性愛に溺れていたり、手早い自体愛で満足していたり、自分たちの息子を世話焼きと統制で縛り上げることに熱中していたら、夫たちはこの本の中に描かれている「ロッジの女たち」のように「問題に気づいて愕然としたり、今までの配偶者の不自然な嘘の本質を見極めたり、『真実を語れ』と妻たちに迫ったりする」のだろうか? そして、この方面に理解のあるカウンセラーを捜し歩き、同性のカウンセラーのもとで「真の回復への道」を探るためのシェアリング(分かち合い)グループに参加するのだろうか?

アメリカ映画『Thanks for Sharing(邦題[私の恋人はセックス依存症]』(2012)では、性嗜癖者のためのシェアリング・グループにせっせと通う男(マーク・ラファロ)が描かれている。彼は5年間にわたって禁欲しているというのだが、なんとその禁欲には性的自慰が含まれるのだ。このハンサムがパーティで長身の金髪美女(グゥイネス・バルトロー)に出会う。この女性は癌で片方の乳房を失い再建術をおえたところ、という設定がいかにも「今」らしい。身も心も整った女性は新しいボーイフレンドを求めていて、禁欲男に接近し、すぐに親しくなるのだが、そこからが大変。性自慰を含む全セックス禁断中という男が理解できない。以前、ドラッグ嗜癖男のことで苦労していたこともあり、セックス嗜癖と聞くとおののいて去ろうとするのだが~、という設定。ここで私はヒロインと一緒に引いてしまった。シェアリング風景そのものは嗜癖治療に必須で、私にもお馴染みなのだが。

筆者の運営するセックス嗜癖者プラス性倒錯者(主として痴漢と窃視症者たちで、弁護士や司法機関を通じて来院する)のグループ(男性限定)では性自慰を禁じていない。それを避けようと努力するのは勝手だが、禁欲を守れないことで生じる罪悪感が倒錯的性行為を促進することを知っているからだ。

セクサホリックス・アノニマス(SA)では、「配偶者とのセックス以外のいかなる性行為も(性的自慰も含めて)しない」ことを「sexually sober(性的にしらふ)」と呼び、この状態を保つことを仲間たちに勧めている。この方針は日本(SA-Japan)においても変わらない。

それはそれで良いと思う。しかし治療者としての私は、この方針を私の手がける治療ミーティング(シェアリング・グループ)に採用しようとは思わない。配偶者とのセックスだけを他の性行為から区別するという考え方は、極めてキリスト教的な家族聖域論に過ぎないと思う。そのような意見を排除はしないが、彼らの言う「性的しらふ」が性倒錯や衝動統制不全や性的嗜癖に悩む者たちの治療ゴールになり得るとは思わない。私たちは勝手に湧いてくる性衝動や渇望に意識的であって良い。ただしそれを行動に表現して自分自身の社会的評価を下げる必要はない。偽善者になる必要はない。だから我が内なる性的な欲求という健康な生命力を自覚するだけで自己卑下に陥るのはナンセンスだ。内なる生命力は私たちを創造的にする。そしてその変化が他者と繋がるきっかけを作る。

いずれにせよ、性を語ることは難しい。これを書いていて、改めてそう思う。


文献
1)フロイト,S.『性欲論3編Ⅱ小児の性愛』フロイト著作集5,人文書院, 1968(原著1905)
2)斎藤学『嗜癖の起源、およびその暴力との関係』「アルコール依存とアディクション」     誌11巻2号,99-108頁,1994
3)斎藤学 『エロティシズムとアディクション;現代人の恋愛、共依存、親密性』「アディクションと家族」誌, 26巻1号, 27-43頁, 2009


(追記)
以下に上の引用が言及していないことを指摘しておく。

女性に固有の自体愛の一つは化粧や衣装による変身である。女性の場合、男根のように目立つ標識を持たないことから、性的関心が性器に統裁されることが比較的少ない可能性がある。この「可能性」は「女性は、その全身が性器」と言えることにまで及ぶ。

露出狂(exhibitionism)の場合、男性では男根露出が多いが、女性では全裸でのストリーキング(streaking)の形を取るのは、その例証のように思う。「女性は全身が性器」という仮説を許容すると、女性が外出にあたって行う衣服選びも化粧の工夫も、他者の視線という性的刺激を前提にした性的行為ということになる。男性にこうした側面が皆無とは言えないが、切実さという点では女性ほどではないのではないか。

男性性を維持したまま、化粧と衣装だけで身のうち女性性を顕在化させようとすると異性装(transvestite)と呼ばれるものになる。女性の場合、衣装選びや化粧は身体そのものの痩せ・肥りに及び、過度の痩せや著しい肥満は自らが性的存在であることを否定しようとしているのではないかと思う。
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ここに暫く戻れなかったのは大急ぎで「意見書」を書いていたからだ。意見書というのは、私の精神科医としての仕事のひとつで、弁護士からの依頼を受けて、特定の人物の精神状態について記すこと。
似た仕事に「精神鑑定」があり、これは裁判所の判事からの要請で書く。指示ではなく、要請なので、断ることも出来る。現に1週間ほど前にも断った。関心をひく殺人事件ではあったが、前に来た仕事が終わらなかったので諦めた。
その仕事は「不倫を働いたある女性がセックス依存か否か」について判断して欲しいというものだった。以下はその考察の一部。

そもそも不貞とセックス依存とは関係ない。不貞は倫理、道徳(特に婦徳)の問題であり、一部の国では法律の問題でもある。セックス依存は欲求昂進(渇望=精神依存)という医学生理学的問題である。

所謂不貞は、結婚生活に伴う退屈、拘束感、空虚感、寂しさからの脱皮を図るものであり、当事者にとっては跳躍である。極めて主体的な行動であって、依存症者(嗜癖者、アディクト)が生理的要求に屈服して行為表現するような「生理的・心的欲求への隷属」ではない。

セックス依存(アメリカ精神医学協会は「依存dependence」の語を、「嗜癖addiction」にもどすことを決定し、2013年5月から実施されているので、現在の精神医学論文では「セックス嗜癖」ないし「セックス・アディクション」と書かれる)は、他のアディクションと同様、有害で貪欲な欲求充足行動であり、ひとつの欲求充足行動が更なる欲求を求めるという「充足パラドクス」(斎藤学『嗜癖』、土井健郎他編・異常心理学講座第5巻、みすず書房1989)を中核障害とする強迫反復行動である。

その基本形は自体愛(性的自慰 masturbation)であり、ジグムント・フロイト(フロイト・S.『性欲論3編Ⅱ・小児の性欲』〔原著1905〕、懸田克躬他訳、フロイト著作集・5、人文書院)が指摘したように「乳児・幼児のおしゃぶり」から始まる始原的衝動行動である。これは後年、異性ないし同性の性対象との性交渉にまで発展することもあるが、成人同士の性的接触は実際のところ、極めて多大な労力ないし代償を必要とするので、実は、こうした成人対象性愛そのものの占める割合は、成人生活の中で極めて少ない。多くは成人に達してからも自体愛ですませており、近年は電子通信機器の発達により、いわゆるアダルト動画の配信が有料無料で行われたり、スカイプ画像を介した疑似性交渉で、数日のうちにかなりの時間と大金を浪費したりする社会現象も見られ、一部の青年、中年はこれによる借金が原因になって筆者の外来患者となる。彼らはセックス嗜癖者である(クラウディア・ブラック著、斎藤学訳「性嗜癖者のパートナー;彼女たちの回復過程」誠信書房、2015.特に斎藤学による「訳者あとがき・感想」)。

こうした自体愛に充足できない者の中から発生するもののひとつはパラフィリア(paraphilia性倒錯)で、これには異性(殆どは女性)の靴や下着にのみ固有な執着を見せるフェティシズムや電車内などでの痴漢行為、更には窃視狂や露出狂が含まれ、これらもまた警察に拘束されるなどの難儀に駆られて筆者の外来患者となり、筆者の意見書を求める。彼らもまたセックス嗜癖者であり、受刑後ないし執行猶予中に、その治療を命じられる。

パラフィリアの中には成人の性愛対象を避けて小児(同性も異性も)を狙うペディアトリック(小児性愛者)がいて、その被害者は疫学的統計よりはるかに多く、この隠れた被害者たち男女が成人期に達して、性倒錯、境界性パーソナリティ障害、難治性うつ病などの罹患者として精神科外来に登場してくることが希でない。かくして成人性愛対象からの逸脱は次世代の成人精神障害者を産む。

繰り返すが、異性の性愛対象と性交渉を持つのは難しい。婚姻とは社会から適正を保証された異性対象性愛(heterosexuality)の制度であり、結婚した二人は様々な性的タブー(その代表は近親姦タブー)が張り巡らされた家族の中で、かろうじて「安全な異性対象性愛」を成就する。だからこそ、この暗黙のルールを無視する不貞(adultery)が一大スキャンダルとして位置づけられてきたのである。

しかし実際に行われている性交渉の多くは、婚姻関係にある配偶者以外の人々との間で行われており、その多くには金銭の授受が伴う。売春である。昨今、セックス・アディクションを主訴に筆者のもとを訪れる人々の多くは、この種の売春異性愛による借金によって、あるいは、その実態を知った配偶者等の怒りによって、筆者への受診を強制された人々であり、彼らもまたセックス・アディクツと呼びうる。このような人々と本件の当事者との相違を以下に述べる。(略)

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