愛国丸とキミオさん | 水中カメラマンのデスクワークな日々

愛国丸とキミオさん

 一昨日の私のブログ記事
に関する事ですが、あの産経新聞の記事によって、私の知人のトラック諸島関係者の方々にも大きな波紋があったようです。

 産経新聞の記事の内容
がかなり”ショッキングな内容”だった為、トラック諸島(ミクロネシア連邦チューク州)の現地人やその日本人関係者への非難が某掲示板で沸き起こりました。



 確かに産経新聞の記事の内容
を鵜呑みにすれば、その憤りの気持ちはわかります。

 しかし、あの記事ではまったく触れられていない他の様々な事情(情報)を知らずして現地を非難して欲しくないのです。



 私が特に知って欲しいと思う情報は、「愛国丸とキミオさん」の事です。

 愛国丸とは、産経新聞の記事では「遺骨が見せ物にされている」とされた船。キミオさんとは、トラック諸島でのダイビングショップの創始者である故キミオ・アイセック氏(現ブルーラグーンダイブショップオーナー グラッドフィン・アイセック氏(愛称:アッピン)の父)です。



 キミオさんは日本統治下のトラックで、日本兵の人達(愛国丸の乗員)にとても可愛がられていたのです。特に内田さんという人とは”育ての親”といえる程の信頼関係であったとの話です。

 そしてトラック大空襲の当日、キミオさんは内田さん達の乗った愛国丸が攻撃を受け撃沈していく様子を無念の思いで見ていたのです。

 キミオさんがが現地でダイビングを始めたのは育ての親や恩人を弔うためです。

 私はキミオさんから直接このような話を聞かせて頂いた事があります。



 産経新聞に掲載された写真には「観光用のプレート」と記されていますが、あれはキミオさんが作った日本兵を弔う「慰霊碑」であり、キミオさんの死後、アッピンを始めとするダイビングショップのスタッフ達が作った「キミオさんの記念碑」です。

 キミオさんが愛国丸に対してどういう想いであったか、という事は現地ガイド全員が重々承知していることでして「慰霊碑」と「キミオさんの記念碑」の前に供えられた遺骨を「観光用の見せ物」と表現されてしまった事は、とても悲しく思います。



 産経新聞の記事には「水深45メートルの海底に眠る愛国丸の上甲板」とあるのですが、愛国丸が沈んでいるのは、水底が70~80m、ローワーデッキで60m、アッパーデッキでも水深43mとスポーツダイバーが潜るには余りにも深すぎる水深です。

 案内役のガイドが多めのチップを貰う理由は、「危険な大深度のダイビングのガイドをやってくれたお礼」なのかもしれません。



 昭和59年の遺骨収集に関しては、「トラック大空襲」(光人社刊、吉村朝之著)という本に詳しく記載されています。



 要約すると

「著者の吉村氏はキミオさんと一緒に愛国丸はもちろんトラック環礁に沈んだ沈船を十数年もの歳月をかけ潜り水中写真を記録した。

 そして船内に放置されたままの遺骨の写真を日本の新聞で報道し遺骨収集を呼びかけた。しかし、国(政府)は動かなかった。やむを得ず新聞社の記者のアドバイスにより”ショッキングな写真”つまり、ダイバーが遺骨を手にして記念写真を撮っている写真を掲載した。ようやくこれが国会で取り上げられ遺骨収集が行われるようになった。」という事です。

 (そう思うと今回の産経新聞の記事も国を動かす為に意図的に”ショッキング”な記事にしたのでしょうか?)



 そして「遺骨収集が集結した後、再び愛国丸に潜るとまだ多数(機関室には何百もの)の遺骨が残されていた。」ともあります。

 その後、遺骨収集は行われていないので現在も変わっていないはずです。



 こういう事情を知ると”見せ物”として遺骨をさらしているというよりも、遺骨収集がまったく手つかずの状態の場所が残されている、水深も深く遺骨収集作業は危険で困難であった為に限界があったという事も容易に想像できます。



「愛国丸とキミオさん」について書かれているホームページを以下にリンクしました。

 産経新聞の記事を読んで憤りを感じた方には特に読んで頂きたいと思います。



Akiokada Essays


トラック諸島 50回目の夏


トラック諸島に沈む日本の艦船


なにがなんでも勝たねばならぬ




↓キミオさん(左)とアッピン(右)親子(1998年撮影)