making satalaf  -2ページ目

0283 おでん

瞬間的な衝動をカロリーに例えることはできても
バッテリーに蓄えるようなことはできず
ただただスイッチ的なごく簡単な装置としてしか
先々にまで持っていけない。

なにか正しいこと
というのにまとまろう収束させようという
ある種の成長の証と言う名の弊害が
あるらしい。


つくってこわしてが続く
日々を送りながら日々を過ごさないことが
課題。

11日(木)臨時休業

明日都合によりお休みします。焙煎機やら機器のメンテナンスってことで!!!

0278

知らない
知る
やってみる
できない
調べる
わかる
やってみる
でもできない
くりかえす
くりかえす
できてきたきがする
かんちがい
くりかえす
くりかえす
くりかえす・・・

0266 

弾丸、東京出張であれだけのコーヒーの中、

感じたことは自分とのずれであった。


クリアになった部分と宿題となった部分を持ち帰って

さてさていかがいたしましょうをするしかない。


郡家でも鹿野でも第一商品はコーヒーではないのだと

自分で改めて感じた。

しかしながらコーヒーの質を高めていくこと

How Toは多種多様なれど

当店のそれを追い求めていくこと。


産地の景色がまだまだ見せれていない。

これとあれとの違いをカップに出し切れていない。



それらを消化、いや昇華させつつ

いかに「おいしく飲める」空間を作っていくか。

そのことにより重きを置きたい自分を再確認。





場所ありきの弱さと

人ありきの自由度と・・・


0259 

好きなラジオを聴く。

その間に4つ豆を煎る。

しばし耳をラジオから離して爆ぜを聞く。

甘く香ばしい透明な煙がスピーカーから流れるボサノバに踊る反面、

わたしは匂いに身を巻かれながら計器に目をやりログをとる。


釜から出す瞬間のあのどきどきは

以前話題にあげた「筆をおく」行為に似ている。

point of no returnである。

小さな決定をその一瞬で行う勇気。

迷い、焦り、見えては消える確信、

苦くて、甘い、コーヒー。



making satalaf 

0258 許可












 直感に従うことを自分に許せるか


と雨の中



          ショートムービーを観ながら


  夕日が染める空に見つけた虹


ムスクらしき香りに振り返ること



0249






ガラスを割った昨日


いつになく潔く捨てた


使えないことがわかっていても


捨てることをしばしためらっていた


そういう自分ごと


捨てた

0239 やい9月

8月の終わりに際してなんの未練もない夏というのもあるのですね。

7月をいかに濃くできるかが勝敗の分かれ目、という気がしています。


さて、9月がやってきます。

とは言え鹿野へ7日間出張カフェにでかける9月のことを

ずっと前から考えていたので「やってくる」というよりこちらから「出向く」

ような雰囲気に近づいてくる9月。

暑さと涼しさとときに両極端に持ち合わせて僕らの気持ちを右往左往させる

思わせぶりな季節。


鹿野へ出店するカフェについてはまた改めて。


カランコロン・・・


あ、いらっしゃいませ!!


making satalaf 

0236 写真だけでお許しを

「行く」と「帰る」と「立ち寄る」と「通り過ぎる」と・・・

が人生には多々ある。


大袈裟にいってそれが旅。


この7日間の話を報告する体力をいまは持ち合わせていないけど

(と言っても次の予定があれこれつまっているから)

(しかも、旅先であれこれ自分のこれからの動きのイメージを浮かべたから)

それをリアルに落とし込んでいく作業に自分を向けたいと思いますので。



「めがねをかけずに夜景を見たんだ」
making satalaf 

「みなもにはと」
making satalaf 

「絵に描いたような風景(リアル)」
making satalaf 


今日から通常営業に戻っております。

が、9月に入りますとまたあれこれイレギュラー営業ですので

後日アップしますカレンダーをご確認の上

ここぞとばかりに狙ってご来店くださいませ。

0225 お抱えの

お察しの通りブログの更新頻度がガクッと減ったのは

日々の大なり小なりの機微をこちらにではなく

フェイスブックに吐き出してしまうからです。


以前、それをまだ我が物としていなかったころは

日々のネタとも言うべき喜怒哀楽をしばし仕方なく持ち歩いて

腰を落ち着けたときにようやく吐き出せるのであったから

それはある意味熟成し、それはある意味消化され、

そしてある意味昇華もされてあげられることとなる。


そこにあった説得力(自己評価的に)を今

持ち得ていない。


とは思っていないが、ブログを書く

という行為のポジショニングは確かに一段あがって

ブログに書くまでのことではない症候群が発病するに至る。



しかしふと、流れていく(少し邪気を込めれば垂れ流れていく)FBでは

どなたかのわたしには用のない要件が

我が愛すべきつぶやきの上にまたがって笑うのだ。

と被害妄想を展開。



大事なのは関わりながら関わらないこと、とも言えて

わたしをとりまく110数名すべてにいつも素敵なマスターあるいは僕個人を

演じてしまっているのではないか症候群も併発しているらしい。


以下、省略。




お抱えの、

と一度言ってみたかった、

絵描きと写真家を当店は持っている。


かのような日々、

その筋の人でもないわたしが

そのまぁまぁ鋭い感性を持って彼らを育てたいだなんて

恐れ多くも自意識過剰な役割分担を勝手に担ってみている。




ひとが前を向くとき

それにいくつ立ち会えるだろうか

いや数は問題ではない

そういう場所に

そういう人に

なれるだろうかという自分への淡い期待


40歳になったときに

そういう人たちと現在進行形で関わりあって

そのことが作る目じりの皺をわたしは望んでいる。

(柴田恭平になる)