田英夫氏逝去
元社民党参議院議員の田英夫さんがご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dennews/
TBSでニュースキャスターを勤められ、後に日本社会党全国区から参議院議員に当選し、国際局長などを歴任して構造改革派の故・江田三郎氏らと社会民主連合の旗揚げに加わり、江田氏のなくなられた後は代表として戦い、また新自由クラブとの連携し新自連の一員となられました。
細川連立政権時代、江田氏の子息で現参議院議長の江田五月氏が科技庁長官に任命されたときに「江田君も大臣病患者だったんだな。」と言ったことが思い出されます。一度は政界を出られましたが、数年前の田島陽子氏の参議院議員辞職に伴なって社民党の参議院議員に復活されました。しかし2007年の参議院議員選挙には出馬せずに政界を引退されました。
毎日新聞:田英夫さん死去:反戦、平和に思い一貫
http://mainichi.jp/select/person/news/20091118k0000m010073000c.html
この記事を見ますと菅直人さんをはじめとして現在の閣僚や重鎮議員に田英夫さんの社民連や社会党、社民党時代の後輩が多いことに気付かされます。
田さんは元ジャーナリストらしくホームページもいち早く導入されて、この14日までサイトを積極的に更新されていました。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dennews/chok.htm
さて、佐高信さんとのかかわりですが、2001年の参議院議員選挙には田さんの応援演説で小泉、竹中批判に熱弁をふるう佐高さんの姿がこのページに残っています。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dennews/14.htm
しかしながらほとんどその後、田英夫さんとの接点はなくなって行くように感じていました。平和、憲法9条堅持の立場の田さんと城山三郎さんとは同じように海軍、特攻隊出身で城山さんの最晩年には対談などもされていたのですが。
思うにその理由の一つはこれでしょう。あのカーチス・ルメイも受けた2001年11月の勲一等旭日大綬章の受勲です。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dennews/2ndprof.html
その数年後の週刊金曜日風速計にこのようなのがあります。
「どうして勲章などもらうのだろうか。いわゆる革新側の人で、ある程度頼みにしていた人も勲章をもらったと聞いて、ガックリすることが続いている。先日、鹿児島に行き、日本社会党(現社会民主党)の元国際局長、川崎寛治と会って、さわやかな人だと思ったら、勲章を拒否していると知って、さもありなんと思った。断るのが当然と思うが、勲章をもらった人とは、ウワベだけのつきあいを重ねることになるだろう。
自らもそれを拒否し、そして、同様に拒否した元国鉄総裁の石田礼助や、元日本興業銀行頭取の中山素平を描いた城山三郎が喝破した如く、拒否した人たちは『粗にして野だが卑ではない』(文春文庫の石田の評伝の題名)人たちである。」
http://www2.kinyobi.co.jp/KTools/fusoku_pt?v=vol515
名指しこそ避けているものの、「ある程度頼みにしていた人」というのが、社会党国際局長だった田氏のことであることは同じ社民党の要職であった川崎氏に言及もあり、間違いないと思います。
まぁ私としては田さんが受勲しているからといって、その業績、言論にいささかのかげりもないと思っています。佐高さんもあてつけに川崎さんのことをこれ見よがしに褒めるのではなく、きちんと堂々と批判して言論の応酬をされたほうがよかったのではないかと思っています。
そんな佐高信さんですが、現在角川文庫の「新・筆刀両断」に掲載されている新社会党機関紙の連載でここまで言い放ったのには驚いた覚えがあります。
「私が、いくら関係が浅くはなかったとしても、とくに野党側の人で通夜にも葬儀にも行かないと決めているのは受勲したその人のものである。彼らには『恥を知れ』と弔辞でなく罵詈を投げつける。」
講談社文庫 新・筆刀両断 73p 「通夜の夜」より。初出 週刊新社会2005年4月26日号 より転載
追記、参考
ところが後日
佐高信さんは「田英夫さんを偲ぶ会」に出席され、テレビの取材にも応じておられました。
http://ameblo.jp/sataka/entry-10497569113.html
佐高さんがはまる辺見節
辺見庸 「いま、抗暴のときに」194pより、
いうのもばかばかしいけれども、戦後民主主義の腐臭にはたとえばこういうことがある。「新・私たちはどのような時代に生きているのか―1999から2003へ」でも述べましたけれども、テレビキャスターから社会党の重鎮となった田英夫さんや久保亘氏が2001年、勲一等旭日大綬章をもらった。最も社会党関係じゃ故大出俊や田辺誠らもその前からためらわず旭日大綬章を受章しているのですが。いってみれば、彼らの戦後民主主義では受勲と護憲が矛盾していないのです。もっといえば彼らの戦後民主主義は天皇制とも矛盾していない。左翼文化人として象徴的存在であった映画監督の新藤兼人も文化勲章をもらった。宮殿「松の間」の「親睦式」に出席して受賞者を代表してあいさつしている。何も告発すべきことがらではないのでしょうが、人々をして落胆せしめる光景ではあります。昔は太平洋戦争戦没者叙位叙勲などを意識的に拒否した人々がそれなりにいて筋を通そうとしていたのですが、自称革新政治家や文化人が彼らを裏切っているのですね。これなど戦後民主主義の悪しき象徴でしょう。戦う主体の側を失意せしめる何かが、味方とされる側、とくに上層部にあったのです。
叙勲・受勲はシンボリックに言えば、天皇制とそのエトスを承認するかどうかの踏み絵のようなものでもあります。「臣民」「陛下の赤子」なのか国家に規定されない「個人」なのかを選ぶ表象でもある。宮中で天皇から勲章をもらうというのは左翼的に考えたら恥辱か裏切りのようなものですが、彼らは平気なのですね。むしろ誇らしげなのです。そこの、戦後民主主義の内実の一つがありその死のわけもある。興味深いことは、比較的リベラルな文化人が僕なんかと対談するときに、例えば紫綬褒章をもらったという事実を掲載予定の略歴から削除してくれと要請してきたりする。ばかげた話です。彼ら彼女らは知っているのです。受勲がこの国の一方では晴れがましく、また一方ではこのうえなく恥ずべきことであることを。それを上手に使い分けようとする。だから手がつけられない。そのくらい姑息な思想的土壌が、戦後民主主義にはあるということです。というより、この国の戦後の言説は右も左もどこか卑劣なところがある。
追記2
ペン森通信の瀬下先生もこの勲章について言及した反骨のジャーナリストがおられたことを書いておられます。
ペン森通信「未知なるものはやはり人の心だ」
http://penmori2007.blog108.fc2.com/blog-entry-207.html
特攻隊と憲法九条―戦争はいつのまにか見えないかたちでやってくる (かに心書)/田 英夫
http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateinput.do?id=10390900598
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