佐高信さんと本島等元長崎市長対談、「広島よおごるなかれ」には言及なし | 一撃筆殺仕事人:佐高信先生追っかけブログ

佐高信さんと本島等元長崎市長対談、「広島よおごるなかれ」には言及なし

佐高信さんは代表者を務めている「週刊金曜日」の今週号で元長崎市長の本島等さんと対談をしています。
佐高さんは本島元市長の「天皇には戦争責任」発言を大変高く評価されてことあるごとにその発言を称えておられます。

当方と同じアメーバブログの迎春閣之風波さんのブログでその一部が公開されています。
http://ameblo.jp/voodoo32kpci/entry-10101787581.html

この他にも佐高さんは本島元市長がカトリックの信徒であったり、元アサヒビール会長の樋口広太郎さんと同窓であったりしたことで対談を盛り上げていきます。
樋口さんは元住友銀行副頭取でアサヒビールに移ってからの「スーパードライ神話」を作った人として有名ですが、「噂の真相」でいろいろ言われたこともありましたね。
http://www.papy.co.jp/act/books/1-5046/
(どういう訳か、樋口さんが住銀出身だということは佐高さんは言われていません)

そして本島元市長の息子さんが株で大もうけしたこと、佐高さんが大嫌いな「朝まで生テレビ」には本島市長が「天皇の戦争責任」で銃撃を受けたときだけに出演したこと。また本島元市長と佐高さんとの「創価学会」観の違い。などが話題になり、最後は本島元市長が佐高さんに対して「先生はまだ若いのだから頑張ってください。」という激励で幕となります。

さて、ひとつ残念だったことがあります。対談の中で広島と長崎の両被爆都市の比較論が出され一番目の被爆都市であった広島に比べて長崎の被爆が世界での扱いが低いことを本島元市長は嘆かれるのですが、ここで本島さんが96年に広島平和研究所年報に「広島よおごるなかれ」と称して日本国民全体に戦争責任はある、とした論文のことがなぜ話題にならなかったのでしょうか。

http://www1.ocn.ne.jp/~hipe/vol.htm #[1996年度 VOL24]

その内容はこちらのブログで見ることが出来ます。念のため最後に転載させていただきましょう。

http://blog.goo.ne.jp/stanley10n/e/3c3acc9eea15dc73b331cd62a7c236ab

佐高さんは5月の東スポ「マンデー激論」(毒筆啓上が改題)において「一億総懺悔」ということばで日本人は戦争責任をあいまいにした、なる主張をされています。言外に昭和天皇の戦争責任を問わないのが問題であるということなのだろうとは思いますが、この対談の副題「日本人全体に戦争責任がある。」というのは「一億総懺悔」と同じような意味に取られかねませんが、実際は全く違うものです。

広島の被爆者団体からものすごい反発があった子供、幼児、女性を含む日本人全体に戦争責任があるというもので「原爆は落とされるべきであった」という内容です。
ところがこの時期にメジャーな論壇誌や新聞(産経を除く)はこの論文をほとんど報道しませんでした。もちろん「週刊金曜日」や「世界」もです。
議論の是非はともかくもかなり戦争被害者からの異論、反感をよび、国民的議論を呼んだかもしれません。

今回週刊金曜日の目次を見て「もしや」とは思って手にとって見たのですが残念ながら、佐高さんも勇気をもって議論はできなかったのでしょう。
とくに佐高さんが高く評価する、峠三吉の詩までもが批判の対象です。私個人としては小さな子供までに戦争責任を求める本島氏に強い違和感を持ちました。


「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」
     本島等(前長崎市長) 平和教育研究(24)(1997.4)

1.中国、米国に認められなかった原爆ドームの世界遺産登録

メキシコ、メリダで開かれた世界遺産委員会で、日本が推薦した「広島原爆ドーム」が世界遺産に登録されることに決定した。今回の登録は。米国、中国、日本、メキシコ、フィリピンなど21カ国の代表の合意で決定するものだった。「広島原爆ドーム」は原爆の悲惨さ、非人間性をすべての国で共有、時代を越えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として推薦された。しかし登録決定の過程で、米国と中国が不支持の姿勢を示した。
 米国は世界遺産登録に参加しない。「米国が原爆を投下せざるを得なかった事態を理解するには、それ以前の歴史的経緯を理解しなければならない」と指摘、「こうした戦跡の登録は適切な歴史観から逸脱するものである」と主張した。中国は「われわれは今回の決定からはずれる」と発言した。

このようなことは満場一致で、拍手の中で決定されるべきものである。
私は、この記事を新聞で見て日本のエゴが見えて悲しさと同時に腹が立った。
広島は原爆ドームを世界の核廃絶と恒久平和を願う、シンボルとして考え、米国、中国は日本の侵略に対する報復によって破壊された遺跡と考えたのである。どちらの考えが正しいかは、日本軍の空襲によって多くの人々がもだえ死んだ重慶の防空壕や、真珠湾の海底に沈むアリゾナ記念館が世界遺産に登録されたときの日本の心情を思えば「原爆ドーム」を世界遺産に推薦することは、考えなければならなかったことと思う。

アジア、太平洋戦争は90%中国と米国を相手とした戦いであった。両国の不支持はまさに「恥の上塗り」であった。アジア、太平洋戦争については日本と中国、米国の間には共通の認識と理解が成立していない。広島に大戦への反省とがあれば、世界遺産登録はなかったと思う。広島の被爆者たちは「核兵器廃絶のスタート地点に立とう、という世界の意志が読みとれる」と歓迎している。しかし中国、米国が核兵器廃絶のスタートに立たないと言ってるではないか。

「何よりも、原爆は、この国ではいつでもそうであるように、歴史、因果、責任さらには政治と権力から隔絶した記憶の中に自由に漂う、世界の悲劇的真実として扱われた。原爆投下の原因より、原爆の惨事そのものに関心を集中するこうした傾向は、第2次世界大戦に対する日本社会全体の態度を表している。このような態度のおかげで戦争責任を問われた時、日本はドイツより素直さに欠けるようになってしまった。」(1)註参照

原爆の惨害は多く語られている。しかし原爆投下の原因は語られることは少ない。私はここでそれを語らなければならない。広島は戦争の加害者であった。そうして被害者になったということを。


2.なぜ原爆は投下されたのか、なぜ原爆投下は喜ばれたのか

(1)日本の最重要軍事基地、広島
明治初年、徴兵令の公布と陸海軍の創設はその後の広島の街を規定するものだった。広島は陸軍第五師団がおかれ、明治政府は大陸への軍事的進出が国策となって、地理的に大陸との交通至便な広島を軍事上の重要拠点とした。そのため練兵場を始め陸軍の運輸、被服、食料、兵器、病院、監獄、陸軍幼年学校などの重要軍事施設が地域の広大な部分を占めるに至った。また広島港(宇品)は軍事輸送基地として大陸への出兵など重要な役割を果たすことになった。また各種の軍需工場は歩兵銃、大砲、弾薬、機械、タービン、造船などを生産した。

日中戦争後半は陸軍船舶司令部が出来、船舶兵団、船舶歩兵団がおかれた。特に陸軍第五師団(広島、山口、島根)は日清戦争、北清事変、日中戦争、太平洋戦争で常に先頭に立って戦った。青島出兵、シベリア出兵、満州事変、シンガポール占領など敵に大きな打撃を与えた。

広島は大型爆弾の投下を待つ状態になった。東京、大阪、名古屋を始め全国の中小都市まで瓦礫の山だったから。広島は強制疎開が行われ、学童疎開も実施された。広島市にB29、300機が来襲する想定のもとに、各河川に筏を設けて、避難の便に供し、浮き袋20万人分を市民に配布し、船艇を河川要所に配備し、罹災の折の食料の準備。火たきの準備、消防ポンプの増強、バケツ操作の訓練など。広島は日清戦争では大本営ができ、明治天皇は対清作戦の指揮をとり、帝国議会の仮議事堂が開かれ広島は臨時首都であった。(2)

日中戦争、太平洋戦争を通じて宇品港から中国大陸や南方に輸送される軍隊を見送った広島市民の「万歳万歳」の歓声は地面が揺れ動くようだった。日の丸の小旗をちぎれるようにうち振って軍隊の出撃に熱狂的に歓声の声を浴びせた、としより、主婦、娘さん、中学生、女学生、学童こそ数年のちの「被爆者」たちだった。(3)
 1941年(昭和16年)12月8日、広島第五師団は「マレーの虎」陸軍中将山下奉文を軍司令官とする第25軍の基幹師団として、近衛、第18両師団と共に、マレー半島のシンゴラに上陸し、ジョホールバル占領、ブキテマ高地を奪いシンガポールを占領、13万人の捕虜を虐待し、六千人から数万人を虐殺した。第五師団は凶暴なる殺人軍団であった。また広島の誇り、郷土のほまれだった。広島の若者、若い父親たちだった。

シンガポールの陥落は全国小学生の「日の丸」行進、夜は全国提灯行列でわいた。(4)
昭和二十年6月国民義勇兵役法が制定され、男子15歳から60歳まで、女子17歳から40歳まで義勇兵役に服することになり、各種婦人会、大政翼賛会、勤労報国隊、警防団、隣組、町内会などでまさに広島は戦争指導者と戦争協力者(小学生を含む)だけであった。また日本本土の防衛を二分して東京に第1総軍、広島に第2総軍の司令部がおかれ、広島は本土決戦の枢軸となった。
昭和20年6月、広島はそれ自体一個の巨大な軍事施設と化していた。
最重要軍事基地が最大の爆弾攻撃を受けるのは当然であった。

(2)アメリカ人たちの憤激
1941年12月初旬の数日間で、太平洋におけるアメリカの海軍力とスエズ以東のイギリスの海軍力は粉砕された。東南アジアにおける西欧諸国の領土支配は、すべて壊滅の脅威にさらされた。遠くオーストラリアやインド、さらにはアメリカの西海岸までが、新たな攻撃の的となりかねなかった。
 アメリカの戦略指導の責任者達が、真珠湾とフィリピンの敗北の打撃に加えて、とくにバターン半島陥落後に多くのアメリカ兵捕虜に対して加えられた理不尽な残虐行為のことを耳にしたとき、なおもこの戦略上の原則を守るかどうかは別問題だった。アメリカ国民の大多数もドイツよりも日本を「第1の敵」と考えた。

オーストラリアの1新聞の言葉を借りれば「この残忍な民族、武器の上でも欲の上でも兵士達を十二分に訓練した民族に、原子爆弾を使用することはまったく正しい。彼らは敗北を受け入れようとはしないから」
「シドニー・デイリー・テレグラフ」によれば、天皇は「われわれがその全滅にために戦った蛮行のシンボル」である。アメリカにおいても1945年7月、8月に行われた世論調査の結果では約三分の一が天皇即時処刑、約五分の一が監禁もしくは追放、現状のまま認めているのは3~4パーセントに過ぎなかった。

(3)原爆投下-アメリカの声明
アメリカ空軍機は日本の最重要軍事基地広島に原爆を投下した。爆弾の威力はTNT高性能爆薬2万トン以上の威力がある。日本軍は開戦に辺りパールハーバーを空襲したが、今や何十倍もの報復を受けたのである。太陽の熱源が極東を戦果の巷とした者を絶滅するために解放されたのである。(6)

(4)世界は、広島の原爆投下を喜んだ
<1>戦後フランスで最も活動的な作家ボーヴォワールの「レ・マンダラン」(1954)に作者とサルトルとカミュが登場する。3人は南フランスを旅行中新聞を買った。巨大な見出しで「米軍ヒロシマに原爆を投下す」
日本は疑いもなく間もなく降伏するだろう。大戦の終わりだ…各新聞は大きな喜びの言葉を重ねていた。しかし3人はいずれも恐怖と悲惨の感情しか感じなかった。「ドイツの都会だったら、白人種の上にだったら彼らも敢えてなし得ていたかどうか疑問だね。黄色人種だからね。彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」このようにフランスの新聞にとって原爆は大きな喜びであった。(7)
<2>シンガポールのセントサ島の「蝋人形博物館」の第2次世界大戦コーナーでは、広島の原爆雲と焼け野原の市街地の写真が展示されている。それも上下は天井から床まで、横幅はその2倍ほどの大きさで。それは他の展示物に比べて、ひときわ大きいものである。また他の展示物が戦時下のマレー半島とシンガポールのことばかりであるのに比べて異質なものである。なぜ広島の原爆投下が強調されるのか。
 1942年2月15日シンガポールは陥落し、3年8ヶ月日本軍に占領された。日本軍は華僑の抗日組織を探すために、シンガポールの華僑約20万人を集めた。検問する憲兵も各部隊から派遣された補助憲兵も中国語も英語も満足に話せなかった。当然の結果として検問はおおよそ出鱈目なものだった。日本側は戦犯法廷で華僑約六千人を虐殺したと言っているが、現地では数万人虐殺されたと言っている。
 シンガポールの人々にとって、広島の原爆は日本の敗北を決定づけ、自分たちを死の苦しみから解放してくれた「神の救い」であったことを意味している。(8)

(5)中国、方励之さんのことば(方励之-中国の反体制物理学者、天安門広場事件の後アメリカに亡命)
最初に原爆の歴史を目にするため私は広島に行った。資料館の配置は行き届いており、被爆後の惨状をよく復元している。原爆投下はまことに驚くべきものであった。6000度の高温、9000メートルものきのこ雲、強い高圧、大火と黒い雨、熱風。焼死した者、潰されて死んだ者、反射熱で死んだ者、即死し、次々に息絶えていった。このようなありさまに心を痛めぬ者があろうか。毎年8月6日ここで式典が催され、西欧人も参加し、平和を祈願する。

だが中国人である私は解説の最後の言葉をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。「戦争の名の下に大量殺人を許してはならない」-この言葉自体、間違ってはいない。しかしある種の日本人から中国人にむかって言われるべき言葉ではない。
 広島は明治になって軍事基地化した。瀬戸内海最大の軍艦製造所を持ち、日清戦争の前進基地とされた。戦争の名の下に中国人を殺すことはこの街から始まった。だから広島の壊滅は仏門の言葉で言えば因果応報なのである。
 もとより多くの罪なき者がこの報いにあったことはまことに悲惨なことである。けれど広島がこの100年の戦禍のうち最大の受難の地、最も心を痛めるに値する場所で、それゆえに平和のメッカ、ヒューマニズムを心から愛する聖地だというのであれば、私はやはり断固として首を横に振るだろう。なぜなら日本軍の爆撃によって、万にのぼる人がもだえ死んだ重慶の防空壕の跡、南京の中華門に今も目につく弾痕。中国こそこの100年間の戦争における最大の受難の地なのである。悲惨の程度においても悲惨の量においても。

にもかかわらず中国中どこに行っても平和記念公園は一つもない。1年に1度のための国際大会もない。慰霊の常夜灯もその前におかれた献金箱もない。もしかすると一つの民族も一個人もあまりに悲痛に過ぎると、泣くこともわめくこともしなくなると言うことがあるかも知れない。(9)


3.広島に欠ける加害の視点 峠三吉の「原爆詩集」を読んで

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

峠三吉は36年の生涯のうち、戦後わずか8年生きて、原爆の非人間性を告発し続けた原爆詩人の第1人者である。
峠三吉は誰にむかって「ちちをかえせ ははをかえせ」と言っているのだろうか。この詩を読んで私は日本軍が中国華北で繰り広げた「三光作戦」を思い起こした。日本軍は中国華北において特に1940年中国共産党、八路軍と「百団大戦」を戦い、大変な痛手を受けた。この戦いで日本軍は八路軍とそれを支える抗日根拠地の実力を知った。そこで抗日根拠地の討伐作戦を行い、村や集落を焼き払って「無人区」にした。その残虐さがあまりに凄まじいものであり、中国側はこれを「三光作戦-①殺光(殺しつくす)②焼光(焼きつくす)③槍光(奪いつくす)」と名付けた。(10)

-中国華北で-
私の部隊は毎日谷間に残る家を焼き払い、無人地帯から立ち退きに遅れた人々を射殺しました。ある時、谷間に一軒屋があるのを見つけました。家の中には年老いてやせ細った重病人と三人の男の子がいました。まず屋根に火をつけました。老人は焼け落ちる梁の下で焼け死にました。そのとき焼ける屋根の下で、ボロを着て裸足で恐怖に震え、立ちすくみ父母の名を呼んで、二人で泣きじゃくり、目は日本鬼子を見据え、銃弾を浴びて血しぶきを上げて吹き飛んだ死んだ幼い2人の男の子。(11)

-広島-
日本侵略軍の根拠地、最重要軍事基地広島に原爆が落ちて、熱と爆風と放射線でボロ切れのような皮膚をたれ、焼けこげた布を腰にまとい、泣きながら群れ歩いた裸体の行列。片目つぶれの、半身赤むけの丸坊主、水を求め母の名をつぶやきながら死んだ娘。(12)

この3人の子供の死はどちらが重かったのか。
峠三吉よ、戦争をしかけたのは日本だよ。悪いのは日本だよ。無差別、大量虐殺も日本がしかけたことだよ。原爆の違法性は言われているよ。しかし世界中原爆投下は正しかったと言っているよ。原爆で日本侵略軍の根拠地広島は滅び去った。広島、長崎で昭和20年8月から12月までに約20万人が被爆で亡くなった。
日本侵略軍に、皆殺し、焼き殺され、何の罪もない中国華北は無人の地となった。
1941年から43年までに247万人が殺され、400万人が強制連行された。(13)

「ちちをかえせ ははをかえせ なぜこんな目に遇わねばならないのか」
峠三吉よ、この言葉は親を皆殺しにされた中国華北の孤児たちの言葉だったのではないか。広島に原爆を落としたのは「三光作戦」の生き残りだったのではないか。


むすび

原爆の被害は人間の想像を越えるものであった。特に放射線が人体をむしばみ続ける恐ろしさ。しかし日本の侵略と加害による虐殺の数は原爆被害をはるかに越えるものであった。
 今我々がやらなければならないことは、中国はじめアジア、太平洋の国々に謝罪することである。心から赦しをこうことである。日本の過去と未来のためにも。
 しかし、そのための条件は、日本人が真珠湾攻撃について謝罪し、広島と長崎が原爆投下を赦すということである。怒りや悲しみは個人にとっても国家にとってもよいことではない。娘を殺された父親が相手を殺すというように、赦しえないことを赦す考え方、それが必要である。
広島、長崎は「和解の世界」の先頭に立つべきであろう。21世紀は「和解の世代」でなければならない。
核兵器のない世界への努力と「和解の世界」への努力は同一のものでなければならない。

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