武井正直氏と佐高信さん | 一撃筆殺仕事人:佐高信先生追っかけブログ

武井正直氏と佐高信さん

拝啓 佐高信様

「義理をつくると切っ先が鈍るという理由で1つの会社の主催する講演の依頼は受けないことにしている」 と公言されていたあなたが北海道のある証券会社主催のそれでこの23日に講演しているのを知ったときはちょっと驚きました。

札幌・投資普及講演会

■内容 「いま、日本を読む」

                                 講師: 評論家 佐高 信氏
    「証券投資を取り巻く環境と地場証券の役割」

            講師: 上光証券株式会社 代表取締役会長 木村 美太郎 氏

■開催日 平成19年10月23日(火)14:00~16:00(開場13:30)
■会場 札幌グランドホテル 金枝の間 札幌市中央区北1条西4丁目
http://www.jyokoshoken.co.jp/seminar/index2.html


その証券会社のことを調べてみたら日経新聞にこんな記事を見つけました。

上光証券、4期連続黒字に・新社長に松浦副社長
 道内唯一の証券会社である上光証券(札幌市)は、2007年3月期の税引き利益が5000万円程度となり、4期連続で黒字を確保した模様だ。昨年秋に16年ぶりの新規出店として証券会社の空白地帯だった北見市に支店を開設。松浦良一副社長(55)が社長に昇格する人事も固めた。トップ若返りによる新体制下で地域密着型の営業体制を強化する。

 木村美太郎社長(67)は代表権のある会長に就く。2代続けて北洋銀行出身者が社長となることで、北洋銀との関係はより緊密となりそうだ。黒字体質が定着した背景には北洋銀から顧客紹介などもあったという。

 顧客の多様な金融ニーズに対応するため地銀が地元証券と接近する「銀証連携」の動きが加速している。06年には長野の八十二銀行がアルプス証券(長野県上田市)を完全子会社化した。

 生き残り策を探る中で、北洋との関係にどこまで踏み込むかが、新体制にとっての焦点となりそうだ。

http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20070517c3c1700y17.html

これで合点が行きました。あなたの講演会を行った上光証券は北洋銀行系の証券会社だったのですね。
北洋銀行といえば少し前に相談役を退いた武井正直氏のことをあなたは時につけて褒め称えておられます。

たとえば2004年の高知新聞100周年記念事業の講演会で

「あのバブルの最中に、『こんなばかな状況が続くことはない』と、断固として融資をやらせなかった珍しい人がいます。」
5年前、私が札幌に行った時、私に会いたいというので会った。なかなかの人だった。
 「その武井さんに対し、当時の大蔵省銀行局のばかな官僚たちが、『もっと融資を増やせ』と何度も言ったそうだ。いかに官僚たちは時代を見通す哲学、目を持ってないかということだ。」

http://www.kochinews.co.jp/100kinen/100hakobune.htm

そして、先週のサンデー毎日「政経外科」でも北洋銀を退任されて東京に帰った武井氏に対して送られた送別の辞を集めた「武井会長と私」の出版のエピソードを引かれて「竹中平蔵は速く忘れたいが、武井氏のことは忘れてはならない。」と最大級の賛辞を送っておられます。
その武井氏相談役退任にあたって「拓銀破綻」について北海道新聞のインタビューに答えていらっしゃいます。
さすがにバブルを乗り切った名経営者で述べておられることが明快でありますね。

「いかなる時代も、金融の原点に立ち、原則に従って行動したところは生き延びるし、そうでないところは生き延びることができない。拓銀は、バブルに乗って業容拡大しなければ取り残されると思い、反動で不良債権を膨らませた。われわれは『バブルのような異常なことは長続きしない』という原則に従ったから、異常なことから手を引いたわけだ。土地投機もやらなければ株式投機もやらなかった」

http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/report/12666.html


そして、武井さんの略歴が書かれています。転載しますと


たけい・まさなお 1925年(大正14年)生まれ。陸軍予科士官学校を経て、旧満州(現中国東北地方)へ。50年に慶応大法学部を卒業し、日本銀行入り。青森支店長、考査局次長を経て78年、北洋相互銀行専務に就任。80年副社長、82年社長。89年の普通銀行転換に伴う北洋銀行への商号変更で頭取。2000年会長、05年から相談役。84年から04年まで北海道経営者協会会長、99年から2000年まで第二地方銀行協会会長も務めた。山梨県出身。


武井さんは旧帝国陸軍軍人で卒業後、すぐ満州にいかれたのですね。しかし、25歳のときに慶應法学部を卒業されていますから、戦後すぐ1946年には復員されて大学に入学されていることになります。


そこで満州での関東軍の話です。


たしか満州で関東軍は旧ソ連が参戦したときすでに主力を南方や本土に引き抜かれて、その兵員は在留邦人を現地召集によって動員したもので、装備、士気ともに劣っていたといいます。しかも関東軍はソ連参戦を見越して司令部を朝鮮国境付近に移し、満州防衛を放棄していた。軍の幹部たちは家族を連れてさっさと南に逃げた。関東軍は、開拓団を撤退させるとソ連軍に手の内が分かってしまうので、開拓団に何も知らせないままに前線に放置した。つまり、開拓団は置き去りにされ、その結果が葛根廟事件や庭山事件などのソ連軍の民間人大虐殺や集団自決、そして多くの残留孤児を生じせしめることになった。そのことは佐高さんはいつも話されることではないでしょうか?


そして「軍隊は国民を守らない。」というのが佐高さんのいつもの結論であるはずです。


そういう歴史の中で満州にいたはずの旧帝国陸軍軍人、武井正直氏はどういった経験をしたのか?道新インタビューの中で「バカな大将、敵より恐い」というのが戦争で知ったことだと武井さんは言われますが、馬鹿な軍隊のせいでいったいどれだけの国民が虐殺されていったのか、旧帝国軍人、武井正直氏はどう総括されていたのでしょう。佐高さんの武井さんへの賞賛はいつも同じです。しかし同じように中国での戦争体験者であり、中国での捕虜経験のある品川正治氏のことを賞賛されるときは、その平和主義をいつも言われます。武井さんはどうなのでしょうか?なぜ満州体験を質問されないのでしょうか?そのことを調べて、もしも武井さんが満州からいち早く脱出した関東軍将校の一人であったとしても別にいまの武井さんの業績がなくなるわけではありません。そして、わずか21歳の青年将校に戦争責任の一端を負わせることができるわけもありません。そして、一読者がインターネット時代だといえ武井さんの過去の軍体験が判るわけはなく、このことは詮索しようがありません。

なぜ、私がこういうことにこだわるのか、それは北海道の自衛隊がイラクに送られるときにこんな激励集会があったからです。


「イラク派遣自衛隊を激励する道民の集い」
     講師:志方 俊之 (帝京大学教授 元北部方面総監)


     来賓:石破 茂 防衛庁長官


        :武井 正直 北洋銀行会長


       自衛隊の方に安全千羽鶴贈呈します。
       また、普段自衛隊のPKO活動などのパネル展も同会場で実施されます。

     日 時:平成16年1月18日(日)午後1:00-3:00
     場 所:札幌市民会館大ホール 札幌市中央区北1西1
     入場料:無料

     主 催:日本会議北海道本部
http://www11.plala.or.jp/kitanosizume/jyouhou.htm


佐高さんは同じ年、この一週間前に日比谷で「自衛隊はイラクへ行くな!」1.11集会の発起人としてがんばっていらっしゃいましたね。
http://www.labornetjp.org/NewsItem/20040111m/


武井さんは「自衛隊はイラクでがんばれ!」集会、佐高さんが日ごろ嫌っている志方さんや石破現防衛大臣と同席。佐高さんと武井さんは180度意見が違うはずであります。
佐高さんは武井さんのこの行動をいったいどう思われるか、是非聞いてみたい気がしています。人間の評価、それはトータルなものでなくてはいけないのではないのでしょうか。武井さんの軍体験、平和観をふくめて。武井さんの都合の悪いところを突っ込めということではありません。それが評論家、ジャーナリストとしての本道ではないかと私は考えるからです。それから自身が公言されている原則を枉げたこと(特定の会社一社主催での講演)も佐高さんにあらぬ疑いをかけられてしまうのでしょうか。このことは是非検討をお願いします。

関連
クローズアップ現代について 破綻した第三セクターと北洋銀行についてのまったり人生さんの見解
http://ameblo.jp/sakaichi-blog/entry-10052298747.html



北海道新聞社, 道新=, 北海道新聞=
拓銀はなぜ消滅したか