サンデー毎日「政経外科」07年7月22日号 追悼宮澤喜一 | 一撃筆殺仕事人:佐高信先生追っかけブログ

サンデー毎日「政経外科」07年7月22日号 追悼宮澤喜一

佐高さんのサンデー毎日の連載「政経外科」の話題です。7月22日号で「異なる立場の者との対話を恐れませんでしたね-追悼・宮澤喜一 」としてさる6月28日に亡くなった宮澤元首相の思い出を語られました。


まず宮澤喜一さんに赤坂の「重箱」という店 でうなぎをご馳走になった時のことから佐高さんは思い出します。
そのときに佐高さんは石橋湛山を描いた「良日本主義の政治家」を出したばかりで、宮澤さんにそれを謹呈されたところ、朝日新聞の当時の若宮啓一論説主管と一緒に宮澤さんと席を共にすることとなったということでした。

佐高さんはいやというほど宮澤さんを褒めちぎります。安岡正篤の中国理解に疑義を持っていたこととか、城山三郎さんが宮澤さんに著書「イーストリバーの蟹」がアナトール・フランスのようだ、と言われたこととか。

そして佐高さんは宮沢さんが「異なるものたちとの対話を欠かさない」ことの証左として40代に書かれたという「社会党との対話」から引用します。
「社会党に政権を譲ろうとは思わないが、一つの党の長期政権はよいこととは思わない。」
「世論が9:1ならともかく6:4あるいは7:3のときは憲法を改正するべきではない。」
「国の法律の一番基本である憲法を改正を数の力で争う場合に生じる国内の分裂を考えただけでもそれだけの労に価しない。仮に押しきって改正が成立したとしてもそのような経過をたどった改正はその後の国民生活に到底定着しないであると思われる。」

宮澤内閣不信任案が成立したときに自民党を離党した田中秀征氏が挨拶に行くと
「何も言わなくても君の気持ちはわかる。僕が一番わかる。」と宮澤さんは田中秀征氏に言ったということに対して、佐高さんは「宮澤さんの率直さに私はひかれます」そして「安倍無軌道政治の荒れ狂う中何を考えて逝かれたのか」と佐高さんは嘆かれます。

これを読んで、さすがに言葉を失いました。佐高さんのコラムを最近読み始めた人ならばいざ知らず、ずっと前からの愛読者なら、それはないのではないかと感じるでしょう。

「評論家的無為無策の罪、平成の高橋是清とは片腹痛い。」
これは宮澤さんがバブル崩壊後の小渕政権で佐高信さんが首相経験者の宮澤元財務相を評していった言葉です。

この言葉は徳間書店から出版された「経済戦犯」という本にあります。

佐高 信
経済戦犯―日本をダメにした9人の罪状


佐高さんは昭和初期の金融恐慌のパニック心理を抑える為に74歳で首相経験者から初めて大蔵大臣に格下げ就任した、高橋是清の政治と宮澤さんのそれを比較して覚悟と能力において宮澤さんはまったく劣ると断定します。


高橋是清は田中義一首相に蔵相任命されてから42日間で難問を片付けて辞職しますが宮澤さんは就任時には「日本経済は破局に近い」などと評論家的な無責任なことを口走りだらだらと2年4ヶ月も座りつづけた、と佐高さんは憤ります。


そして宮澤氏は「平成の高橋是清」としてではなく、「宏池会(宮澤派)の財布」である長銀の後始末に大蔵大臣として再登場したのだと喝破しました。それは宏池会の創始者である池田勇人が創ったのが日本長期信用銀行(長銀)であり、その人脈は戦前から連綿と続き、破綻したときの元頭取、杉浦敏介氏と宮沢氏も大いに親しい間柄だったからです。


そしてここからが味噌です。(笑)
まったく同じエピソードが語られているのです。


「私が石橋湛山の評伝「良日本主義の政治家」(東洋経済新報社)を書いたときに、『宮澤さんも石橋湛山が好きだ』と、ある新聞記者(若宮さんですね)から聞かされ、拙著を送らせていただいたが、実に見事な礼状をいただいた。そしてその後、拙著のお礼代わりということで、その新聞記者の紹介でうなぎをご馳走になった。
 そのときにした会話は、安岡正篤についてであったと記憶している。日本の政治家は"精神安定剤"として安岡のような"魔物"を求める傾向があるが、宮澤はそれに対しては非常に否定的であった。
 宮澤は漢籍に明るいこともあって、安岡の言うことくらいは自分も知っているという自負もあったのだろう。又、同じ池田門下でありながら、そりが合わなかった大平正芳が安岡を持ち上げていたことに対する反発もどこかあったのかもしれない。
 いずれにしろ、政治家が安岡の様な特定の個人に判断をあずけるのはいかがなものかという私の持論に、宮澤が共感してくれていたことは確かだった。
 その後、田中秀征が自民党を出て『新党さきがけ』を創るときに、宮澤に別れの挨拶に行った。そして田中が『自民党という古い家を壊して、新しい家を建てなければならない』と宮澤に告げると、宮澤は『自分は古い家の住人だから・・・・・・・・・』と寂しそうに言ったという。
 このエピソードが宮澤という人、あるいは官僚だった宮澤という人を端的に表しているのではないだろうか。枠を壊せない人だ。という意味である。
 身近にあった『宏池会の財布』としての長銀、あるいはその長銀を仕切っていたドン・杉浦敏介という存在にメスを入れなければ改革はできないのであり、それを壊せなければ改革はできない。」


今週の「政経外科」とほぼ同じ話なのにこうまで違う結論になってしまうとは!!!!
その後も佐高さんは田中角栄元首相の宮澤評「秘書官としては最高だが、それ以上ではない。半玉(半人前)のようなものだ」を引きながら、宮澤さんはリフォームとして与えられたことはするが蛮勇をふるえない、そして常に言い訳のできる人でもある、と宮澤さんを批評します。

佐高さんも反対した、首相時(92年)に初めて言及した、銀行の不良債権への公的資金投入ができなかった事にしても、「(9億円も退職金を取るような長銀の杉浦敏介を斬るといった)蛮勇をふるえば国民は信頼した。」と宮澤さんの能力のなさを指摘します。

そして、森内閣時の「加藤の乱」の時も同じ宏池会の加藤紘一氏を自分自身に対する反乱だとして斬ったのだと宮澤氏の「耄碌ぶり」を断罪してこの批判は終わります。


さて、佐高さんの原理原則が「クリーンなタカよりダーティなハト」であるにしても、「蛮勇をふるわなかった」ことをけなせば、それは結果として「蛮勇をふるった」小泉元首相に対する結果的な賛辞になってしまうことを恐れたとしても、一時代をつくった同じ人間に対して、わずか6年の期間差でこうまで違う評価をするのはいかがなものかとは思います。
 佐高さんには宮澤さんのよいところを強調したかったのでしょうが、以前に批判していたことをおくびにも出さずにその人間の最後の評価とすることは疑問です。

この宮澤氏の停滞的な政策が後の小泉純一郎氏の登場を助けたのではないでしょうか?

佐高信さんの「死んだらみんな仏さん」的な追悼評論に対して、「死者に鞭打つ」宮澤批判をしているのが立花隆氏です
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070630_miyazawa/
佐高さんの大嫌いな日経BPサイトなんですが・・・・・・・・

追記「したたかに、しなやかに」という意見もあります。

http://mcrash-f2.workarea.jp/archives/2008/09/08/post-169.html


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