「ミステリアスセッティング」 阿部和重 2007-080
最近個人的に評判の良い阿部氏。
先月なんか月刊「後感」で1位になっちゃいました。
なんというか氏の作品って独特ですよね。
しかも癖になってしまう。
「ミステリアスセッティング」読了しました。
なんというか、シンセミア同様、この粘着質な感じが癖になります。
まず爺さんが登場し、その爺さんが子供たちに語る、音痴でお人好しで夢見がちな少女シオリを中心にした物語です。
こんな話、子供たちは理解できないだろうなという違和感はありますが、読み進めて行くとそんなこと忘れてしまいます。
で、ラストになって改めて(あ、これは爺さんが子供たちに語っていた物語だったんだ)と思い出し、やっぱり(子供たちにこの話は理解できないだろ~)と突っ込みたくなる物語です。
後半に至るまで、ずっとシオリのお人好しが故に、人に翻弄され騙され続ける半生が語られていきます。
前半は妹のノゾミに延々といたぶられ(理由は、シオリの泣き声が聞きたいから)、上京後の後半ではバンドのマネージャーとしてバンドメンバーに騙され続けます。
この辺りの描写については読み手の気持ち次第では、「いいから反撃しなさいよ」とか、「ここでこう考えなさいよ」とかイライラとしてしまうのですが、反面、「こんな娘なら、こんな事も起きちゃうよな~」というちょっと邪悪な心もふつふつと湧き出てしまいます。
要するに人の悪を浮き出させてくれるところがあるわけです。
しかもネチネチと。
で、そんなシオリの最大の転機は、「自称ポルトガル人のマヌエル」から渡されたスーツケース。
このスーツケースの登場から、一気にシオリの人生が変化していきます。
思わぬ重荷を背負ってしまったシオリは、それなりに行動を起こします。
ただ、ちょっと期待していた「今までの半生にあったことを復讐」するものでもないのです。
シオリ自身は、最後まで音痴でお人好しで夢見がちなのは変わらず、ある行動に出てしまう。
そう、この物語は一切の救済がない作品なのです。
一貫して救われない作品という意味では、言葉の通り救いようのない作品ということとなってしまいますが、これを文学として許容できることが大事なのではと妙に感じ入ってしまいました。
舞城王太郎は、あの圧倒的な文体で「救済」を書き、
戸梶圭太は、徹底的にエログロバイオレンスを貫き通し、
そして、阿部和重は、極めて正しい文体で粘着した人の悪を書く。
といった印象です。
これは、エライものを見つけてしまった。
先月なんか月刊「後感」で1位になっちゃいました。
なんというか氏の作品って独特ですよね。
しかも癖になってしまう。
「ミステリアスセッティング」読了しました。
amazonリンク |
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出版元 |
朝日新聞社 |
初版刊行年月 |
2006/11 |
著者/編者 |
阿部和重 |
総評 |
23点/30点満点中 |
採点の詳細 |
ストーリ性:4点 読了感:4点 ぐいぐい:3点 キャラ立ち:4点 意外性:4点 装丁:4点 |
あらすじ |
ある老人が語りはじめた、一人の少女の運命――ハムラシオリという、歌を愛してやまなかった女の子をめぐる、痛いほど切なく、あまりにも無慈悲な新世代のピュア・ストーリー。なぜ彼女だけが、苛酷な人生を歩まなければならなかったのか? この未知なる感動の物語は、21世紀版「マッチ売りの少女」として広く語り継がれるだろう。芥川賞受賞後に初めて書かれた、極限の純真小説。<<Amazonより抜粋>> |
なんというか、シンセミア同様、この粘着質な感じが癖になります。
まず爺さんが登場し、その爺さんが子供たちに語る、音痴でお人好しで夢見がちな少女シオリを中心にした物語です。
こんな話、子供たちは理解できないだろうなという違和感はありますが、読み進めて行くとそんなこと忘れてしまいます。
で、ラストになって改めて(あ、これは爺さんが子供たちに語っていた物語だったんだ)と思い出し、やっぱり(子供たちにこの話は理解できないだろ~)と突っ込みたくなる物語です。
後半に至るまで、ずっとシオリのお人好しが故に、人に翻弄され騙され続ける半生が語られていきます。
前半は妹のノゾミに延々といたぶられ(理由は、シオリの泣き声が聞きたいから)、上京後の後半ではバンドのマネージャーとしてバンドメンバーに騙され続けます。
この辺りの描写については読み手の気持ち次第では、「いいから反撃しなさいよ」とか、「ここでこう考えなさいよ」とかイライラとしてしまうのですが、反面、「こんな娘なら、こんな事も起きちゃうよな~」というちょっと邪悪な心もふつふつと湧き出てしまいます。
要するに人の悪を浮き出させてくれるところがあるわけです。
しかもネチネチと。
で、そんなシオリの最大の転機は、「自称ポルトガル人のマヌエル」から渡されたスーツケース。
このスーツケースの登場から、一気にシオリの人生が変化していきます。
思わぬ重荷を背負ってしまったシオリは、それなりに行動を起こします。
ただ、ちょっと期待していた「今までの半生にあったことを復讐」するものでもないのです。
シオリ自身は、最後まで音痴でお人好しで夢見がちなのは変わらず、ある行動に出てしまう。
そう、この物語は一切の救済がない作品なのです。
一貫して救われない作品という意味では、言葉の通り救いようのない作品ということとなってしまいますが、これを文学として許容できることが大事なのではと妙に感じ入ってしまいました。
舞城王太郎は、あの圧倒的な文体で「救済」を書き、
戸梶圭太は、徹底的にエログロバイオレンスを貫き通し、
そして、阿部和重は、極めて正しい文体で粘着した人の悪を書く。
といった印象です。
これは、エライものを見つけてしまった。