251 「大誘拐」 他の誰もが到達し得なかった娯楽映画の呼吸 | ササポンのブログ

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とりあえず
この映画評を読む前に
レンタル屋にいって
この映画をレンタルしてください。

まっさらな状態で観たほうが
この映画の
楽しい驚きが
より楽しめますから

ネタバレもしますから

ペタしてね

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この映画、
最初から
独特のシバリがあった。

誘拐映画であるが
普通の誘拐にあるように
人質の命がどうなるか・・というサスペンスは使えない。

なぜなら

北林谷栄の演じる柳川とし子が
殺されるわけがない・・
観客のほとんどが思っている。

それは
物語上の必然と言うよりは
そんな映画のわけがない・・という
暗黙の了解が
観客の中にある。

なぜなら
北林谷栄である。
彼女が殺されるような映画であるわけがない。

それはもう絶対的に観客にはわかっていた。

これは
誘拐映画にとって
有効な武器がひとつ、失ったことになる。
ま、
殺されたら、それはそれで物凄いショックだろうが・・。



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そうなると
もう
この映画の武器は
北林谷栄演じるとし子のキャラと
緒形拳演じる井狩県警本部長のキャラ勝負となる。

このふたりのキャラ
そして
演じたふたりの役者。

この映画の成功の最大要因は
これである。


まずは
とし子のキャラだが
驚かせるのは
その頭のよさである。
正直
その頭のよさは尋常ではなく
普通ならリアリティがない。
普通なら・・。

しかし
そこが
北林谷栄の恐ろしさである。

あの小さな
小さな老女の全身から
知性があふれ出て
その声色から
意志の強さと
優しさが
にじみでるのだ。



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その存在自体で
物語にリアリティを与えるという点では
緒方拳も同様だ。

そのしぐさ、表情で
感情の動きをすべて表現して見せる。


この物語のキモは
とし子が
リーダーであることを
緒方拳演じる県警本部長
どこで気がついたか・・と
いうことであると思う。

その気づきを
セリフでは表していないが
緒方拳の表情を観れば
わかるようになっている。

これは
もう
監督が
役者を信じていなければできないわざだ。

それがどこであるかは
観た人が見つけてください。


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さらに
この映画のシバリは
悪人がひとりも出てこない・・ということである。

誘拐映画で
誰も悪くない。
それでいながら
サスペンスでなくてはならない。
喜劇でありながら
緊張感がなくてはならない。

これはかなりの難問であります。

この難問に答えられるのは
喜八監督しかいない。

なぜなら
サスペンスもアクションも
そしてもちろん
喜劇も
緊張感も
おふざけも
なんでも撮れて
なおかつ
北林谷栄と緒方拳を
がっちりと演出できる度胸とキャリアがある。

こんなひとは
当時でも
喜八監督しかいなかったであろう。

東宝繋がりなのでよく引き合いに出してしまうが
喜八監督に「天国と地獄」は撮れるかもしれないが
黒澤監督に「大誘拐」は絶対に撮れないと断言できるのだ。




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この映画の公開当時に
犯人役の3人の役者としての技量不足が
言及されたが
それは
別の役者にも言えることで
北林谷栄と緒方拳と比べたら
他の役者はすべて技量不足に見えてしまう。

さらに
喜八監督は
このふたりのまわりを中心に
他の役者がドタバタと走り回る・・という
画面構成を取った。
特に
緒方拳の近くに
巨大な嶋田久作を意図的に置いた。

凸凹な構図は
いかにも
喜八監督らしい。

そして
とし子の後ろには
犯人の3人を立たせる。

それは
明らかに
とし子がリーダーであることを
構図で見せている。

ふたりのまわりの役者は
もう走り回って
物語を進めるという役回りなのだ。



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この物語
映画で表現するのは
本当に難しい。

明らかに
荒唐無稽な話の
どこをリアルに
どこを誇張して
どこを
速く
どこをゆっくりと描くか・・。

それは
もう
恐ろしいほどの計算が必要だ。

この映画をもう一度観るときに
この緩急の呼吸を
気をつけて観てください。

老練とも違う
かといって
巨匠の風格とも違う
喜八監督だからこそ達した
空前絶後の娯楽の真髄が
見えてくるはずであります。

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